養行寺~静御前の塔(墓)~ | みな1824 ~ハートに今を刻もう~

みな1824 ~ハートに今を刻もう~

  ★ 気ままに好きなこと好きなものを書いてます ★
    

こんにちは。

今日も良いお天気ですね。

えっと、その3です。

前橋市三河町にある「養行寺」

ここには、静御前の墓と伝わる塔があります。

みな1824 ~ハートに今を刻もう~

【静御前】

以下、ウィキより

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

『吾妻鏡』によれば、源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行するが、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻される。

吉野で義経と別れ京へ戻るが、途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。

同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。

静は、しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)。

と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。

『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。

この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じる。
閏7月29日、静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、

静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子を取り上げて清恒に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。

9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。

その後の消息は不明。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

みな1824 ~ハートに今を刻もう~

東側の山門から入ってすぐ、右手側に石柱があります。

みな1824 ~ハートに今を刻もう~

その奥に静御前の塔(六層塔)があります。

みな1824 ~ハートに今を刻もう~

こちらが本堂。

みな1824 ~ハートに今を刻もう~

本堂の左側には「鬼子母神」

みな1824 ~ハートに今を刻もう~

あ、説明が書いてあります(しかし群馬県民かるたが好きねw)

みな1824 ~ハートに今を刻もう~

ふぅん、だから群馬だけど『三河町』っていうんですね!

やっぱり家康の影が色濃いですねー関東だからねw

家康って、源氏だったのですよね?確か。

敷地内はとても奇麗にしてあり、たくさんのお花が咲いていました。

みな1824 ~ハートに今を刻もう~

みな1824 ~ハートに今を刻もう~

みな1824 ~ハートに今を刻もう~

みな1824 ~ハートに今を刻もう~

みな1824 ~ハートに今を刻もう~

その後、静御前は義経を追って上野国前橋までたどり着きましたが

奥州平泉の地は遠く病に倒れ没したと伝わります。

奇しくも、母の常盤御前も、愛妾の静御前も

義経に会いたい一心で奥州に向かい、この前橋の地で没しているなんて!

お2人とも、全国各地に墓や伝承が残っていますし、あくまでも伝承ですが

なんとなく信じてしまいそうになります。

みな1824 ~ハートに今を刻もう~

また、群馬県は大阪府と並んで「静」姓が多く存在するのも事実。

静御前との繋がりは…?

歴史って、ミステリーを読んでいるよう。。