ベイのコンサート日記

ベイのコンサート日記

音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

秋山和慶東京交響楽団を指揮したブルックナー「交響曲第4番《ロマンティック》」は本当に素晴らしかった。不思議なことにこれだけ長く秋山の指揮に接してきたにもかかわらず、彼のブルックナーはこれまで聴く機会がなかった。演奏機会も多くないのではないだろうか。

今年のフェスタサマーミューザでは梅田俊明の指揮するブルックナーの第7番に心底感動したが、秋山のブルックナーも朝比奈隆、飯守泰次郎を継ぐ日本を代表する演奏であり、世界にアピールできる内容だと言えるだろう。

 

秋山の指揮は正攻法中の正攻法。余計なことは一切しない。作為的な誇張もなければ、奇をてらう解釈もない。真正面からスコアに向き合い、作曲家の書いたとおりに忠実に演奏しているように思える。細部まで目が行き届いており、緻密で誠実で一点一画を疎かにしない。しかも若々しい活力に溢れている。

 

東響は弦も木管も金管もティンパニも秋山を心から尊敬する念が感じられる気持ちの入った、集中力に満ちた全力の演奏。音は磨き抜かれた美しさ。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、クラリネット、オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、テューバ、ティンパニ、どの奏者もこれ以上はないと思うようなベストの演奏を繰り広げた。

 

特に印象に残った箇所は以下の通り。

第1楽章

冒頭のホルンが緊張を感じさせつつ、出だしから快調。第1主題の頂点も若々しい表情。チェロの第2主題が充実の音。全合奏による第3主題は風格がある。

展開部の第1主題が力強い。活力があり引き締まった響き。厳かなコラールのトレモロが実にきれいに響く。そのため神聖さが際立つ。再現部直前の癒すような弦とフルートのソロの美しいこと!

再現部は徐々に盛り上げていき、どっしりとしている。コーダの荘厳さ、格調は年季の入った指揮者でなくては出せない壮大さ。昭和時代のオーケストラも思い出す懐かしい響きと重厚さでもあった。

 

第2楽章

ピッツィカートに乗せて弾かれるヴィオラの副主題の意味深い響きが素晴らしい。澄み切った音は東響のヴィオラならでは。クラリネット、フルートによる鳥のさえずるような動機が神聖さを感じさせる。主要主題の展開は喜びにあふれる。最後に主要主題が盛り上がるクライマックスは雄大。

 

第3楽章スケルツォ

「狩りのスケルツォ」はホルンをはじめ東響の集中力が全く切れず、むしろ高まるばかり。秋山の指揮も冴えわたり、活力にあふれた生き生きとしたスケルツォが繰り広げられる。

トリオの清らかな弦が素晴らしい。

スケルツォの再現は、火の玉のように突き進む。

 

第4楽章

序奏に続き、力強く登場する第1主題は、畏怖は感じないが、誠実さに溢れた響き。

第2主題も同様に細やかで職人的に奏でられる。

進軍する第3主題もきっちりとした金管により力強く響く。

 

展開部も演奏は引き締まり、清らかさと優しさと楽しさとともに、充実の演奏が繰り広げられた。

ワーグナー《ニーベルングの指環》の「魔の炎の音楽」が聞こえる第4楽章再現部冒頭は圧倒的な力強さ。

コーダの弦の6連符、3連符のトレモロの美しさも絶品。金管の総奏も見事なアンサンブル。最後に第1楽章冒頭のホルンの高らかな音に導かれ、ティンパニとともにフォルティシモの全管弦楽締めくくられる一撃は巨匠ならではの重みのある響きだった。

 

前半の竹澤恭子によるベルクのヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」も秋山の60周年を盛り上げた。

 

竹澤は気迫と集中力のある入魂の演奏。1724年製のストラディヴァリウスの艶やかな美しい響きで、繊細に弾いていく。秋山東響も竹澤とひとつになる緊密な演奏を展開した。

 

竹澤のアンコールは、J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番より第3楽章「アンダンテ」。竹澤は弓圧を控えめに天上の響きを醸し出した。

 

コンサートが終わり、秋山が何度もカーテンコールでステージに呼び戻される中、楽員の一人が「60」という金色の大きな数字があしらわれた60本の赤いバラの花束を秋山に贈呈した。

P席では横断幕を広げ秋山を祝うファンの姿もあり、秋山も手を振って応えていた。

秋山へのソロ・カーテンコールでは多くの聴衆が残っていた。

 

東京交響楽団第724回定期演奏会《秋山和慶指揮者生活60周年記念》

秋山和慶(指揮)

竹澤恭子(ヴァイオリン)

グレブ・ニキティン(コンサートマスター)

 

プログラム
ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」
ブルックナー:交響曲 第4番 変ホ長調 「ロマンティック」WAB 104

 

 

ゲルハルト・オピッツが弾くブラームス「ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 op.83」はこれぞブラームスとも言うべき豊かで温かな響きがあり、完全に掌中に収めた安定した演奏。見た目もブラームスを思わせる風貌で、作曲家自身が弾いているように見える。

 

カーチュン・ウォンの指揮はいつものように丁寧だが、日本フィルの演奏が今一つピリッとしない。冒頭のホルンソロの信末碩才が渡欧中なのでゲストが吹き、やや不安定。定期演奏会とは異なる特別演奏会ということで、リハーサル時間が短いのと、ゲスト奏者が多いこともあり、先日のブルックナー「交響曲第9番」と同じオーケストラとは思えない。しかし、第3楽章ではソロ・チェロの門脇大樹(かどわきひろき)が美しいソロを披露した。コンサートマスターは田野倉雅秋

 

チャイコフスキー「交響曲第4番 ヘ短調 op.36」ではホルンもブラームスの時よりもまとまりがあった。トランペット首席の
オッタビアーノ・クリストーフォリはブラームスでは出番がなかったが、チャイコフスキーでは絶好調。一人気を吐いていた。

 

カーチュン・ウォンはロシアで名教師イリヤ・ムーシンに学ぶなどロシア音楽も得意としている。5月26日のチャイコフスキー「交響曲第5番」は水戸室内管弦楽団の小澤征爾お別れ会取材のため聴きのがしており、ウォンのチャイコフスキーの交響曲を聴くのはこれが初めて。

 

歌うところは歌い、切迫するところは落ち着いて余裕を持ちながら壮大なクライマックスをつくる。全体の構成、流れと細部のバランスがとれており、隙がない指揮ぶり。

 

日本フィルはブラームスより集中力はあったが、それでも定期演奏会と較べると物足りないところも散見した。

第2楽章のチェロの歌い方がもうひとつ気持ちが入っていない。中間部の木管の受け渡しも滑らかではない。第3楽章のピッツィカートも輝きに欠ける。

 

ただ、アタッカで入った第4楽章は金管を中心に集中力と一体感があり、ウォンの指揮も冴えわたる。主旋律のファンファーレが壮大に登場するクライマックスのオーケストラの結束力と目の詰まった強烈な響きは素晴らしかった。コーダに向けてアッチェランドする追い込みもスリリングだった。

 

ソロカーテンコールではコンサートマスターの田野倉雅秋とゲストで参加し艶やかな音で名演を披露したオーボエの古部賢一を伴って登場した。

シューベルト「イタリア風序曲 第2番 ハ長調 D. 591」
14型。コンサートマスターは篠崎史紀。ロッシーニの影響が顕著な曲だが、シューベルトらしい転調の綾が感じられた。

 

N響はホルン首席が先日カーチュン・ウォン日本フィルでも名演を聴かせた元東京フィル首席の森博文が、チェロ首席に東京フィル首席の金木博幸(かなきひろゆき)がそれぞれ客演していた。

 

シューマン「ピアノ協奏曲 イ短調 作品54」エレーヌ・グリモーがコロナ感染のため来日できなくなり、アレッサンドロ・タヴェルナが出演した。1983年生まれ。2009年リーズ国際ピアノ・コンクール第3位。「ミケランジエリの後継者」というイギリスの評は、第1楽章冒頭の第1主題の大理石が響くような音に表れていた。詩情もあると思うところもあったが、それ以上の霊感や奥行きまでには至らず、全体的にはやや単調に感じられた。

アンコールはバッハ(ペトリ編)「羊は安らかに草をはみ」。とつとつとした表現に味わいがあった。

 

ベートーヴェン「交響曲 第7番 イ長調 作品92」は16型。オーソドックスなアプローチで厚みのある響きで堂々と進む。

第2楽章の主題の対位旋律を弾くヴィオラとチェロに深みがあった。後半のフーガも充実。

 

ルイージが本領を発揮したのは第4楽章のコーダ。それまでの堂々とはしているが落ち着いた印象の演奏が突如豹変、トランペットを激しく煽りながら、熱狂的な演奏に突入、N響を煽りに煽って興奮の頂点で演奏を終えた。

 

聴きながら2011年8月4日東京オペラシティのPMFオーケストラとのブラームス「交響曲第2番」の結尾を思い出した。

思い出のコンサート PMFチャリティ・コンサート (2011年8月4日・東京オペラシティ) | ベイのコンサート日記 (ameblo.jp)
 

先日のブルックナー「交響曲第8番」ではN響の弦の磨き抜かれた滑らかな音に魅了されたが、今日はそうした美しさはあまり感じられなかった。郷古廉がコンサートマスターの時のほうが、ヴァイオリンは美しく響くような気がする。


指揮:ファビオ・ルイージ

ピアノ:アレッサンドロ・タヴェルナ

シューベルト/イタリア風序曲 第2番 ハ長調 D. 591

シューマン/ピアノ協奏曲 イ短調 作品54

ベートーヴェン/交響曲 第7番 イ長調 作品92

(9月17日・サントリーホール)

チョン・ミョンフン東京フィルによるシェイクスピアを原作とするヴェルディのオペラを上演するシリーズ、《ファルスタッフ》《オテロ》に続く最終回は初期の《マクベス》。

奇しくも3日前に《マクベス》の前年に作曲された《アッティラ》をムーティ指揮で聴いたばかり。

 

昨年の《オテロ》はオテロ役のグレゴリー・クンデが飛びぬけて素晴らしかった。今回の《マクベス》は、マクベス夫人(ソプラノ)のヴィットリア・イェオが最もインパクトがある歌唱だった。

特に第4幕、夢遊病になって夜の城内をロウソクの火を手にうろつきまわり、手についた血の幻影におびえる「まだここに血の染みがひとつ」はオーケストラの不気味な伴奏とともにゾッとする凄みがあった。

 

マクベス(バリトン)のセバスティアン・カターナとバンクォー(バス)のアルベルト・ペーゼンドルファーの二人は、安定した歌唱。

マクダフ(テノール)のステファノ・セッコは第4幕で祖国に残した妻子をマクベスに殺されたことを嘆く「ああ、父の手はお前たちを守ってやれなかった」に思いがこもっていた。

 

新国立劇場合唱団の女声の3分の2は魔女たちの役として、舞台上で演技しながら歌う。第2幕の祝宴の場面ではP席に戻り合唱に加わった。正確でよく揃った合唱。

 

チョン・ミョンフンと東京フィルはステージ後方に詰めた形で演奏。切れ味と熱気は過去2回と同様だった。

 

全体の印象としては、昨年の《オテロ》のほうが衝撃は大きかった。今回の《マクベス》は1865年のパリ改訂版だが、初期の作品で初演は1847年。《オテロ》は最後のオペラ《ファルスタッフ》の前の作品で、1887年の初演であり、成熟した作風の違いもあるのだろう。またマクベス役のクンデとデスデーモナ役の小林厚子の熱唱もあった。

 

さらに、ムーティの《アッティラ》の強烈な余韻が残った状態で聴くことになったことも影響した。《アッティラ》の歌手陣、東京春祭オーケストラ、東京オペラシンガーズの熱量、気迫、完成度と否が応でも比較しながら聴くことになってしまう。

ヴェルディの血沸き肉躍る音楽の凄みを極限まで追求したムーティの《アッティラ》の衝撃がいかにすさまじいものであったのか、改めて認識することになった。

 

出演者

管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

指揮:チョン・ミョンフン(名誉音楽監督)
マクベス(バリトン):セバスティアン・カターナ
マクベス夫人(ソプラノ):ヴィットリア・イェオ
バンクォー(バス):アルベルト・ペーゼンドルファー
マクダフ(テノール):ステファノ・セッコ
マルコム(テノール):小原啓楼
侍女(メゾ・ソプラノ):但馬由香
医者(バス):伊藤貴之
マクベスの従者、刺客、伝令(バス):市川宥一郎
合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮:冨平恭平)

コンサート・レヴュー:近藤薫

ヴェルディ/歌劇『マクベス』
全4幕・日本語字幕付き原語(イタリア語)上演
公演時間:約2時間45分(休憩含む)

(9月15日・NHKホール)
ルイージN響は5月のレスピーギ《ローマ三部作》がお国ものだけあり素晴らしかったが、今日のブルックナー「交響曲第8番」はそれに匹敵するか、あるいはさらに上を行く突き抜けた演奏だった。

 

ルイージN響の演奏は悪くないがもうひとつという印象をもつこともこれまであった。2022年9月に首席指揮者に就任してから2年の時を経て、お互いの意思疎通が実を結びつつあることを感じさせた。

 

今日の演奏で印象的だった点は、響きの美しさが際立つこと。イタリアの絹織物の鮮やかな色彩と滑らかな肌触りを思わせるような、あるいはイタリアの抜けるような青い空のような色彩感があり、ヴァイオリンをはじめ弦がほれぼれとする艶のある滑らかな音で魅了する。金管も輝かしく余裕がある。ホルン首席は千葉響の大森啓史がゲスト。木管はオーボエに新日本フィルの神農広樹がゲストで安定している。

 

隅々まで磨き抜かれた美しい音でブルックナーの交響曲を聴く喜びは、ここ最近なかった気がする。と言うよりもひょっとして初めてかもしれない。8番の初稿版は初めて聴く。「色の白い七難を隠す」ということわざがあるが、これだけの美音で聴くと版の違いの違和感も減じられる。

 

初稿と第2稿の違いを驚きと共に聴いた点は、

第1楽章のコーダをpppで静かに終わるのではなくハ長調で
fffでティンパニを轟かせ終わらせる。

第2楽章スケルツォの中間部に違いがあり、トリオにハープがない。

第3楽章アダージョは2度のクライマックスでのシンバルが第2稿では各1回のところ、3回ずつ計6回も鳴らされる。

アダージョ後半もこれまで聴いたことのないヴァイオリンとチェロのフレーズがあり、戸惑った。

終楽章は第2稿と異なり迷路のように入り組んだ構造になっており、なかなかコーダにたどり着けないもどかしさ(面白さかもしれないが)があり、異様に長いと感じた。

 

初稿版の面白さ、発見は確かにあったが、第2稿の流れの明快さ、第4楽章コーダのソーミレドで終わる切れの良さなど、やはり優れていると思わざるを得なかった。

(9月14日 [土] 19:00 東京音楽大学100周年記念ホール 池袋キャンパス A館)

ムーティと東京春祭オーケストラによるイタリア・オペラ・アカデミーin 東京 vol.4、ヴェルディ《アッティラ》

第1回の《リゴレット》は見ていないが、第2回《マクベス》、第3回《仮面舞踏会》と較べて歌手陣がベテラン揃いでレヴェルが高く、また東京春祭オーケストラと合唱(東京オペラシンガーズ)の集中力と充実度も高いと感じた。

 

そうした印象の背景には、アカデミーが回を重ねるにつれ(メンバーの一部に変更があるにせよ)オーケストラや合唱がヴェルディの音楽の理解が深まっていること、何よりもムーティ自身がこのオペラを好んで指揮していることもあるのだろう。

 

ムーティは歌手、合唱、オーケストラそれぞれにきめ細かく熱く指示、強靭な演奏は生命力が爆発するようだった。

 

前奏曲

9月3日東京音大TCMホールでの《アッティラ》作品解説でも前奏曲にかなり時間をかけていた。
『アッティラが通過した後は草も生えない。すごく暗い雰囲気からすごく美しい要素もある。両方演奏しなければならない。木管はピアニッシモでシンプルに、チェロはもっと歌って。ピアノの後もすぐにフレーズが始まるように。ホルンは心臓の鼓動。絶望はそれ以上に表現すること』などと指導、『スカラ座の留守電のBGMにしたら、皆怖がって電話がかかってこなくなった』とジョークも飛ばしながらの濃いリハーサルの結果が充実の演奏に結びついた。

 

プロローグ(アクイレイアの広場)

合唱「叫び、略奪、呻き」、アッティラを讃える「すべての森の王に栄光あれ」での東京オペラシンガーズの合唱は分厚く緻密。
9月6日のSMBCホールでの「合唱 ピアノリハーサル」ではムーティ自身が『野蛮人たちだが、コミカルにならないように。8分音符を少し長めに意識して。マーチのようにならないように』と指示していた。

 

他の箇所の指導だったが、ムーティはヴェルディが書いたと紹介して『合唱はグループではない。一人一人が人格を持っている。カラーを込めてほしい』と合唱に話し、さらに『言葉が聞き取れるかどうかよりもカラー、色がほしい』とも要求していた。

 

アッティラ役のイルダール・アブドラザコフ(バス)は、登場しての第一声からして、役柄にふさわしい押し出しの強さと、その裏に隠された意外な脆さも感じさせる深い歌唱でタイトルロールとしての存在感を十二分に示した。

 

オダベッラのカヴァティーナ(初めて登場した時のアリア)「勇者が剣を手に駆けるとき」を歌うアンナ・ピロッツィ(ソプラノ)が強烈な歌唱。ワーグナーも難なく歌えるのではと思わせる強靭で迫力のある歌唱で圧倒する。ドラマティック・ソプラノの面目躍如。

 

アッティラとローマ軍の将軍エツィオの二重唱「東ローマの支配者は老いて」「高慢な奴ども!惰眠をむさぼって」では、エツィオ役フランチェスコ・ランドルフィ(バリトン)が役柄通り少し弱さも見せつつ立派な歌唱。

 

第2場嵐の場面の管弦楽が凄まじい。3日のリハーサルでも『ホルンとトランペットは攻撃的にならないように、グランカッサ(大太鼓)、トリルはすべてクレッシェンド、鐘は強く叩くこと。教会の鐘を思い出してください』と指導、

嵐が収まり太陽が昇る場面は『ヴェルディが大切に考えており、初演の際は音楽のクレッシェンドに合わせ当時のガス燈の照明を変化させた』とエピソードを紹介した。

フォレストと共にアクレイアから逃げてきた人々の合唱も荘厳。

 

フォレスト役フランチェスコ・メーリ(テノール)が歌うカヴァティーナ「彼女は野蛮人に捕らわれて」は多少抑え気味。その後フォレストと一緒に歌う合唱は少し強すぎるように感じた。

 

第1幕

第1場 アッティラの陣営に近い森の中

オダベッラ(アンナ・ピロッツィ)の歌う「ああ、流れる雲に映るのは」へのムーティの指示が細かい。フォレストが突然現れ、アッティラとの間を疑うがオダベッラの話を聞き、和解、二重唱「抱擁の中で喜びに酔いしれて」は引き締まり素晴らしいが、ここでもムーティが二人を細かく導いていた。

 

第2場 天幕の中

アッティラ(イルダール・アブドラザコフ)は夢の中で老人に「引き返せ、ローマは神の土地だ」と言われ恐れおののく。夢から覚めて奴隷のウルディーノ(大槻孝志)に対して歌う「ローマを前にして心が奮い立った時」、気をとりなおして歌う「亡霊よ、国境の向こうで」は文句なしの歌唱。

 

アッティラがローマ進軍を命じ、男声合唱「ヴォータンに栄光あれ」と歌うが、そこに清らかな少女たちの歌を女声合唱が歌う。この対比は鮮やか。

 

 

一人の老人レオーネ(教皇レオI世)水島正樹(バス・バリトン)が「引き返せ、ローマは神の土地だ」と言う場面は水島が少し弱い。

 

アッティラが恐れて地面にひざまずき、フォレストとオダベッラが神の力を讃えるコンチェルタート(ソロ全員と合唱のアンサンブル)「違う、夢ではない!」の素晴らしいこと。

ソリストも合唱も威厳があり、底深い表現力に感銘を受けた。

 

第2幕

第1場 エツィオの陣営

エツィオ(ランドルフィ)アリア「栄光の美しい不滅の国から」は格調高い。フォレスト(メーリ)が第2幕に入って調子を上げてきた。エツィオにアッティラへの復讐計画を話す場面では声に張りが出てきた。

エツィオ(ランドルフィ)がアッティラへの復讐を勇壮に歌う「私の運命は決まった」のムーティの指揮はエネルギッシュ。東京春祭オーケストラもノリが良かった。

 

第2場 アッティラ陣営の祝宴の場

アッティラに招かれたエツィオに対して、ドルイッド教の神官たち(男声バリトン合唱)がアッティラに警告する。
巫女たち(女声合唱)が歌う「誰が心に光を与えるのか」がとても柔らかくほっとする。

 

嵐が去り、宴が再開、アッティラが乾杯しようとするとオダベッラが毒杯を明かしてしまう。彼女は自分でアッティラを殺そうと決意していた。

 

アッティラが『誰が毒を盛ったのだ』と問うと、フォレスト(メーリ)『Io! (私だ!)』と名乗りを上げる。その声の余りのすさまじさに驚愕した。

 

第2場のストレッタ(アンサンブルの最後の急速な部分)は圧巻だった。ムーティはオーケストラ、ソリスト、合唱を束ね、すさまじいまでのアッチェランドで追い込んでいく。

 

第3幕 アッティラの陣営に近い森の中

フォレスト(メーリ)ロマンツァ(形式を持たない短いアリア)「哀れな男がどれほどオダベッラにつくしたか」からメーリは完全に全開、素晴らしい歌唱。

 

フォレストのオダベッラへの怒りが沸点に達する場面でのメーリの表現力も素晴らしい。

オダベッラ(ピロッツィ)の必死の弁明も強靭そのもの。

ハープの伴奏で歌う「あなただけをこの心は愛している」ピロッツィ、メーリ、ランドルフィの三重唱での3人の美しい声のバランスは最高の聴きものだった。

 

アッティラ(アブドラザコフ)が花嫁を追って登場、オダベッラ(ピロッツィ)エツィオ(ランドルフィ)フォレスト(メーリ)が復讐の言葉をアッティラにぶつけ、アッティラが裏切りに激怒するフィナーレ四重唱「悪い女め、奴隷が花嫁になったのに」の高揚とムーティの強烈なアッチェランドの追い込みは圧倒的。最後を締めるティンパニ(篠崎史門・神奈川フィル首席の連打も気合が入っていた。
 

会場の東京音楽大学100周年記念ホールの座席数は806。紀尾井ホール(800席)と変わらない。この中ホールで12型のオーケストラ、80名の合唱がフルヴォリュームで演奏する音圧の凄さは前代未聞。しかも音楽の密度が濃い。

 

拍手やブラヴォ、ブラヴィは長く続き、ステージのドアが閉まったあともムーティへのソロカーテンコールが10分以上続いた。最後まで拍手を続けたのは100名くらいだろうか。ムーティがようやく姿を現し、聴衆のブラヴォに丁寧に応えていた。

 

明日(日をまたいで今日)16日(月・祝:敬老の日)15時からオーチャードホールでも公演がある。

主催者の案内
来場チケット✨
上記公演の当日券を、13:30よりBunkamuraオーチャードホール当日券売場にて販売いたします。

販売席種(税込):
S席 29,500円
A席 26,000円

💻ライブ・ストリーミング配信チケット🎫
開演30分後までご購入いただけます

👇詳しくは👇

【当日券情報】9/16[月・祝]リッカルド・ムーティ指揮 《アッティラ》(演奏会形式/字幕付) | 東京・春・音楽祭 (tokyo-harusai.com)

 

出演

指揮:リッカルド・ムーティ
アッティラ(バス):イルダール・アブドラザコフ
エツィオ(バリトン):フランチェスコ・ランドルフィ
オダベッラ(ソプラノ):アンナ・ピロッツィ
フォレスト(テノール):フランチェスコ・メーリ
ウルディーノ(テノール):大槻孝志
レオーネ(バス・バリトン):水島正樹
管弦楽:東京春祭オーケストラ
合唱:東京オペラシンガーズ
合唱指揮:仲田淳也

 

曲目

ヴェルディ:歌劇《アッティラ》(プロローグ付全3幕)
上演時間:約2時間30分(休憩1回含む)

ティチアーティ指揮ロンドン・フィル二日目。昨日のベートーヴェン「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」、マーラー「交響曲第5番」については、「音楽の友」コンサート・レヴューに書きます。

 

今日はオール・ベートーヴェンで、ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」と同じく、バロック・ティンパニ、ナチュラル・トランペットとピリオド・スタイル。ヴァイオリンは対向配置。コントラバスは下手。弦は適度なヴィブラートもかけ、響きは豊か。

 

劇付随音楽《エグモント》序曲 Op.84は14型。フレーズを短く切り、速め。切れよく明るいが、同時に仄暗い陰影もある響きは魅力的。木管は皆うまいが、それぞれの奏者は突出せず、全体に音を溶け込ませるところはティチアーティの旨さか。あるいは奏者の旨さか。

 

辻󠄀井伸行ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 Op.37はキリリとしたピュアな響き。第2楽章はもう一つ深みがほしいが、全体的に活気のある丁寧な演奏。ティチアーティLPOは12型となり、透明感のある音で演奏、第3楽章の副主題を吹くクラリネットもうまい。辻井もきれいな音でオーケストラと一体感があった。


辻󠄀井はアンコールを2曲も弾いた。ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番 「月光」より 第1楽章リスト:ラ・カンパネラ

最初の月光ソナタ第1楽章が素晴らしかった。辻󠄀井がベートーヴェンの音楽と内声に一体となり、これまで辻󠄀井の演奏では聞いたことのない底知れない孤独の声が聞こえてきた。リスト:ラ・カンパネラも高音の鐘の音の切り立った響きがとても良かった。


ベートーヴェン:交響曲 第3番 変ホ長調 Op.55 《英雄》は再び14型。テンポは速め。演奏時間は45分ほど。スフォルツァンドの連打も軽やか。ヴァイオリンの音は品の良さとほの暗い響きがあり、チェロとコントラバスは重厚。とは言え重くはならず、きびきびとしている。

木管がうまい。ソロも一人だけ目立つのではなく、常にオーケストラの一員として音を溶け込ませる。

 

昨夜マーラーで素晴らしいホルン・ソロを聴かせた首席のアンヌマリー・フェデーレ(Annemarie Federle)は今日も快調。第1楽章再現部の開始を告げるソロも柔らかで表情豊か。第3楽章スケルツォのトリオのホルン三重奏も速めのテンポさらりとこなしていた。

 

ティチアーティはタクトを使わず長い両手を駆使して指揮する。ピリオドの透明感とハーモニーの豊かさが共存、様々な表情は変化に富み、どのフレーズも新鮮に聞こえた。

 

マーラーでも感じたが、ティチアーティLPOは響きが明るく温かい。奏者も積極的であるとともに、オーケストラの一員としてのバランスを各自がしっかりととっているように感じられた。

 

今日はアンコールはなし。サントリーホールのP席、LA、LB席にティチアーティの指示のもと全員が向きを変えて挨拶する姿がフレンドリーでほほえましい。

 

ティチアーティはグラインドボーン音楽祭の音楽監督としてLPOとは固い信頼関係も築いている。両者の息の合った演奏は爽やかな後味を残した。

 


プログラム:

ベートーヴェン:劇付随音楽《エグモント》序曲 Op.84

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 Op.37

ベートーヴェン:交響曲 第3番 変ホ長調 Op.55 《英雄》

ポール・ルイスの弾くベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番
流麗で、高音が瑞々しい。トリルも澄み切った響き。

大野和士都響の演奏は、少し音が濁るが流れは良く、ルイスとの一体感はあった。

第1楽章カデンツァでのルイスは雄弁。第2楽章中間部も幻想的。第3楽章も活力があるピアノだった。

 

アンコールはシューベルトアレグレット ハ短調D.915。天空から音をすくいとるようなシューベルト。初めてルイスのピアノを聴いたのは10年前。ハーディング指揮新日本フィルとのブラームス「ピアノ協奏曲第1番」。そのさいのアンコールも今日と同じだった。
ハーディング、新日本フィルのブラームス | ベイのコンサート日記 (ameblo.jp)

 

後半はブルックナー:交響曲第7番 ホ長調

第1楽章のチェロが弾く第1主題を聴き、大野和士のブルックナーは苦手だと思ってしまう。この主題には祈りの気持ちを込めてほしいが、そうした感情は伝わってこない。

第2主題も弦は滑らかに美しく奏でていくものの、そこに祈りや憧れの感情が感じられない。

 ただ展開部の最後から再現部は筋肉質な引き締まった響きがあり、オーケストラとしての演奏は充実していた。

 

第2楽章はワーグナーへの追悼の音楽でもあるが、第1、第2主題にそうした表情は希薄に感じられた。シンバルとトライアングルが入る頂点も管弦楽は壮大に演奏されるものの、心打たれることはなかった。

しかし、ワーグナーへの葬送音楽と言われるワーグナ・テューバとホルンの斉奏のあとの主要主題によるコーダの柔らかさは良かった。

 

第3楽章スケルツォはトランペットをはじめ金管が充実していた。音としては引き締まってパワフルなのだが、それ以上の驚きがない。トリオは柔らかな表情はあるものの、やはりもうひとつ伝わってくるものがない。スケルツォの再現からコーダの輝きのある音は力強かった。

 

第4楽章も金管が強烈に展開されていく。都響のまとまりもよく、コーダは矢部達哉以下、弦の渾身のトレモロの上に、金管の輝かしい演奏が加わっていく。

終わった後客席からはブラヴォも多く飛んでいた。

 

都響が力感に溢れ、弦も美しい立派な演奏を展開したことは確かだが、個人的には神聖さの感じられるブルックナーが聴きたかった。

 

写真©都響

 

東京都交響楽団第1008回定期演奏会Cシリーズ

指揮/大野和士

コンサートマスター/矢部達哉
ピアノ/ポール・ルイス

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 op.37
ブルックナー:交響曲第7番 ホ長調 WAB107(ノヴァーク版)

ムーティが登壇し話すだけの作品解説と思いきや、実際に歌手に歌わせ、オーケストラを指導する休みなしの2時間以上にわたる濃いリハーサルであり、ムーティのヴェルディ解釈の根幹を知ることができる圧巻のイベントだった。

 

驚くべきは、ムーティのエネルギー。83歳とはとうてい信じられない。歌いながら指揮するパワー、歌手とオーケストラがみるみる変わっていく指導力の凄み。超一流の指揮者の恐ろしいまでのカリスマ性と放射するエネルギー量にただただ圧倒された。

 

印象に残ったムーティの言葉を以下列記したい。

 

歌劇《アッティラ》はヴェルディの27曲あるオペラの9作目。

彼自身が大変だった時期に作られた。ナブッコ、エルナーニという重要な作品がこのころ書かれている。

 

エツィオはローマの最後の戦士。アッティラに世界を手に入れてもいいがイタリアは自分にほしいと持ち掛ける。裏切り者だが、イタリアはイタリア人に残らなければならないという1800年代当時のイタリア人の愛国心を刺激する。今の世界も同じようなことが起きている。

レオーネは重要な役。PAPA(法王)であり、伝説ではなく歴史的にそういう人物がおり、宗教的に侵略者を止める。

 

ヴェルディの表現について、私は60年戦っている。偽物の表現と戦っている。効果を求めたり、調を変える、カットは絶対にやってはいけない。

 

イタリアのオペラは文化として、モーツァルト、ワーグナー、R.シュトラウスと同じ。そうした作曲家の作品では行われないことが、ヴェルディでは行われている。

 

スカラ座では「椿姫」は26年間、「トロヴァトーレ」、「リゴレット」は22、3年演奏されなかった。客がブーイングし若い指揮者や歌い手が怖がった。勇気をもって上演しなければならない。ヴェルディはミケランジェリのように貴族的な高貴な音楽なのだ。

 

ヴェルディは何を勉強したのか。ナポリ楽派のパイジェルロ、チマローザ、その前にパレストリーナから勉強した。ミラノでハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトを学んだ。ヴェルディはロマン派と古典派の両方を備えている。

 

《アッティラ》はドラマティックな恐怖の要素と愛の要素がある。

 

「プロローグ」は、行動の前、起きる前という意味だ。「前奏曲」プレルーディオム、プレリュードも同じ。ルーディオムは「始まり」、プレはアクションの前。前奏曲は始まりの前。
なぜ演出家はドラマティックなシチュエーションを音楽だけにしないのか。前奏曲で自転車に乗る、飛行機に乗るようなことはあってはならない。

現代的な要素は私も愛するが、アホな現代的解釈は嫌いだ。(場内笑いが起きる)

 

フン族の王、アッティラの面白さとは。「叫び」「血液」。「台本」と書いてもいい。フン族は遊んでいる。当時イタリアを支配していたオーストリアに対する批判でもある。

何も考えないで演奏すると下品になる。易しくない要素もある。

 

(オーケストラに向かって)フレーズをつくってほしい。4小節で1つのフレーズ。

(客席に向かって)コンサートに来たら、見るだけではなく、オーケストラを聴いてください。

(アッティラが登場する場面で)ヴェルディは野蛮人に「なんて美しい土地だ」と歌わせている。歌劇《アッティラ》は20年後イタリアが国として統一されるまでの苦しい時代を表す、我々イタリア人のための音楽だ。

 

次いでオダベッラ役の土屋優子を舞台に上げる。土屋が水を飲もうとすると、「水を飲んじゃだめ。マリア・カラスやモンセラート・カバリエは決してそんなことはしなかった。」と厳しい。続いて最近の歌手たちへの批判も。第九の楽章間の入場や、演奏会での衣装替え、指揮者が歌手に背を向けて指揮するやり方にも、アイコンタクトがコミュニケートで最も大事と厳しい言葉が飛んでいた。

 

土屋には、ヴェルディが高音をほしいときは、ブレスをとっていいと書いている。オーケストラは単なる伴奏ではない、オーケストラと関係をつくりながら、歌うようにとアドバイス。

 

歌詞についても興味深い発言があった。おそらく差別用語のことを指していると思うが、「言葉を変えてはいけない。いい言葉も悪い言葉もそのまま歌わなければならない。そうした過ちも若い人たちは知る必要があるからだ」

 

土屋がムーティの指導の下どんどんと迫力を増していくのを目の当たりにするのは、ある意味驚愕だった。

 

その他、「R」はヴェルディの作品で最も重要な子音、ホルンの(規則正しい)音は心臓の鼓動を表す。p(ピアノ)はf(フォルテ)よりも濃くしなければならない。オーケストラも劇の一部。形容詞は名詞よりも大切。など興味深い発言が次々に飛び出していた。

 

最後に練習番号5番からと指示。嵐の後太陽が昇ってくる。ここをヴェルディは大切にしていた。1846年フェニーチェ劇場での初演当時の照明はガス燈。現代のように、舞台上で音楽のクレッシェンドに合わせ簡単に照明を変えることはできなかった。

 

スカラ座での初演は1847年12月だが、初演は最悪で失敗だった。ヴェルディはスカラ座のために音楽は書かないと決めた。しかし、歌劇《アッティラ》はバルセロナ、ロンドン、さらにはキューバでも上演された。

 

続いて、嵐が収まって合唱が歌う場面ではムーティ自らが歌いながら、トロンボーン、トランペット奏者にコラールの指導をした。

 

太陽が昇る場面では、R.シュトラウスの「交響詩《ツァラトゥストラはかく語りき》」が作曲される前にこの作品ができていたと話した。

 

他にも数々あれど、メモの取り忘れもあり、アトランダムですが、ご参考まで。
聞き間違いなどございましたら、ご指摘いただきたく、コメントやメッセージなどをよろしくお願いいたします。

 

この興味深いアカデミーの公開リハーサルは本日4日も行われ、さらには5日(木)、6日(金)、8日(日)、9日(月)、10日(火)もあり、その後本番として、12日(木)に若い音楽家たちによる《アッティラ》、14日(土)と16日(月)に海外の歌手も参加する公演がある。リハーサルはあと6日の日しか申し込まなかったことが悔やまれる。これだけの内容を知るとすべてのリハーサルに行きたくなる。

 

詳しくは下記からご確認ください。

リッカルド・ムーティ 「イタリア・オペラ・アカデミー in 東京」vol.4 《アッティラ》 | 東京・春・音楽祭 (tokyo-harusai.com)

 

 

出演

登壇: リッカルド・ムーティ

管弦楽: 東京春祭オーケストラ            

指揮:ウィリアム・ガーフィールド・ウォーカー、岡本 陸、シャオボー・フー、ミシェル・ブシュコヴァ(参観のみ)

アッティラ(バス・バリトン):北川辰彦

エツィオ(バリトン):上江隼人

オダベッラ(ソプラノ):土屋優子

フォレスト(テノール):濱松孝行

ウルディーノ(テノール):大槻孝志

レオーネ(バス・バリトン):水島正樹