用明天皇皇后 穴穂部間人皇女 用明天皇皇子 推古天皇皇太子 聖徳太子 磯長墓 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
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【平成27年3月14日(土)参拝】

用明陵のあとは叡福寺の穴穂部間人皇女と聖徳太子の御廟、磯長墓へ。

宮内庁により、大阪府南河内郡太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳」が墓所に比定されている(聖徳太子御廟・磯長陵 しながりょう)。ただし、後世に定められたものとする説もある。日本書紀には磯長陵とあるが、磯長墓と呼ばれることもある。穴穂部間人皇女膳部菩岐々美郎女を合葬する三骨一廟である。
しかしながら宮内庁が治定しているのは、なぜか聖徳太子だけなんです…。

格式からいうと皇后の方がずっとずっと格上なのに聖徳太子だけが治定されてるのは何か確固たる根拠があるのでしょうか?



この二天門をくぐると聖徳太子御廟が凜とそびえ立つ。


金剛力士像がお出迎え!


さすがに鳥居は無い…。




菊の御紋がまぶしい!(他の陵墓には無い)


内部には3基の棺が安置されていて、中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆棺(麻布を漆で貼り固めた棺)には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られているとされる。


阿弥陀三尊らしい。






ここ太子町のマンホールは全て「和を以って貴しと為す」の文字が刻まれている!

                                             遠くにPLの塔が見える!

穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ、生年不詳 - 推古天皇29年12月21日(622年2月6日))は、飛鳥時代の皇族。欽明天皇の第三皇女。第31代用明天皇皇后。母は蘇我稲目の娘・小姉君。同母弟に穴穂部皇子・崇峻天皇がいる。穴太部間人王、孔部間人公王、間人穴太部王、鬼前太后とも称す。聖徳太子の生母として知られる。

聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))は、飛鳥時代の皇族、政治家。厩戸皇子または厩戸王の後世の呼称。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。
推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。

膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ、? - 推古天皇30年2月21日(622年4月7日))は、飛鳥時代の女性。聖徳太子の妃。膳大娘(女)、高橋妃などとも書かれる。
推古天皇6年(598年)聖徳太子の妃となる。四男四女を生んだが、そのうちの舂米女王(つきしねのひめみこ)は異母兄である山背大兄王の妃となった。聖徳太子には信頼され、太子は「死後は共に埋葬されよう」と言ったと伝えられる。推古天皇30年(622年)聖徳太子と共に病となり、太子が亡くなる前日(旧暦2月21日)に没した。聖徳太子の墓所である磯長陵(しながりょう)に合葬された。

(参考文献:ウィキ抜粋)

【平成27年5月30日(土)追記】
飛鳥、橘寺付近にある聖徳太子生誕の地。







【平成27年5月31日(日)追記】

太子・和みの広場にある聖徳太子墓石棺レプリカ



                                           叡福寺で頂いた御朱印。