片山杜秀氏の卓抜で面白い音楽批評を集めた『音盤考現学』(ARTES・2008年)の中には、《幻の作曲私塾》というチャプターがあって、作曲家呉泰次郎氏(1907-1971)のことを取り上げている。ちなみに呉泰次郎という人は、片山氏によれば「日本でおそらく最初にヴァイオリン協奏曲(1935年の第1番イ短調)を書いた作曲家」だそうである。


***以下引用***

 (前略)

 呉の作風は、生まれ育った中国、あるいは日本の民族的要素も一部取り入れているが、基本的にはドイツ・ロマン派の影響が強く、創作分野としてもドイツ音楽の影響を受けて交響曲を重んじ、番号付きのそれを八つか、もしかしてそれ以上作った。(中略)その他の主要作品としては、ワーグナーばりに上演に四時間も要する歌劇《ロサリア夫人》、ピアノ協奏曲第三番《英雄の生涯》、ヴァイオリン協奏曲第三番《花》、《チェロと木魚と管弦楽のための一章》、管弦楽序曲《天山南路を越えて》、交響詩《ブラジル》などなど。このように呉はなかなか大作志向の管弦楽作家なのである。

 そしてそんな作曲の業績の他に、呉を語るうえで忘れてならないのは、作曲教育者としてのまことにユニークきわまる活動だ。たとえば朝日新聞の創業者、村山龍平の孫娘で、大阪国際フェスティヴァルの運営などに活躍した村山未知(美知子)と團伊玖磨の対談を読むと、こんなくだりにぶつかる。


團  小さいときから音楽がお好きだったでしょう。

村山 はい、好きでした。

團  ご姉妹とも作曲なさいましたね。

村山 はい、おもちゃみたいな作曲。

團  いや、ぼくは演奏うかがいました。中央交響楽団(現在の東京フィル)を指揮なさるのも日比谷公会堂でうかがいました。

村山 ああ、まあ、恥ずかしい。

團  ガッチリしたオーケストラの曲があったのと、それから歌曲をお書きになったでしょう。昭和14.5年ですね。

(團伊玖磨『かんゔぁせいしょん・たいむ――團伊玖磨音楽的対話集』音楽之友社、1969年)


 ちょっとビックリする内容ではないか。戦前に、たぶんまだ十代かそこらの少女が、日比谷公会堂で自作のオーケストラ曲をプロ・オケを指揮して披露するなんて・・・・・・。じつはここに呉泰次郎が関係している。

 呉は東京音楽学校を卒業後、しばらく母校の選科で教えていたが、やがて学校と衝突してやめ、以後はみずから開いた音楽私塾での教育活動に力を尽くすようになった。しかもその塾のカリキュラムは、ピアノやらの手ほどきなんてところにとどまってはいなかった。その内容は音楽理論、指揮法、作曲法、管弦楽法にまでおよび、さらに彼は生徒に、それらの勉強の成果を集約するにかっこうの作業として、彼の傾倒するドイツ・ロマン派の流儀に従っての交響曲や協奏曲などの制作を求めたのである。もちろん楽式、和声、オーケストレーション・・・・・・、場合によってはさまざまな面で師の呉が補助することはあったろうが、とにかく生徒は建前としてはあくまで自力でシンフォニーやらを作ったのだ。まさに恐るべき私塾! 今日ですらそんなことをやっている音楽教室なんてめったにあるまい。

 しかも呉は生徒に作曲させるだけでなく、昭和12年からしばらく毎年、日比谷公会堂で発表会を開き、生徒のオーケストラ曲をまとめて初演させていた。

 (後略)

***引用終り***


 そういえば、たしか、昔に読んだ指揮者・大町陽一郎氏のエッセイ集「楽譜の余白にちょっと」(新潮社・1981年)の中で、大町氏が少年時代に呉氏の音楽教室でシンフォニーや管弦楽のためのマーチを作曲して、自分でオーケストラを指揮して発表した話が紹介されていたような覚えがある。今、手元にその本がないので内容はうろ覚えだが、大町氏が後にベルリオーズの「ラコッツィ行進曲」を初めて聴いたとき、その曲想やオーケストレーションが、自分が子どもの頃に呉氏から指導されつつ作曲したオーケストラのマーチとそっくりだったのでビックリしたと書かれていたと思う。おそらく、柔軟で吸収力にすぐれた子ども時代に、ドイツ・ロマン派の流儀の何たるかを大町氏は呉氏から徹底して刷り込まれたのだろう。だから、成長した大町氏が後年、ドイツの巨匠指揮者カール・ベームに傾倒、師事したのも、ある意味では必然な流れだったのかもしれない。


 片山氏の本を見るまで、呉泰次郎という作曲家のことを特に意識したことはなかったが、つくづく面白い人だなと思う。


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