藤原洋のコラム

~デジ田応援団、仙台市CDO補佐官、女川原発訪問、新大手町90%超、国葬儀、JCC20周年~

 

 間もなく2022年が終わろうとしています。今年の1年を振り返りますと、やはり「2月24日のロシアによるウクライナ侵攻の年」だったと思います。何故、「ウクライナ侵攻の年」だったかというと、少なくとも戦争抑止力の仕組みとして東西の国連常任理事国(5カ国)であった訳ですが、その一国が戦争を始めたという予測不能な事象が起こった年だからです。また、国連総会のロシアへの非難決議に中国が棄権したという事実です。

 最早ルールとしての戦争抑止力は機能不全に陥った年でした。予測不能な事象が起こることが当たり前になった今、企業経営はどうあるべきなのでしょうか?私は、この特筆すべき2022年をこれから企業にとって、必ず非常事態が訪れるという前兆であると捉えております。その結果、企業経営者に求められる能力は、「非常事態における対応力」であると考えております。「非常事態における対応力」のある企業経営とは何なのか?結論から言えば、如何なる事態になろうとも、「企業の持続可能性」があるということになります。では、「企業の持続可能性」とは、何なのか?という視点から、2022年を振り返ってみたいと思います。

 

(1)    一般社団法人デジタル田園都市国家構想応援団の設立と代表理事就任

本年2月18日に岸田政権の成長戦略である新しい資本主義の中心を担うのが「デジタル田園都市国家構想」です。本政策は、第二次安倍内閣において2014年に始動した「地方創生」に関わる立法、予算化などの延長線にもありますが、政策名も異なると共に、その実現手法も大きく異なります。

デジタル田園都市国家構想のコンセプトをひと言で言うと、「デジタルのチカラで地方に新産業を興す」ということだと思われます。すなわち、「デジタル」が必須条件として取り入れられたことです。また、2014年と2022年の差は、コロナ禍の中ということで、「テレワーク」や「リモートワーク」が定着した中での政策であることです。換言すると、「デジタル」による「ポストコロナ」時代に適合した、地域における新産業創出を促進する政策だということです。

同政策は、内閣府に設置された、「デジタル田園都市国家構想実現会議」(関係閣僚と有識者で構成)が具体化施策を立案・決定しますが、中央官庁を事務局とするトップダウン組織では、現場(自治体)を動かすのに限界があるのではということです。そこで、自発的に自然発生したのが、一般社団法人デジタル田園都市国家構想応援団です。同応援団は、プロ野球の私設応援団のようなもので、デジ田構想を実現するための民間企業を事務局とするボトムアップ組織です。私の親しくしていた人々が、偶然、この自然発生的にできたデジ田応援団の中心メンバーであったことから、私に代表理事就任の依頼がありました。私の問題意識は、日本の社会課題を突き詰めると、「デジタル化の遅れ」と「首都圏一極集中」の2つだったので、これを解消する行動には大いに賛同するという立場で引き受けることとしました。こうして2月18日衆議院議員会館で設立総会を開催しました。

 その後、デジ田応援団と自治体との共催で、各地域でのイベント開催を継続しております。同応援団は、デジ田構想を実現する「全国自治体」と「民間企業」の「官民連携のプラットフォーム」として、デジタル田園都市国家構想を実現するために不可欠な官民連携のために、自治体と民間企業が自主的に結集して設立したもので、現在、66の自治体パートナー、79社の法人会員、478人の個人会員で活動して交流しています。自治体との共催イベントとしては、4月5日に東京都大田区と連携して「頑張る自治体へのイノベーション提案会&交流会」、5月28日に万博首長連合と連携して「大阪・関西万博に向けたデジタル田園都市国家構想と公民連携による地域メタバースの可能性」、8月26日に佐賀県と連携して「官民事業交歓会〜佐賀xデジ田ローカルハブ挑戦者」、10月13日に仙台市と連携して「デジタル時代の東北のHUB・仙台」を開催しました。

 私が代表理事を務め、活発に活動することで、地域の新産業創生に貢献したいと考えております。また、地域の新産業創生の中心となるのが、地域DXセンターであり、当社グループのビジネスチャンスにしたいと考えております。

 

(2)    仙台市CDO補佐官就任

 私は、かねてよりインターネット業界の業界団体で経済産業省と総務省の共管の一般財団法人インターネット協会の理事長を務めております。その中の下部組織として、OIC(オープンイノベーションコンソーシアム)を設立し、インターネット・テクノロジーによる産学連携のオープンイノベーション活動をしております。その際、私から設立発起人をお願いした大学が、北海道大学、東北大学、東京大学、東京工業大学、一橋大学、早稲田大学、慶應義塾大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学です。その中で、東北大学が世界をリードする放射光実験設備を2023年末に稼働させるので参与になって欲しいという依頼がありましたので引き受け、東北大学と仙台市が連携したスーパーシティコンソーシアムのアーキテクトに就任した関係から4月から仙台市CDO(Chief Digital Officer)補佐官に就任することとなりました。仙台市は、政令指定都市ですが、この規模の自治体の現場において、DXがうまく推進できれば、デジ田構想の実現に向けて大きな推進力になると思い、就任を引き受けることとしました。現在、1回/月に約1時間の予算計画のレビューなどを行っていますが、日本の自治体の抱える課題と問題を洗い出し、その解決に向けて知恵を出すことは、とても大切なことだという実感を持って臨んでおります。

今年のこの活動の集大成として、去る10月13日には、仙台市とデジ田応援団共催イベントでは、私と郡和子仙台市長の挨拶の後、私と東北大学の青木利文副学長の講演と、9つの分科会では、仙台市役所の担当者の方が全て入り込んで、民間企業と共に発表と議論に参加しました。

 

(3)    東北電力女川原子力発電所見学と電氣新聞コラム執筆

 5月19日に東北電力に2024年に東日本では初めて再稼動予定の女川原子力発電所を案内して頂きました。同発電所は、1から3号機まであり、1号機は廃炉予定、2・3号機は同型でそれぞれ82.5万kwの電気出力があります。現在、2号機を2024年に再稼働させ、その後、3号機を再稼働させる計画で、今回は3号機を原子炉建屋とタービン建屋を見学しました。2つが稼働すると宮城県全体で必要な電力の3分の2を供給出来るとのことでした。

 さて、重要なのは、2011年3月11日14:46に東日本大震災が日本を襲った時の対応でした。その後、遅れてやってきた大津波の影響で東京電力福島第一原子力発電所の周辺は未だに復興と程遠い状況にあります。でも東北電力女川原子力発電所は安全に停止し、現在も安全に再稼動を待っている状況にあります。

 早期の復興を遂げた理由は、東北電力と東京電力の津波に対する備えの違いがありました。

 私は、20代の後半に原子力発電所の通信制御装置(制御棒制御装置、制御棒位置指示装置、計測制御信号の多重伝送装置:私が設計したのは福島第2発電所2号機と4号機ともんじゅ、事故は福島第1発電所なので無関係ですが)の設計と構内情報通信システム(LAN)の設計を行っていましたので、福島と女川の何処が違うのかに大変興味を持っていました。

 今回、大変詳しく、説明して頂きました。当時、地球物理学者と土木工学者による電力会社の経営層への提言は、869年の貞観地震の文献や記録によると10mをはるかに超える津波がやってくることに備えるべきというものでした。これは、プレートテクトニクス理論に基づき太平洋プレートが日本列島付近で沈み込む時に溜まる歪みエネルギーが約1000年の時を経て、放出されることによります。

3回にわたって東北電力の経営陣は科学者、技術者の提言に耳を傾け、想定される津波の高さに修正を加えました。一方、東京電力(当時)の経営陣は、標高0mに高さ5.7mの防潮堤で十分だとしました。結果的には、15mの津波に襲われ、地震の揺れには耐えましたが、福島第1発電所の非常用電源は地下に設置されており、水没して稼働しませんでした。地震の揺れで外部系統電源が停電したため、原子炉の緊急停止後、通常運転の再循環系ではなく、安全保護系のポンプを非常用電源によって冷却し続ける必要がありますが、水没のため冷却できずに空焚き状態となりメルトダウン(炉心溶融)が3つの原子炉で発生したのでした。

 東北電力の姿勢の素晴らしさは、科学技術への敬意だけではありません。地域社会へ寄り添う姿勢です。壊滅的な停電状況を3日で80%世帯を復旧、3カ月で全エリアを復旧させました。写真集にも入れましたが、発電所内体育館を住民避難所として提供、また、医療機関の電気系統確保に尽力されたことなどです。

また、世界三大漁場の1つ三陸金華山沖、ノルウェー沖、カナダニューファンドランド島沖のうちの1つを汚染させずに守った東北電力女川原子力発電所でした。

東日本大震災の被害の特徴と女川原子力発電所の果たした役割としては、宮城県の犠牲者の方々は、約18000人中10000人超で、岩手約5800人、福島約1800人をはるかに超える大災害地域だったことです。その中での女川町は、犠牲者比率が8.68%と県平均の0.46%をはるかに超える大災害地区だったということです。次が南三陸町4.77%、山元町4.29%、東松島市2.68%、石巻市2.47%となっています。そんな大災害地域にある原子力発電所が行うことは、安全に停止し、また、発電所設備を避難所として提供していたことだったのです。

 今年5月の東北電力女川原子力発電所の見学を通じて、企業の社会的責任を改めて感じました。非常に厳格なルールに基づき、放射線線量計を付けて、稼働していない3号機の中まで入りました。何重にも管理され、衣服を着替えての見学を通じて、出会う人々同士が挨拶し、きめ細かい、安全標語が、現場で作成して掲示されていました。

 標語の作成者は、記名されており、東北電力の社員の方も当然ありますが、協力会社の人々の作成文が多いことに感心しました。所長によると、東北電力社員が600人、協力会社の人々は3600人だそうです。現場には電力会社も協力会社も同じ仲間だとのことでした。地域と現場を大切にする姿勢は、特に社会インフラ企業には、重要なことだと再認識した見学会でした。

 私は、このことを電氣新聞(電力業界紙)に毎月1度コラムを書いているのですが、女川原発見学記を書かせて頂いたところ、大きな反響がありました。というのは、ロシアのウクライナ侵攻によって、世界のエネルギー事業は一変しました。エネルギーコストの急騰など人々の生活環境も企業の経営環境も大きく変化しました。当社のデータセンター事業も半ばエネルギー産業の様相を呈してきたため、エネルギー業界との連携は最重要事項となっていると強く感じた今年の出来事でした。

 

(4)   新大手町データセンターの契約率90%超

本年7月20日に当社の最新鋭のデータセンターである「新大手町サイト」が、契約率90%を超え開設3年10か月で満床に近づく」という発表をさせて頂きました。そこで、今回は、その背景について述べてみたいと思います。

 https://www.bbtower.co.jp/ir/pr/2022/0720_002156/

 

●71日に開催された『JPIX創業25周年』記念シンポジウム

 思い起こせば2022年7月は、ことの外感慨深い月となりました。というのは、7月1日に、日本インターネットエクスチェンジ株式会社(以下、JPIX)の『JPIX創業25周年』記念シンポジウムが開催されたのでした。このJPIXこそ、「新大手町サイト満床に近づく」という発表の起源となるもので、創立が25年前の出来事なのでした。ここでのIXとは、インターネットエクスチェンジの略で、「インターネット・トラフィックの交換を可能とする相互接続ポイント」のことで、AS(後述)を有するISP(Internet Service Provider、通信キャリアなど大手インターネット接続事業者)が伝送されるインターネット・トラフィックの交換を行う拠点です。これによって、各々のISPに加入している人々同士の電子メールが相互に届く訳です。

 JPIXは、日本初の商用IXサービス提供会社として、1997年7月に、KDD(国際電信電話株式会社、現KDDI)と当社筆頭株主のIRI(株式会社インターネット総合研究所)との発起設立で18社の合弁会社として始動しました。現在では、当社はJPIXをIRIから継承し、KDDIに次ぐJPIXの2番目の株主として同IXの運用を受託しています。記念シンポジウムでは、当初設立に関わった産業界を代表して私が、学術界を代表して村井純教授が記念講演を行いました。
 その後のパネルディスカッションには、NTT系のIX=JPNAP(2001年5月~)を運営するインターネットマルチフィード株式会社の外山勝保副社長が参加されました。ここでは、IXの地域展開の可能性や、アジアにおいて、日本、シンガポール、香港において、日本とシンガポールのトラフィックと接続AS数(後の解説参照)が伸びており、香港が落ち込んでいるということが話題となりました。また、ソフトバンク系IX=BBIX(2003年6月~)を運営するBBIX株式会社の池田英俊社長も参加されました。

 当社の新大手町サイトの最大の特長は、これら3つのIXが全て接続点を有しており、日本で最もインターネット接続性に優れたデータセンターであるといえます。

 当日は、77ページのプレゼンテーション資料を用い、以下の目次でお話させて頂きましたが、主なものを示させて頂きます。

目次:
1.自己紹介
2.日本初の商用IX=JPIXの役割
3.インターネットとSDGs
4.これからのJPIXへの期待

 

 IXの前に、インターネットの動作原理を説明します。インターネットとは、各組織が所有するネットワークであるAS(自律システム)が相互に接続された集合体です。ASは「Autonomous System」の略で、統一された運用ポリシーによって管理されたネットワークの集まりを意味し、BGP(Border Gateway Protocol)というドメイン間ルーティング(経路制御)プロトコルにより接続される単位となります。このAS間で経路情報の交換をおこなうことにより、インターネット上での効率的な経路制御を実現します。ASは16ビットの数字を用いたAS番号によってインターネット上で一意に識別され、日本ではJPNIC(一般社団法人日本ネットワークインフォメーションセンター)が割り当てと管理を行っています。
 固有のASを持たない組織がインターネットに接続するには、インターネット回線を経由して、企業や個人向けにインターネットに接続するサービスを提供しているASを有する「ISP(インターネットサービスプロバイダ)」に接続する必要があります。通常、規模の大きいISPのネットワークは固有のASを形成しているため、ISPを窓口にすることによって他の組織と通信できるようになります。
 そこで、インターネットエクスチェンジ(IX)とは、「インターネット・トラフィックの交換を可能とする相互接続ポイント」です。ISPやコンテンツプロバイダー、ホスティング事業者、クラウド事業者など様々な事業者がインターネットエクスチェンジで接続され、トラフィック交換を行っています。インターネットエクスチェンジを利用しない場合、各事業者はお互いに個別の回線を準備し、相互に通信可能な環境を作り出す必要があります。インターネットエクスチェンジに各事業者の接続点が集約されることで、インターネット上の通信がスムーズかつ安定的に維持されるのです。

「新大手町サイト」が契約率90%超の意義について

 新大手町サイトは、当社が2020年代のモバイルインフラとなる5G時代のインターネットインフラを支える拠点となることを目指し、5Gモバイルの特徴である、超高速(10Gbps)・超低遅延(1msec)・超多地点同時接続(100万点/k㎡)をコンセプトに開設した、当社の最新鋭の基幹であるデータセンターです。大手町地区において、新世代のビジネス環境・都市モデルの具現化を目指し進められた大規模再開発事業の一翼を担う最新鋭のデータセンターとして、政府入札を経て2018年8月に開設しました。
 大手町地区は、前述の如く、その起源は日米インターネット・トラフィックを運ぶために、旧KDD大手町ビルに開設されたインターネットの相互接続点であるインターネットエクスチェンジ(IX: Internet eXchange Point)が集中する日本のインターネットの中心地です。数多くの金融機関・情報通信・メディア企業などが拠点をおき、また、国内外のクラウド事業者も多数進出するなど、事業者間の接続性に優れているインターネットの聖地なのです。

 当社は、設立以来、大手町地区をデータセンター事業の中核地としてとらえ、設立初年度の2000年7月に「第1サイト」を開設、翌年2001年にはJPIXの拠点を誘致し、インターネットエクスチェンジ(IX)との接続性を確保するなど、その地の利を最大限に活用し、事業を行ってきました。現在では、「第1サイト」・「新大手町サイト」においては、日本を代表する三大IX (JPIX、BBIX、JPNAP) へ構内での接続や、Amazon Web Services (AWS)、Microsoft Azure、Google Cloud Platform (GCP)などのメガクラウドとの閉域網接続を実現、「ネットワーク接続に強い」データセンターとして、高い評価を受けております。本センターの特徴を評価頂き、多様なインターネットへの接続を必要とするインターネット企業、通信キャリアに加え、製造業など今後のインターネット利用が加速化している顧客との契約が中心となっております。そして、既存顧客の拡張性を残しつつ慎重に顧客獲得を行い、開設から3年10か月で90%超が契約済みとなりました。

 そこで、いよいよ「ポスト新大手町」戦略を立案し実行するフェーズとなりました。今後の市場ニーズに応えるために、当社独自のハイパースケール&リージョナルデータセンター&エッジ・データセンター事業を展開してまいります。このようにデータセンターの大規模化と地域分散化を推進するにあたり、当社ならではの「新大手町モデル」ともいうべきトラフィック集中型データセンターの特長を活かした展開を行ってまいります。具体的には、当社の強みを活かし、当社にはない役割を担うパートナーシップ企業との連携を強化することで、「新大手町モデル」をコアコンピタンスとした事業展開を行っていく所存であります。

 

(5)    安倍晋三元総理の国葬儀への参列

 9月初旬に、安倍晋三元総理(1954年9月21日~2022年7月8日)「国葬」の招待状を受け取りました。国葬の招待状を受けるのは初めてのことです。戦後は、一般人の国葬は、吉田茂氏以来ということなので、初めてというのは当然のことかもしれませんが、私なりの弔意*(後述)を込めて参列させて頂きました。

 同い年で5日早く生まれた安倍晋三氏が急にこの世を去られたショックは、岸田文雄総理の決断を促し国葬となりました。私が、感じたことは、友人代表の菅義偉前総理の言葉に全てが含まれていました。自由・民主主義・人権を重んじるべき日本社会にあって、「無念」という感情だけが残りました。

 意見の違う人は当然いるはずです。だからこそ意見をぶつけ合う仕組みが必要です。なのに、意見を封じることにエネルギーを使うこと、法律というルールを無視して反対意見を封じること、あってはならないことだと改めて思いました。

 とにかく、今回は、私と同い年であり、何度か交流もあったことから、まだ若いのにこの世を去ることになってしまった、故安倍晋三元総理の「国葬」に参列させて頂いた際に多くの思うところがありました。

 安倍氏と初めてお会いしたのは、小泉純一郎政権の副官房長官の時でした。その際、周りの人々に「必ず総理になる人」と言われ、その通りになりました。いわゆる政界のサラブレッドという雰囲気でした。

 その後、お会いしたのは、「美しい日本」を掲げられた第一次安倍政権が1年を経ないまま、その後も短期政権としての福田康夫政権、麻生太郎政権を経て、失速して下野された直後でした。この頃執筆した、私の著書『科学技術と企業家の精神』(2009年岩波書店)を謹呈したところ、とても丁寧な感想文を頂きました。
 この頃の安倍氏の科学技術への関心の強さは、総合科学技術会議(その後、第2次安倍政権で2014年に総合科学技術・イノベーション会議に改名)へと繋がっていったと認識しております。
エピソードをお話すると、私が20代の頃、ご一緒に制御用コンピュータの開発プロジェクトを行った9年先輩の中西宏明氏(当時私は、制御用コンピュータの回路設計、中西さんはOS設計を担当、その後、日立の社長、会長、経団連会長、2021年6月27日逝去)と私とは、私が、ベンチャービジネスに移った後も、よく連絡を取り合っていました。中西さんは、総合科学技術会議の中心メンバーで、安倍氏のブレインでもあり、科学技術政策の中心的役割を担っており、Society5.0の提唱者でもありました。
 この間、中西氏を通じて、安倍政権の科学技術政策には、関わりを持つことができたと思っております。中西氏には、私の著書『日本創生戦略』(2018年PHP研究所)の帯に推薦を頂きましたが、Society5.0にも少し触れて欲しいというリクエストを頂き、あとがきに追記させて頂いた思い出があります。

 その次に、安倍氏とお会いしたのは第2次安倍政権発足後ですが、「アベノミクス」を掲げられて、私もビジネススクールで教えている立場でもあり、かなり熱心に研究しました。アベノミクスの3本の矢(異次元の金融緩和〔現在も継続中〕、13兆円の財政出動、成長戦略(民間投資を牽引する規制改革等)ですが、私は、科学技術を基本とした3本目の矢に大変強い関心を持って来ました。しかしながら、2本目までは放たれましたが、3本目の矢は、まだ途上だと思われます。

 結果的に株価は上がりましたが、所得は増えませんでした。その根本要因は、3本目の矢が「道半ば」であることだと思っています。「道半ば」なのは、実は、政府ではなく産業界なのではと思っております。

 成長とは、産業が成長することであって、政府に依存することではありません。ムーアの法則をはじめ技術革新は継続中であるため、古いルール(官の規制よりも業界規制が問題)を変えて、時代にあった新しいルールを創ることも含めて、政府依存から脱却して産業界主導、民主導の成長戦略を立案実行することかと思われます。アベノミクスの「道半ば」でこの世を去られた安倍さんへの弔いは、民による成長戦略の立案実行ではないかという思いで国葬に参列させて頂きました。

 

 

(6)    JCC創立20周年

 今年の最後の話題として、JCC20周年についてお話させて頂きます。

 ジャパンケーブルキャスト株式会社(JCC)は、2002年10月に、JSAT株式会社〔現スカパーJSAT株式会社〕のスピンオフカンパニーとして誕生しました。本年、20年が経過しました。このたび、東京ドームホテルにJCCの顧客企業を中心に約300人が集結し、盛大な記念パーティとなりました。

 

当社(BBTower)の連結子会社になったのは、5年前の2017年10月のことでした。なお、5年前から私がJCCの代表取締役を兼務しております。

 私自身は、以前からインターネットをケーブルテレビ業界に啓蒙・普及活動を行ってきたことから、JCCの創業以来社外取締役を務めてきましたので、本年の20周年には感慨深いものがありました。

 それでは、JCCの20年の歩みを簡単に辿ってみることにします。

・2002年10月会社設立JSAT株式会社〔現スカパーJSAT株式会社〕のスピンオフカンパニーとして創業

・2004年4月 ケーブルテレビ事業者向けデジタル多チャンネル配信プラットフォームサービス「JC-HITS」提供開始

・2007年5月 ケーブルTV事業者向けセンター配信型データ放送サービス「JC-data」提供開始

・2009年4月 ケーブルテレビ専用チャンネル「チャンネル700」配信開始

・2009年8月 JC-HITS東京メディアセンター(東京都品川区)開設

・2009年8月 HDチャンネル地上配信サービス開始

・2011年4月 「JC-HITS」を衛星配信サービスから光回線地上配信サービスへ完全移行

・2014年6月 4K試験放送を開始

・2015年11月 ケーブルテレビ事業者向け「ひかりTV with CATV」提供開始

・2015年12月 株式会社NTTぷらら(現NTTドコモ)と業務・資本提携

・2017年2月 小規模自治体向けIP告知システム発表(現在北海道の9自治体採用)

・2017年10月 株式会社ブロードバンドタワーのグループ入り

・2018年10月 沖縄ケーブルネットワーク株式会社の全株式を取得し子会社化

・2021年11月 北海道テレビ放送とHybridcast を活用し、テレビ放送画面で自治体情報を配信

・2022年10月 沖縄ケーブルネットワーク株式会社株式の70%を株式会社TOKAIケーブルネットワークに譲渡

 

以上、JCCの20年の歴史の中で、現時点での主力事業は、多チャンネル放送番組コンテンツを光ファイバ網を通じて全国のケーブルテレビ局へ配信することですが、BBTowerグループ入り後は、インターネット関連サービスが徐々に増えてきています。そして地域DXを担う企業へと成長させようとしております。

さて、20周年記念パーティですが、最初に私が、ご挨拶を行いました。その後、以下の方々にご挨拶を頂きました。

・一般社団法人日本ケーブルテレビ連盟 理事長 渡辺克也氏

・一般社団法人 衛星放送協会 代表理事 小野直路氏
・株式会社TOKAIケーブルネットワーク 代表取締役社長 鈴木光速氏
・株式会社秋田ケーブルテレビ 代表取締役社長 末廣健二氏
・ブロードメディア株式会社 代表取締役社長 橋本太郎氏
・伊那ケーブルテレビジョン株式会社 代表取締役社長 向山賢悟氏
・日本デジタル配信株式会社(JDS)代表取締役社長 高秀憲明氏

・総務省情報流通行政局衛星・地域放送課長 安東高徳氏

 

 私からの冒頭の挨拶の概要は、以下の通りです。

ようこそJCCの20周年記念パーティへおこし下さいました。

20周年を迎えることができたのも今日お集まりの皆さまのお蔭です。人間で言うと、まだ、20歳になったばかりですが、今日お集まりの先輩企業の皆さまに学ばせて頂いてきました。後で、ご挨拶を頂くJDSさんは、2000年の創業で、いつも目標にさせて頂いてきた企業です。その前には、全国でケーブル局を運営されているJ:COMさんは1995年創業、その前には、都市型ケーブルテレビが始まった時代で、1983年創業の東急ケーブルさん(現イッツ・コミュニケーションズ株式会社)、1984年は、後でご挨拶を頂く、秋田ケーブルさんと伊那ケーブルさんが創業されました。

では、その前は、というと、長野県など都心の地上波の電波を山の上で受信点が見つかると、温泉よりも価値があり(笑)、石油が出たようなことで、都会の地上波を有線テレビで配信するというモデルが誕生しました。1971年にLCV(諏訪)さん、1973年にテレビ松本さん、そして後でご挨拶を頂くTOKAIケーブルさんの前身の焼津ケーブルが1977年に創業されました。では、いつからケーブルテレビが始まったかというと、1955年の伊香保温泉地区での共同受信サービスです。でもケーブルテレビがあるだけでは、価値が増えません。後で、ご挨拶して頂く東北新社さんは1961年、ブロードメディアさんは1996年創業で、当社の生まれるずっと以前から今日の基盤を作ってこられました。さらに今日ご来賓の皆さまが切り拓かれた歴史を辿ると、NHKさんは、1926年、また、現在のKDDIさんの前身のKDDは1925年の設立ですし、NTTさんの前身の逓信省は1890年に通信事業を始められました。皆様が刻んでこられた歴史と比べると、JCCの20年の歴史は、まだまだ浅く若い企業です。

JCCは、若さゆえに、未来へ向かってデジタル分野に集中するつもりです。そして、デジタル田園都市国家構想に凝縮されている、日本の社会課題、すなわち、「デジタル化の遅れ」と「首都圏一極集中」を解決するために、今日お集まりの皆さまと共に、新事業の地域DX(デジタルトランスフォーメーション)に取り組んでいきたいと考えております。

 

●おわりに

 以上に述べさせて頂いたように、2022年はロシアのウクライナ侵攻に始まった、激動の年でした。冒頭述べさせて頂いたように、企業に求められる能力は、「非常事態における対応力」であると考えております。「非常事態における対応力」のある企業経営とは、如何なる事態になろうとも、「企業の持続可能性」があるということになります。今年の様々な局面で多くの方々との連携の可能性について示させて頂きました。結論として、「企業の持続可能性」とは、業界内の「競争力」であることは事実ですが、業界を超えた「協調力」ではないかと考えた次第であります。来年も様々な業界の皆さんとの連携について具体例をお知らせできる機会がありますことを祈念して2022年を振り返ってのお話を終わらせて頂きます。

 

2022年12月28日
 代表取締役会長兼社長CEO
 藤原 洋