今回の参詣は、板橋の観明寺内にある豊川出世稲荷神社へ。



ここは江戸時代、日本橋を起点に中山道最初の宿場町である板橋宿があった地域。

その板橋宿は、現在の本町が「上宿」、現在も住居表示として残る仲宿がそのまま「仲宿」、板橋駅西口側が「下宿」と三つあり、上宿と仲宿の境目が石神井川、仲宿と下宿の境目がここ観明寺だった。







山門先の駐車場から熱い視線。







呼んでなどまったくないのにこのさま。

この間の綾瀬観音寺、深沢八社大権現、江戸川明福寺(いずれも未掲載)同様、黒猫それもなぜか野良猫に好かれる。







炎天下で左足を背もたれにして休むのは勘弁してほしい。







さて、ネコにかまっていたせいで、当寺に伝わる加賀藩下屋敷の赤門をすっかり撮り忘れ。

江戸時代には観明寺のすぐ後ろに、22万坪という桁違いの超広大なお屋敷があって、その通用門として使われていた。明治になって屋敷跡に陸軍造兵廠が建設された際、当寺に稲荷と共に移築された。







調べてみると、ピンク色の部分が加賀藩前田家の下屋敷(おおよそ)。東京ドームが1万4000坪だから、ざっと15倍。お屋敷の端から端まで最も長い所は約1.4km。

さすがは加賀百万石のお殿様、とは思うものの、これだけ社会的地位と影響力のあった当主ですら侯爵で、百姓生まれの総理大臣が公爵なのだからあの時代はどうかしている。




御由緒 不動通り商店街振興組合の掲示より



如意山観明寺


真言宗豊山派で、室町時代の創

建。本尊は正観音菩薩。入口

に寛文元年(一六六一年)に建

立された庚申塔がある。

境内の豊川出世稲荷と赤門は、

かつて加賀藩下屋敷にあったも

の。明治時代には、宿場の賑わ

いを回復しようと成田山のお不

動様を勧請し、縁日を開いて繁

栄した。







豊川出世稲荷神社


当稲荷は、お寺の中ではあるけれど、板橋区教育委員会の掲示及び観明寺案内に「稲荷神社」とあったので、そのまま神社とした。







稲荷自体の御由緒は無かったが、教育委員会の掲示によれば、加賀藩下屋敷にあった稲荷社三つの内の一つが当社だという。

日本橋浜町の笠間稲荷神社の回 で、牧野家屋敷に稲荷が二つあったと触れたが、どうも大名屋敷の庭には稲荷社を幾つか祀ることが良くあるようだ。同じ稲荷なのにわざわざ分けて、別途お社を造っていた意味も今後わかる時が来るだろうか。








彫刻


少々見づらいけど、天上の鷹、頭貫は鶴かな。そしてちょっと珍しいと思われる、木鼻の龍。木鼻と言えば獅子や獏で、中央に龍を置くのが一般的。







六地蔵菩薩


境内右側に安置。

六地蔵は、天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六道をそれぞれ守護するお地蔵さま。

一体一体に名前があるとは知りもしなかった。

右側より、堅固慧菩薩(天上能化)、持地菩薩(人間能化)、宝印手菩薩(修羅能化)、宝処菩薩(畜生能化)、宝掌菩薩(餓鬼能化)、地蔵菩薩(地獄能化)。







御本堂


外からは覗くこともできないが、本尊は正観世音菩薩像。脇本尊に不動明王を安置。

豊島八十八ヶ所の内の八十八番札所。板橋七福神では恵比寿を祀る。




御由緒 境内掲示より字体改行などそのまま記載


観明寺案内


山号  如意山観明寺

本尊  正観世音菩薩(区有形文化財指定)

脇本尊 不動明王(通称出世不動尊)

宗派  真言宗豊山派

総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬

祖師  宗祖 弘法大師(空海)

     中興祖 興教大師(覚鑁)

     派祖 専誉僧正

開宗  真言宗は、平安時代初期に弘法大師によって、中国

     からもたらされ、わが国で開宗されました。

教え  大日如来を中心とした曼荼羅思想などです。

稲荷神社 もと加賀屋敷内三稲荷の一社

庚申塔 寛文元年(一六六一年)青面金剛の像を刻む

     都内最古(区有形文化財指定)

赤門  もと加賀屋敷内通用門

板橋七福神 恵比寿神

札所  豊島八十八ヶ所 第八十八番

行事  不動明王縁日(毎月一日、十五日、二十八日)

     節分会追儺式(二月三日)








本堂手前には正観音と不動明王。







庚申塔


参道にあり。

寛文元年(1661)に造立された庚申塔で、青面金剛が彫られたものとしては都内最古の例となる。




御由緒 境内掲示より字体改行などそのまま記載


 当寺は、真言宗豊山派の寺で、如意山観明寺と称し

ます。御本尊は正観世音菩薩です。創建年代は暦応元

年(一三三八)と伝えられていますが、不明です。『新

編武蔵風土記稿』には、延宝五年(一六七七)十月に入

寂した慶浄が中興開山とあります。江戸時代、板橋宿

の寺として、多くの人々の信仰を集めました。

 明治六年、当時の住職照秀和尚は、町の繁栄祈願の

ために、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請

しました。現在も出世不動と呼ばれて親しまれてい

ます。なお不動通りの名称は、このお不動様に由来

します。

 境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に

祀られていた三稲荷の内の一社で、明治になって陸

軍造兵廠が建設された際、当寺へ遷座されました。

 また参道入口にある庚申塔は、寛文元年(一六六一)

八月に造立されたもので、青面金剛像が彫られたもの

としては、都内最古です。昭和五八年度に板橋区の指

定有形文化財になりました。


 平成十二年六月

 板橋区教育委員会







都内最古のこの庚申塔が1661年製。民間で庚申待ちが広く行われるようになったのが江戸時代になってからだというので、この庚申塔はその初期のものに限りなく近い歴史的なものなのかもしれない。






写真はすべて、2016.9.4 撮影


備考

社号 豊川出世稲荷神社

祭神

創建

祭日

末社

社務所

所在地 東京都板橋区板橋3-25-1

その他 如意山観明寺境内

      元加賀藩下屋敷の三稲荷のひとつ