1807-ナルシス・ヴィルジール・ディアズ・ドラ・ペーニャ | バルビゾンの風

バルビゾンの風

バルビゾン派(バルビゾンは、École de Barbizon)は、
1830年から1870年頃にかけて、フランスで発生した絵画の一派である。
フランスのバルビゾン村やその周辺に画家が滞在や居住し、
自然主義的な風景画や農民画を写実的に描いた。1830年派とも呼ばれる。

【1807-ナルシス・ヴィルジール・ディアズ・ドラ・ペーニャ (1807~1876)】
NARCISSE-VIRGILE DIAZ DE LA PEÑA


1807 ボルドーに生まれる。孤児となり印刷工の見習い、
磁器絵付け職人となる。ジュール・デュプレらに油彩画を学ぶ。

1831 サロンに出品するも落選。生活のためにさまざまな絵画を描く(肖像、花、風俗画)

1834 サロンに入選

1835 フォンテーヌブローの森に通う。
ルソーより自然に対する考え方、樹木の表現方法などの助言をもらう

1836 幻想性豊かなディアズの絵に写実性が加わり
森の中の神秘的な風景も描くようになった

1837 フォンテーヌブローの森の風景画をサロンに出品。
バビルゾンに滞在し、バビルゾン派の画家たちと親交を結ぶ
その後、ルノワール、モネ、シスレーらとバビルゾン派の画家としては最初に会う。

1844 ある批評家からの評価を得て、急速に人気に。経済的にも成功する。
サロンで三等賞を受賞

1846 人物画の他に風景画をサロンに出品し好評を博し二等賞を受賞

1846 この頃から風景画家として認められるようになる

1850 レジオンドヌール勲章を受賞
異国情緒と自然美の調和でディアズの人気は揺るぎないものとなった

1859
以降 サロンの出品をやめるが彼の絵は高騰を続けた
彼はエトルタに別荘を買い、花と美術品に囲まれて幸福な晩年を過ごした

1876 マントンにて死去

バルビゾン七星の一人と知られる


ナルシス=ヴィルジール・ディアズ・ド・ラ・ペーニャ
        色彩の魔術師
 
 スペインの亡命者の息子としてフランスに生を受けたディアズは、幼くして父母を失い、毒蛇に咬まれて左足も失った。そかし持ち前の情熱と不屈の精神で過酷な運命を、幸運に変え、華麗な人生を自らの手で作り上げ、その人生の様に華麗な絵画を数多く残した。
 ナルシス・ディアズは1807年8月20日ボルドーに生まれた。父はスペインのサラマンカの有産者だったが、ナポレオンのスペイン支配に対して反乱を企て、身重の妻と一緒に故郷を追われた。亡命先を探しているうちに妻が産気づき、ボルドーに立ち寄ったところでディアズが生まれた。
 その後父は単身イギリスに渡り、亡命先を探している途中に妻子をフランスに残したまま死亡する。母はディアズを連れて、モンペリエ、リヨンと渡り歩き、パリ近郊セーヴルに家庭教師の仕事を見つけて身を落ちつけた。
 王室陶器工場が有り、芸術の香り高いこのセーヴルの町が、結局はディアズを芸術の道に導くのだが、その前にはまだ過酷な運命が待ち構えていた。
 10歳の時、苦労を重ねた母が亡くなり、ディアズは異郷の地で天涯孤独になった。彼はプロテスタントの牧師に引き取られ、そこでしばらく暮らすことになった。その間唯一の楽しみは、一人で近くの森の中を散策することだった。
 彼の唯一の楽しみは、彼の次の不幸の原因となった。13歳の時ディアズは森の中で毒蛇に咬まれ、壊疽にかかり、生命を救うために左足を失った。それ以後義足がディアズのトレードマークとなるが、彼は再三の不幸にもかかわらず、機知に富む陽気な青年に成長していった。
 彼の面倒を見ていた牧師の妻は陶芸に趣味を持っていて、成長したディアズを陶芸家のアトリエに紹介した。それがディアズの絵画への第一歩となった。その陶芸家はアルセール・ジレと言ってデュプレの叔父にあたり、若い陶芸家を育てていた。その中にカバやデュプレがいて、ディアズは絵に興味を持って行った。
 ディアズはジレのアトリエで陶器の絵付けの仕事をしていたが、その上品すぎて制約の多い陶芸の仕事は、自湯奔放で情熱的なスペインの父の血を引くディアズには耐えられないものとなって行った。彼は情熱のはけ口を当時流行の兆しを見せていたロマン主義の演劇にもとめた。彼は演劇の主題を陶芸の絵付けに持ち込もうとしたが、雇い主の反対に会い、彼はそこで自由な表現の出来る絵の世界に入って行くことを決意した。1828年彼はスーションのアトリエに入り、本格的な絵の修業をするが、そこで彼は熱烈な支持者を得た。その支持者は、ディアズが、あたかもリンゴの木がリンゴを実をつけるように生みだす沢山の絵を、パリ中の画商や美術愛好家へ売りまくった。その支持者の御蔭でディアズ派20歳そこそこで売れっ子となり、社交界に出入りするようになって行った。彼は詩人のテオフィル・ゴーチェの『プチ・セナクル』に加わり、当時盛んになりつつあったロマン主義運動の中心に身を置くことになった。
 1830年ユーゴの「ユルナニ」がフランス座で上演された。16世紀のスペインの武人の悲恋物語で、ユーゴは古典主義の規則を無視し、情熱的で幻想的な舞台を作り上げ、芸術の自由を主張した。この上演に際して古典派は猛烈な反対運動を行い、ロマン主義を支持する若い芸術家たちと暴力沙汰を起こした。この「ユルナニ事件」を契機にロマン派は勢いを得、ロマンチシズムの時代が訪れた。ディアズが受けてきた運命の過酷な仕打ちは、この時から彼にプラスに作用した。彼の数奇な生い立ちと、たぐいまれな空想力、それに身体的なハンディキャップは、まさにロマンチシズムの支持者たちを酔わすのには十分だったのである。
 1831年のサロンにディアズは初出品し、その後ロマン派詩人たちの創り上げた雰囲気をテーマとして、華麗で幻想的な絵画を描いていった。
 ロマン派の画家としてスタートしたディアズに自然への眼を開かせたのはルソーであった。ルソーはディアズと同じ年にサロンに<オーヴェルニュ風景>を出品してデビューし、ディアズの眼にもとまった。二人の出会いは、その時より一年ほどさかのぼるが、ディアズはその時5歳も年下のルソーに対して畏敬の念を感じていた。ルソー18歳の時である。
 1836年ディアズはバルビゾンの村でルソーに会った。彼はルソーに樹木の描き方について相談した。その頃ディアズは、まだ樹木や木の葉の描写に自信がなく、オリエントの衣装をまとった人物を、大概は平原や砂漠の中に描いていたのだった。ルソーはディアズをフォンテーヌブローの森の奥に連れて行き、そこで彼がオーヴェルニュの山中で独力で掴んだ自然に対する考え方、樹木の表現方法などを残らずディアズに打ち明けた。思いがけないルソーの親切にディアズは心を打たれ、以後彼はルソーを唯一の師と仰ぎ、彼から大きな影響を受けるようになっていった。この頃から幻想性豊かなディアズの絵に写実性が加わり、またルソーと同じように、森の中の神秘的な風景を描くようになった。
 1844年ディアズはサロンに<をジプシーたち>出品して3等賞を獲得した。
 1846年には人物画のほかに風景画を出品し、好評を博し、2等賞を獲得した。
 1848年には、ディアズはもはや風景画家としてはっきりと認められるようになっていた。
 1850年ディアズはレジオン・ドヌール勲章を獲得した。併しその勲章はルソーが心から欲していたものであった。前年ルソーはデュプレとその勲章を競い、デュプレが獲得したことによって二人は仲たがいをしている。ディアズはルソーの心中を思いやり、祝宴の乾杯の時、『忘れられた我らの巨匠、テオドール・ルソー!』と叫んでルソーをかばった。
 異国情緒と自然美の調和で、ディアズの人気はゆるぎないものとなった。
 1859年以降はサロンの出品はやめたが、彼の絵は高騰を続けた。彼はエトルタに別荘を買い、花と美術品に囲まれて幸福な晩年を過ごした。
 1876年ディアズは肋膜炎の治療のためにマントンに行き、そのままそこで他界した。彼の遺体はモンマルトル墓地の、16年前に亡くなった最愛の息子エミールのかたわらに埋葬された。


【作品名】森の中
【種類】キャンバスに油彩
【サイズ】31.3×40.1cm
※ギャラリードローム証明書付き
※村内美術館証明書付き


【作品名】祈り
【種類】キャンバスに油彩
【サイズ】21.5×16.5cm
※Michel Rodrigue鑑定書付き


【作品名】フォンテンヌブローの森の小川
【種類】キャンバスに油彩
【サイズ】45.7×63.5cm 仏15号
※Claude AUBRY証明書付き


【作品名】フォンテーヌヴローの森
【種類】板に油彩
【サイズ】31.5×40.4cm 
※「Michel RODRIGUE」証明書付き
※ ディアズカタログレゾネに作品掲載


【作品名】ヴィーナスと子供達(1858年作)
【種類】パネルにキャンバス・油彩
【サイズ】77.5×57.0cm (仏25号)
 ディアズカタログレゾネ P481にNo.2932として掲載
※来歴Sotheby`s (ニューヨーク) 1986年 鑑定書付
右下にサイン。年記。


【作品名】風景
【種類】板に油彩
【サイズ】22.6×30.1cm (仏6号)


【作品名】鳥籠を持つジプシーの少女
【種類】キャンバスに油彩
【サイズ】54.5×66.5cm (仏15号)
ディアズ・ドラペーニャのカタログレゾネNo2004に記載


★バルビゾン七星とは?★