これまでに乗ったことのある大型動物は、象と馬。

 

昔々行った鳥取砂丘でラクダに乗ったような記憶もあるけど、

乗ってないような気もする。

というわけで、鳥取ラクダはカウントなしで、初ラクダ体験。

サハラに行ってから、アフリカにはヒトコブラクダしか

棲息していないことを知る。

ヒトコブラクダはcamelとは言わず、

dromedary(ドラマデールって聞こえた)ということも、

初耳だった。

 

ラクダのようなまつげをしている人は時々見かけるけど、

こんなにも間近でラクダまつげをまじまじと見られるとは。

おまけに、ラクダは馬と違って、いい意味で鈍感。

頭や鼻面を撫でまくっても文句ひとつ言わず、

じっとしていてくれるし、うっとりしている表情さえ見せる。

 

ツアーではラクダのキャラバン隊を組んで、

つまり一頭一頭が綱でつながって進むから、

マイラクダの頭を撫でるのは無理。

自分の後ろに繋がれているラクダなら、頭が手の届く範囲にあるから、

ラクダに触れたい人は少し振り返って後ろの子を撫でる。

先頭で綱を引く人の歩く速度で砂丘を歩くこと、1時間半。

最後の方はお尻が痛くなってきて、何度も腰を浮かす。

ユッサユッサと揺られているうちに、

太陽は最後の光を地上に残しつつ、

遥か遠くの地平線に隠れ、あたりは徐々に漆黒の闇が広がる。

漆黒の夜空は、文字どおりこぼれ落ちてきそうなほどに

星がきらめいている。

砂漠ツアーの参加は今回が3回目だという、ディミトリの言葉を思い出す。

「とにかく、星がすごいんだ。手を伸ばしたら届きそうで、

それを見たくてまた砂漠に行きたいって思うんだよ。」

ディミトリはフランス人だけど、モロッコ西部の海辺の街でバーを経営している。

初日に途中の街でお酒を買い込んで大騒ぎしていたけど、

本当はとても繊細でロマンチストなんだろうな。

 

砂漠のテントについたのは、たっぷり8時半は過ぎていた。

9時過ぎから大きなテントに集まって夕食。

 

夕食後は、テントの外で砂漠の民であるスタッフたちが集まり、

太鼓を叩きだした。

 

太鼓に合わせて踊る人もいるし、寝そべったり座ったりして、

ただ星空を見上げる人もいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

突然、それはやってきた。

数年前に願ったことだけど、なかなか実現しそうもないから、

手放したり、いつかは。。と思っていた夢たちが叶う状況が。

 

願いが叶うには二通りあって、一つはそれが実現して解決する。

もう一つは、その願いがもはや願いでなくなる、つまり願いが自然に解消する場合。

 

今、時期をほとんど重ねるように飛び込んできた話は、

この両方のパターンだった。

願いを持った頃は、本当に心から望んでいたし、

願いを書きつけたりもして、真剣だった。

 

でも、それが叶いそうな話が向こうからやってきた今、

頭では嬉しいけど、ワクワクしていない自分がそこにいた。

 

もしかしたら、願っていると思っていただけで、

心からの願いじゃなかったのかもしれない。

望んだ時に実現していても、思い描いた通りのことではなかったのかもしれない。

または、単に今の自分にはもう必要のないことだけなのかもしれない。

 

それはともかく。

叶ってワクワクしている願いの方は、自分の畑スペースを手に入れるというもの。

正確には、市民農園を一年契約で借りるから、所有したわけではないのだけど。

買い物先のスーパーにあった町の広報をふと思い立って持ち帰り、

読んでみたら、農園の空き枠が若干出たので、募集のお知らせが。

募集締め切り3日前に申し込みに行ったら、一枠分だったけど、他に申し込み者がいなかった。

そのあと、誰かが申し込んできたら抽選で決めると言われたのだけど、

もう、借りる気満々で何を植えようーと楽しく悩んでいたところ、

先ほど決定のお知らせが!

 

願いが叶うときは突然かもしれないけれど、願いが叶ったあとの場面が見えるというか、思い描けるもの。

思い描けないならば、それは心からの願いじゃないかもしれないし、

何かがずれているのかもしれない。

 

それがビジョンを思い描くことなんだなあ、きっと。

まだ種まきもしていないけど、

豊作でうれしい悲鳴をあげているビジョンを思い描こうっと。

 

 

 

人生の意味は何だろう?という質問をよく受ける。

誰だって、自分が生まれてきた目的や、この世に存在する意味を知りたいもの。

 

でも、究極的に言うと、人生の意味は、ないのだ。

 

私たちは皆、人生を体験するために生まれるのだから。

この世に存在して、選びとった体験を味わう。

ただ、それだけ。

 

どうしても、今世の生きる意味が知りたかったら、

目の前の人生を生き切れば、その答えが見えてくるかもしれない。

 

歩くことは歩くことが、書くことは書くことが教えてくれる。

その行為自体が、その行為のことを一番教えてくれるのだ。

生きることも同じ。

生きることが生きることを教えてくれる。

 

だから、とりあえず、明日も精一杯生きてみよう。