戦術のない中でのプレー。


これは、日本人が非常に苦戦する部分であると思います。


例えばこれまで、数多の選手がエスパニョールの下部組織に練習参加という形でトライアウトにやってきました。その他の地域クラブにも同様に。また、スペイン1部では未だ一人も日本人が成功していないという屹然とした事実が現在存在します。


その中の要因の一つに、この“戦術のない中でのプレーの苦手さ”があると思います。


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一体どういうことなのか。


日本人は、戦術のある中でプレーしたら、今現在のポテンシャル・質である程度活躍できると、僕は思う。


この場合は、この「戦術」という言葉を、規律」と置き換えても良い。ここではほぼ同義です。


日本人の戦術理解度は、世界の中でも比較的高い水準にあるように思う。


しかし、ここではその戦術理解度に関し、“理論上では”という付け加えをさせていただく。


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《例》


・中村俊輔の場合


中村俊輔は、満を持してリーガ・エスパニョーラの舞台にやってきた。


海外経験、日本代表としてのキャリア、実績、自信、本人のモチベーション、周囲のサポート。ハッキリ言って、「すべてが整っていた」中での挑戦だった。


しかし。結果は無残にも失敗に終わった。


日本ではこんな報道が囁かれた。「ポチェッティーノの戦術に、中村俊輔が合わなかった」。現地での動きを見ていた僕からすれば、こんなのは真っ赤な“大嘘”であることが明白だ。


いや、ウソではない。確かに、ポチェッティーノはシーズン途中で戦術を変更したし、中村はその戦術に合わなかった。


だがしかし、問題はそこではない。


中村の出場機会が激減したのは、「戦術に合わなかったから」ではない。もちろん、デ・ラ・ペーニャと共存しなかったからでもない。そんなの、論外。



問題は、「戦術に合わなかった」時の中村の対応にあった。


戦術に合わせる・合わせないの問題ではない。


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彼は、戦術が合わなかった、つまり戦術が存在しなくなったときに、その戦術を破壊するようなプレーを発揮できなかった。


また、戦術が皆無化した状況で、戦術云々以前にやらなければならない「フットボールの本質」に基づいたプレーが、できていなかった。



例えばそれは、戦うこと。それは、果敢に1対1で挑戦し続けること。



そういったスピリットがチーム状況さえ打破してしまうことを、彼は知らなかったように思う。



スペインのサッカーと日本のサッカーの違いというのも確かにあるのだが、日本で言う「理論上の戦術」を正しく守っていれば万事うまくいくかというと、それはフットボールにおいては大嘘だ。


例えば、「数的不利だったらパスを出す」。例えば、「相手が引いていればミドルシュートを打てば相手は恐怖心でラインを上げる」。例えば、「サイドを揺さぶって、GAPが空いたらタテに入れる」。こういったことは、事実としては正しいが、“使えない”。


数的不利でも前にボールを運ばなきゃ行けない状況があるし、相手が引いていてもシュートで相手が全くラインを上げてこない状況がある。サイドを揺さぶってからタテに入れるのではなく、どんなに狭くてもタテに入れないといけない瞬間がある。相手DFに当たっても、そこを入れないといけない瞬間がある。



そういうのに対し、その一時の状況のミスをあとで理論的に分析して改善しようとしても、僕は無意味だと思う。



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中村の場合。彼は、サイドに置かれたことによって苦しんでいた。


しかし、ボランチで出ても、同じことが起きていた。


サイドにいようと、ボランチにいようと、ボールが来なければ中村は死んだも同然。それは彼自身、わかっていた。



だが、ボランチで出場しても、「リズムをつくろう」と「ボールを下げる」中村には、次第にパスはいかなくなった。見ていても、「消極的」に見えてしまうのだ。チームは、リズムをつくるボール回しなど、求めていない。


「前に速く」、「Juego directo」(「前線に簡単にボールを預けて、速く攻める」)というのが当時のポチェッティーノのコンセプトだったのは事実だが、ここに大きな誤解が生じているように思う。




では、その時エスパニョールはボールを回さなかったのか。答えは、「No」だ。


試合の中でも、リズムを変えてボールを回す時間帯もあったし、そのときはきちんとボールをつないでいた。


中村だけが、90分間ボールをつなごうとしていた。これでは、厳しい言い方をすれば、中村は「空気を読めないヤツ」で、「頭の悪いヤツ」ということになる。



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では、中村は「個人戦術」で「リズムをつくるためにボールを後ろに下げる」という「判断」を行い、「チーム戦術」に合わなかったのか


中村は、「戦術」に背き、個人プレーに走ったエゴイストだったのか。


NO



彼は、日本で言えば賢い選手。代表にも選ばれ、ずっと引っ張ってきた彼がそんな過ちをいまさら犯すとは考えられない。


彼には、わからなかったのだと思う。


スペインのサッカーが。


戦術以前に存在する「サッカーが文化になっているサッカー先進国」の中に介在するフットボールの本質が。




戦術のない中でのプレー。そのやり方を、彼は知らなかった


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海外のチームでも、中村を中心にチームをつくるのであれば、彼は活躍すると思う。セルティックでそれを十二分に証明しているし、それは疑いようのない事実である。


しかし、問題は「中村を中心にチームをつくるチーム」が海外にどれだけ存在するか、というところにある。


答えは、「極少」。


日本代表の不動の「10」番で、である。


皮肉ではなく、中村俊輔は日本が生んだ最高傑作であると、僕は思う。彼のサッカー選手としての資質は日本人では無論トップクラス。



日本人の「海外サッカー市場」における現実など、その程度のものなのだと、僕たちは理解する段階にきているように思う。そうでなければ、彼の失敗が無駄に終わる。W杯前年にも関わらず、リスクを冒してやってきた彼の挑戦が、無下にされることになる。


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以前、松井大輔がフランス2部から1部へとステップアップした後で、こんなことを言っていた。


「日本では、良い芝が用意されて、『どうぞサッカーをやってください』という環境でサッカーをしていた。しかし、フランスではボコボコのピッチも、あり得ない審判の笛も当たり前。その中で勝ち上がっていかなければならない厳しさがある。」




日本人は、『どうぞサッカーをやってください』という環境を与えられれば、できると思う。




でも、現実、日本代表クラス、世代別代表クラスでもそんな環境は用意されないし、そういった環境は勝ち取っていくものなのだと、海外に出てみな強く実感する。





「特別扱い」されない、「その他大勢」にポーンと放り込まれたときの、強さ。



わけのわからない黒人選手や、南米人選手と同じピッチに、何も言われずに放り込まれたときに勝ち上がる“術”。それが、“フットボールの本質”であり、それができる選手が“良い選手”として、這い上がっていくことになる。





恵まれた環境が与えられない中で、何を、どうすべきか。


戦術や理論に囚われる時代は、最早終わったと、僕は思う。


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戦術のない中でのプレー。


日本人に与えられた、至上命題であると、僕は思います。