ガラテヤ4:6

あなたがたが子であることは、神が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実からわかります。


休みになると、あちこち、体の状態が悪くなるのです。今年は、まだましですが、日頃の疲れで腰、首がこっていて、寝違えをしてしまい、手や足までつるという有様です。痛くて怠いです。


教会の奏楽者が、しんどいという理由でしばらくお休みになり、先週、今週とオルガンを急に弾くことになりました。三十代の後半になって趣味でピアノを始めたのですが、うっかり牧師にそのことを言ってしまい、オルガンを弾くことになった訳ですが。


オルガニストがいなくなったのでヒムプレイヤーでしようかという話しになりそうでしたが、それはあんまりなので急でしたが、オルガンを引き受けました。


しかし、今週は、運悪く、寝違えで首が痛くて怠かった中でオルガンを弾くことになってしまい、手に痛みが走る中、演奏しました。


痛みの故、だんだん手が動かなくなり、本当に、「お父さん!」と叫ぶ心がありました。


練習したのにちゃんと弾けなくて悔しい思いをしましたが、弾き終わってから、もっとすごい痛みが襲ってきて、この痛みの中で奏楽させてくださったことはむしろ、感謝なことだと思いました。


神さまは、わたしたちが困難の中にいるとき、私たちが生きていけるように、困難を軽くしてくださいます。私たちが耐えられる苦しみは、神さまを忘れないで神さまを呼び求める恵みに預からせてくださいます。


それは、私たちがお父さんと叫ぶときに、神さまの相続人としての自覚をくださるからです。


だから、いつも、神さまを叫び求める心が与えられていることに私は喜びを感じます。


イエスが十字架の上で、父よ!と叫んだ同じ思いが私たちに与えられているのです。


とは、いうものの、まだ、首が痛いので早く治ってほしいですがo(><)o。





イザヤ49:4-5
わたしは思った/
わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。/しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である。


主の御目にわたしは重んじられている。/わたしの神こそ、わたしの力。



今年に入って、仕事に教会に忙しくなり、blogをする時間がなかなかとれません。忙しいだけで、結構、毎日は、楽しく、充実しています。元気に働かせていただいていることに感謝しています。blogを書くのも、書かなければと思うとしんどいので時が与えられたら書くようにしています。時に任せて流れるままに生きています。必要なものはみんな神さまが下さるので安心なんです。


そう思っていても、不安になるのですね。一生懸命、走れば走るほど、自分の思いが強いほど、思い通りに行かないとき、なんか空しくなってしまいます。そのとき、自分は駄目なんだと自分で自分を裁いたり、人の性にして人を責めてしまいます。


失敗したら、自分や人を必要以上に責めず、神さまに未来を任せて、とりあえずいい案がなくても、今、できることだけをしたいと思います。自分や人を裁くとエネルギーが要るので疲れてしまうからまあ、いいかと思うようにしています。

いい加減に生きるのも生きる知恵かもしれません。


自分のすべての思い、いいものも、嫌なものも、どうしようもないものもみんな、あっていいと思う今日このごろ。


こんな私を重んじてくださる神さまに感謝。
旧約聖書続編 バルク書3:33

その方が光を放つと,光は走り,

ひと声命ずると,光はおののいて従う。

星は,おのおの持ち場で喜びに溢れて輝き,

その方が命ずると,「ここにいます」と答え,

喜々として自分の創り主のために,光を放つ。 

この方こそ私たちの神であり,他に比ぶべきものはない。



ンフルエンザの感染予防のために,今日から学校が休みになりました。今日は,授業をしに,車で学校に向かっている途中に連絡が入り,来週の水曜日まで一斉休暇になりました。この休み中は,不要な外出は避けないといけないそうです。念のため,電車やバスに乗るときはマスクをしております。それでも,どれくらい予防になるのかは分からないですし,かかるときはかかってしまいます。一番いいのは,無理をせずに,規則正しい生活をすることでしょうか。ストレスがあり,疲労していると,免疫力が下がってしまいます。
最近,忙しい日が続いていたので少し家でゆっくりできそうです。


さて,今日の箇所は,旧約聖書続編というところからです。教会によっては,続編を使用しないところもあるので,旧約聖書に続編があるのかと思う方もいらっしゃるかもしれません。私の教会では続編も読まれます。その続編の中のバルク書というところからです。この箇所は,私が好きなところです。


最近,「くれよんのくろくん」という絵本を読みました。なかなか意味深い絵本です。クレヨンたちが,画用紙にそれぞれ思うがままの絵をかいていくのですが,くれよんのくろくんだけは,仲間はずれにされてしまいます。くろは,絵を黒くするからいらないと他のクレヨンたちに言われます。くろくんはシャーペンのお兄さんに慰められます。そのうちに,クレヨンたちは,「自分が自分が」と言い出して,喧嘩になります。シャーペンのお兄さんがくろくんに何かを言います。くろくんは,みんなの描いた絵を真っ黒にしてしまいます。しかも,くろくんの頭の形が変わってしまうまで真っ黒にしてしまいました。みんながくろくんのしたことに腹を立てます。そこで,シャーペンのお兄さんは黒くなった絵を削っていくと,綺麗な花火ができあがりました。自分たちの絵が花火になって,くれよんたちは大喜びし,くろくんを仲間はずれにしたことを謝りました。


人は,誰かの影響を常に受けて自分がどんな人なのかをある程度自分で評価しています。自分のキャラというか役割を演じて生きています。しかし,残念ながら,自分の周りの集団にはルールーがあり,そのルールにそぐわない人を否定的に評価します。たとえば,家族でも,親の価値観で子どもを評価してしまいます。親の価値観から離れると,子どもに否定的な評価を知らず知らずに与えてしまい,それが,子どもの心を支配します。そうすると,その基準に合わない自分を自分で裁くようになっていきます。「完璧でありなさい」というメッセージを受けると,子どもは,完璧であろうとします。しかし,完璧でない自分を発見するとき,その思いこみの性で,自分を否定的に評価するようになります。これは,親だけでなく,学校,職場,さまざまな集団で起ります。


自分を否定的に評価しすぎて,それを駄目なもの,不要なものとして排除するときと,多くの場合,人は心が病んでしまいます。でも,その評価は,周りの人からの言葉に支配されて思いこんできたものが多いのです。ある意味,自分の律法といえるかもしれません。律法に沿った生き方ができれば,人は,自分の役割自身を自分自身そのものと思いこみます。くれよんたちの最初の姿かもしれません。そのうち,自分が認められることに精一杯になり,他者のことなどどうでもよくなってきます。競争社会の典型です。だれかを差別して自分を正当化していくという自己中心性が芽生えるからです。

くろくんは,そういう集団のあり方の犠牲者になりました。くろくんがみんなの絵を真っ黒にしてしまったのは,くろくんの責任というより,そうさせてしまったクレヨンたちの心のあり方にあるように思います。本当は,人は,自分でどんな役割を果たすか,自分が何者であるかは,究極のところ分からないのです。くろくんの命がけの塗り絵のおかげで,自分たちが花火になれたのです。くろくんは命がけで,みんなをそのままで美しい花火にしたのです。


だから,私の役割を知っているのは,究極神様で,私の存在の意味は神様」しか知らないのです。それと同時に,他の人も同様だと思います。何かの役割を果たすことを目的とせず,存在を丸ごと受け止めるということこそ神の国なんだと思います。私たちには自分がまだわからない役割があり,ただ,今,存在させていただいていることに喜んでいたいなあと思います。