~愛の賛歌~ コリント人への第一の手紙13章 | みな1824 ~ハートに今を刻もう~

みな1824 ~ハートに今を刻もう~

  ★ 気ままに好きなこと好きなものを書いてます ★
    

最近の結婚式場は教会が併設されているか、近くに教会があるなど


必ずと言っていいほど教会がついてます。


青い海の見えるチャペルや高原の中のチャペルなどで式を挙げる


リゾートウェディングや海外挙式なんかも増えていて、人気も高いですよね♪


また、結婚式は教会で挙げるもの、って考えるカップル自体が多いのかも知れません。



そこで、ちょこっとお話を。


キリスト教の結婚式で、牧師さんが誓約を求める時こう言いますね。


「あなたは○○と結婚し神の定めに従って夫婦となろうとしています。


あなたは、その健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け


その命の限り、堅く節操を守ることを約束しますか?」



この誓約の言葉の中に、結婚における愛の本質が示されているように思います。


相手が「健やかな時」は、自分にとっても良い状態で好ましく思います。


その時に愛することは自然なことですね。


しかし「病む時」は自分にとっても都合が悪く、疎ましく感じることさえあります。


そのような時でも愛していかなければならない。


つまり、愛し得難い時でも、なお愛することが求められているのです。


これは、人間の自然的な愛ではなく、より高次元な愛でなければ無理です。



ギリシャ語で「愛」を表す言葉の中で最も一般的なのは「エロース」


今日では「性愛」を示すものとして理解されています。


「エロース」とは、対象の価値を追求する愛、自分を中心とした自分本位の愛といった感じです。


それと、新約聖書独自の用語で「アガペー」というものがあります。

これはイエス・キリストの十字架によってしめされた「神の愛」を表すものです。


「アガペー」とは、無欲の愛、無報酬の愛、無私の完全な犠牲愛といった感じです。



結婚の愛の場合は、自己中心的な愛だけでもないし、かといって犠牲愛だけでもない。

両者が清いエロースの中で交わって「自己成就」と「自己犠牲」がうまい具合に1つに


溶けあって成り立つものではないだろうか?


「奪うこと」(自己成就)と「与えること」(自己犠牲)この2つのモチーフが1つに融合したもの。

結婚生活に必要な「夫婦の愛情」とは、この2つの愛が総合されたものではないか?と考えます。



コリント人への第一の手紙13章「愛の賛歌」と呼ばれています。


たとい私が、人々の言葉や御使い達の言葉を語っても

もし、愛がなければ私はやかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

たといまた、私に予言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、

また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ私は無に等しい。

たといまた、私が自分の全財産を人に施しても、また自分の身体を焼かれるために渡しても

もし、愛がなければ、いっさいは無益である。


「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない

自分の利益を求めない、いらだたない、恨みを抱かない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。

そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

愛はいつまでも絶えることがない。


~~~中略~~~


このように、いつまでも存続するものは「信仰」と「希望」と「愛」と、この3つである。

このうちで最も大いなるものは「愛」である。