インタビュー① の続きです。

(元記事)
http://www.pbs.org/wgbh/nova/physics/mandelbrot-fractal.html
  Posted 10.01.08 by NOVA

(内容)





<制約からの自由>

〇慣習を絶対視することの危険性に言及したことがありますね。

フランスでは定義が明確で非常に安定したコミュニティに属する必要があります。自分のことだけをしてフェンスの向こうを見ない、隣人が何をしているかを見ていないんです。これはナポレオンの時代に広く確立された特別な義務なのです。19世紀後半にかけて深く定着しました。フランスの数学学校は非常に優秀で、才能ある若者が押し掛けます。逆に、フランスには理論物理学を作った、英国のジェームス・マックスウェルやドイツのマックス・プランクに匹敵する人はいないのです。

〇しかし、先生はそうした制約に自分を留めることはなかった。

そうです。恐らく、私の居場所の定まらない子供時代が、完全に特定化されなくても生きていけると気付かせてくれたんだと思います。

〇先生はルネッサンス期に生まれた思考革命に興味を抱いていますね。

私はあの時期の「自然哲学」という言葉が大好きなんです。美しい言葉ですね。18世紀以降使われなくなったのが残念です。





〇先生にとってその言葉はどういう意味ですか?

ガリレオ以前は、哲学者というのは権威ある本を勉強した人だったんです。当時の多くの人は聡明でしたが、絶対的に本に忠実であったことは破滅的でした。ガリレオは、自然哲学は「自然の本」に書かれていますが、「図書館の本」を読むことから、我々の周りある「本」を読むことに移行しなければならないと言ったのです。つまり、実験的方法を駆使し、自分の目を信じることです。これは非常に重大なことです。ニュートンは自然哲学者と呼ばれていました。18世紀は現在と違って、数学者と物理学者は厳密に区分されてはいなかったのです。私は明らかに哲学者です。なぜって、着想を一元化することに魅了されているからです。私は本だけで学ぶ訳ではありません。自然から学びます。人工物を見出す場合は、過去の技術を学ぶのです。

〇そうしたスタンスには危険がありませんか?ゼネラリストになり過ぎるみたいな。

それは慎重に答えるに値する本質的な問いです。有能な親しい権威は、ゼネラリストはギャンブラーであり専門的脅威に直面すると常々気付かせてくれます。恐らくそうなのでしょう。でも私は幸運でした。多くの専門分野でプロジェクトに要した時間を忘れさせてくれましたし、素晴らしい賞まで与えてくれたのは嬉しい限りです。もし、ギャンブラー以外に何もなければ、間違いなく消えていたでしょう。しかし、私は常に自制心があり保守的でもあったのです。





もっと詳しく言うと、ギャンブラーとしてスタートしましたが、すぐに、私の「遊び」の成功には共通する強い感覚、共通の特徴があったことに気付きました。結果的に私は自分自身を次第に、精力的な真の革新者/スペシャリスト(自らの道を追求して辿りついた新分野であるでこぼこフラクタル理論の大元締め)に変えていったのです。

<仲間は私の研究を嫌っていた。出来っこないと思っていた>

貴方の質問に戻りますが、ゼネラリストに成り過ぎる危険性は十分理解していました。知人の多くは、私と同等の知力、想起力、自主性に恵まれていましたが、生物学や宇宙論の新発見や成果について論評する喜びにふけってしまったのです。彼らは非常に「危険な」人生を歩んでいる人達です。私がこの上なく評価し、商売道具の多くの部分で私より優れていると思う非常に親しい友人の一人は、自らを律する方法を知りませんでした。





<自由な雰囲気>

〇フラクタルは、IBMのトーマス・J・ワトソン研究センターの研究者として働いた1958年に思い付いたのですか?

いいえ。IBMに行ったのは偶然でした。何年も経ってからそれが私にとって幸運だったと分かりました。実際、私の人生には幸運に至る面白い兆候があります。長く多岐にわたる見習い期間を楽しむ機会がありました。それには、誰も一緒に働きたいと思わないような人との仕事も含まれています。例えば、ジェノバでは2年間、児童心理学者ジャン・ピアジェの仕事仲間として過ごしました。しかし、フランスを覆う雰囲気の中では、私は何処にも属していませんでした。私の研究は同僚に完全に嫌われていたのです。彼らは私には出来っこないと思っていました。私が特段興味のないことを弄んでいるだけだと思っていたのです。年上の友人は、私の博士号は、半分が存在しなかった分野で、残りの半分がもはや存在しない分野だと言っていました。それでも私は折れませんでした。

〇どうしてですか?

選択肢があるなら、進むべき場所への移動を急かしたり、早く決断するよう強いるべきではないと、私は同僚に伝えようとしました。準備ができる前に何処かに属するよう強制すべきではないのです。しかし、馬の耳に念仏でした。フランスでは、分野を変わろうとすればゼロからのスタートになるのです。





〇フランスから出るよう強いられたと言ってましたね。

私は何処にも属していないという強い疎外感を口にしていました。私は数学の若手教授でしたが、大好きだった主任教授はもうすぐ退任する所でした。彼と代わりに仕事をするのは考えられませんでした。居座ることも出来たと思いますが、そうしたくなかったのです。

〇それでどのようにIBMへ?

全くの偶然です。知人が何人かIBM Researchにいたんです。彼らが1958年の夏に招待してくれました。ちょうどフランスで教え始めた直後で、そこでの将来性に疑問を感じていたんです。IBMは常に変化しています。だから、数年で経営陣に気に入られるかもしれないと思ったんです。危険な賭けをするのに時間が節約できるとも思いました。





〇IBMは高度に組織化された環境のイメージですが?

そのイメージが強く浸透していますが、実際は違います。目指す場所は自由奔放なアカデミックな雰囲気を作ることだったのです。その雰囲気が持続していた時、IBMの研究所は高い名声を得ていました。あの夏の体験は本当に素晴らしかった。ちゃんと話し合ってから、妻と私はフランスに別れを告げ、IBMに1~2年残ることを決断したのです。IBMでの最初の2年間で注目を集めるようなジャックポッド(大当たり)があり、ハーバードから経済学の客員教授の誘いがあったのです(笑)。それでフランスへ戻るのを延期しました。

〇その後、結局永遠に戻らなかった訳ですね。

ええ。経済学客員教授として1年勤めた後、2回目のジャックポッドがありました。それで今度は、ハーバードから応用物理学の客員教授として戻るよう要請されたんです。フランスを一時的に離れている間、私は現実に直面したのです。私は非常に優れたフェローで良き友人でもある、ジェリー・ワイズナーの助けを受けていました。彼は後にMITの学長になった男ですが、その彼に、次にどうすべきかアドバイスを求めたのです。長い話になりますが、彼の結論は、IBMはもはや危ない状態ではないというものでした。私がするような研究ができる場所は、どの国に行ったにしろ、他に何処にもなかったのです。





〇自由奔放でアカデミックな雰囲気の為ですね。

はい。IBMは知的な名声と技術的な成功を収めることを熱望していました。それで私に戻って来て欲しかったのです。一方、私の方もどこにも属していないという問題があったのです。みんな私に言いました。「もし、君があちこち走り回るのを止めて、誠実なエコノミストでも、誠実な電気技師でも、何でも今日からずっと続けるなら、今すぐにでも仕事をオファーしたいよ」 大学が非常に高いポジションをオファーしてくれましたこともありました。しかし、翌日には学部長からオファー撤回の電話がありました。私が気まぐれで彼が関心ないことをするかもしれないと気付いたからでした。

〇(笑)いつも反対勢力が大勢いるんですね。

ええ。例えば、NSF(全米科学財団)に私がした提案は却下されました。こう言われて驚いたんです。「こういう研究に資金を出すには、傑出したレビューが6本必要です。貴方には5本の傑出レビューと1本の優良レビューしかありません。だから出せないのです」 私はショックで思わず声を上げました。ヨーロッパでは声を上げるのはOKですが、アメリカでは違いました。私はこう言ったんです。「私の提案が貴方達がサポートしている他の全案件と全く違う点を是非考慮してください。この提案はある意味、仲間を批判するものです。視野の狭いやり方だと思っていますから。私は全く新しい方法を提案しているのです。だから、5本の傑出レビューと1本の優良レビューを失敗としてではなく、成功として捉えて下さい」 彼の名誉の為に言っておくと、彼は結局同意してくれました。「わかりました」と彼は言いました。「資金を出しましょう。但し、助成金は半分にしますよ」





<疑問を投げかける>

〇数学界で貴方が貢献したことは証明ではなく疑問提起ですよね?

純粋な数学としてはそうです。そこは、膨大な数学的作業が既存の主張の証明や拡大適用から構成されているのです。しかし、経済学に証明はありません。適用性によって科学が証明されているのです。ところで、私の叔父は説得力のある主張をした数学者でしたが、仲間の一部を非常に侮蔑していました。彼らは非常に優秀だが、定理証明機にすぎないと。彼らには桁外れに大量の技術の蓄積があり、多くの研究結果を覚えており、新たな方法で組み合わせていました。しかし、新たな疑問を提起する創造力を有していませんでした。数学界では、疑問を呈することで有名な人と他人が推察した定理を証明することで有名な人を歴史的に厳格に区別してきたのです。





〇数学界において疑問を呈することで最も尊敬する人は誰ですか?

私的な英雄という意味で最も偉大な数学者はアンリ・ポアンカレです。本当に偉大な人で、数学の多くの分野をゼロから築きましたが、いかなる難解な定理も証明していないことを自認しており、概念に比べ証明には殆ど関心がありませんでした。彼に比べれば、私なんて足元にも及びませんから、誤解しないでください(笑)。要するに、私が発見した多くの真理は純粋な数学的演繹法に基づいたものではなく、数学的図形の高度な分析によって得られたものなのです。

〇そうした数学的図形のお陰で、フラクタルのお陰で、この世界を異なる角度から見ることができるのですね。

早い時期に私が見たやり方で、今この世界を違った風に見ることが出来ています。登山家の友人も以前とは違った形で山を見ていると言ってくれます。飛行機から窓の外を見るのが好きな人も山の見方が変わったと言っています。彼らは、山にもピラミッドにも、以前は見えなかった秩序を見ているのです。

(インタビュー①)
http://ameblo.jp/bandazakura/entry-12211549461.html