#09 肉体というイレモノより中身の程度を善くしようとしても無理が祟るだけだろ。  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
 
 
 
 
 母体とは、実に素晴らしいものである。
 人間誰もが、それこそ、釈迦もキリストも、いかなる聖人君子も、現在の内閣総理大臣も、 
学校の先生も、自分自身の父親も母親も、すべて、この、母体、女の体から出生してきたのである。
それは人間だけではなく、世の万物。自然界に生息する生命のあるものすべてがそうである。
 だから母体とは、実に素晴らしく創られているものである。
 そのような肉体を持っている雌。女とは、姿 形ができてからそうあったのか。その形ができる前に
決まっていたのか。実に不思議なものであるが、その女。女性が、どこまで自分のことについて
知っているのか。妊娠、分娩と、地球上の後継者をつくり出している女。母体。人も、動物も、植物も、
そうした決まりの通りに、つくり、生活している。
 この自然界に生かされている者のすべて、その決まりの通りに流れ、行動しているから、
人も産まれ、草木、樹木も、芽を出し、育み、葉を生い茂らせ、花を咲かせ、実をつけている。 
 たとえば、一坪。畳二枚ほどの場所へ泥を盛り、その土の中へ、茄子でもトマトでも、
キュウリ、カボチャ…。そうした色々の野菜を作り、同じように陽をあて、同じように肥料を与えても、
茄子の枝には茄子がなる。トマトの枝にはトマトがなる。キュウリの枝にはキュウリがなる。
同じ日射で、同じ肥料で、同じ泥で、根も、葉も、茎も、
 
02  yasai 2007  01  
 
その緑が同じように雨に打たれる場所であっても、そこには、どうしても、
茄子の枝に赤いトマトは生らない。トマトの木にキュウリは生らない。
 これは、人間とて変わりない。
 男は男として産まれ、女は女として、産まれる以前から既に女として創られている。 
 それを現代の学校教育はすべて、男女を同じように教育してしまったのである。
 それがそもそもの間違いである。
 学者といわれる人、教育者といわれる人、医者といわれる人よ… 
 人は、人を創ることはできないのである。
 人が、人を教育することも、絶対 不可能である。
 なぜなら、人は人が創った者ではない。 
    
 たとえば、人間の頭で作られた百円ライターにしても、すべて、設計図があって、
その設計の通りに作られている。しかも、創る過程がちゃんとあり、作る場所もある。
規格も、構造も、決められた通りに作るから、それは商品として役立っているのである。
しかし、人間がそのように決めた作り方も、もし一つ外れてしまえば
商品として役に立たない物になってしまう。ライターの作り方。そこから一つ外れても、
そのライターは火が出ないし、点かなくなる。 
 何十万円もする医療器具も、何千万円もするコンピューターもすべて、
その作る順序、規格、取り決めがあり、設計図がある。
決められた通りに、決められた物を作るのである。
 人間が作る物。道具は、すべてがそのようにある。 
 ところが、一人、人間だけは、そういった決められた方法が、どこにもない。 
それはまた、過去、何千万巻と書かれた経文の中にも、
どんなに素晴らしい学者によって書かれた哲学書の中にも、
今の世の中を見回した医学の中にも、『人間の設計図』というものがない。 
   
 人の体とは、何で出来ているのか、どういう仕組みになって動いているのか、
人は、人でありながら人の体については解らないし、知り得ていない。
 医学という学問の上でも、人の体の仕組みとか、自然界と臓器の関連については、
まったく解っていないから、人の体や心の苦しみを部分的にしか考えられない。
 人間は、人間について解っているのか。
 どうして人間が出来たかについては、何ひとつ解っていないのに、
人は色々の学説をつくり、人の自由を束縛し、実に勝手なものである。
 人や他人を・・・と言う前に、自分が何なのかがよく解っていない。
 世の中には、生みの親として数え切れないほどの親がいるが、
自分の産んだ子供について解っている親は、
一人もいないのである。それは、親だけでもない。
本人もそうであるし、医学という学問でも解らない。
 人間の姿形をして世の中に出て来てから人間を見て、
長い間、地球上に生活してきた上での色々の教育や思想、知識とか統計的な学問によって、
自分自身はおろか、他人をも雁字搦めに縛って生きているのが人間である。
 現在、人が生きるために必要としている様々な機械、生活用具。
こうした道具は数え切れないほどある。
これは言うまでもなく、人の数よりも多いが、すべてが人の造った物であるから、
それらの物については、その物を造った人であれば、どういうふうに造られ、
どういうふうに動いているのかがよく判るようになっている。
 しかし、人間や動植物。要するに、生命を持っているものについては、道路や車などと違い、
創った者も解らなければ、その設計図は何処にもない。
   
人間の心と体について、自然と人間の関係をわかりやすく示した『人間の設計図』は、どこにもない。
 それでも、十年、二十年、五十年前、百年前、二百年前、千年、一万年前も、現在も、
人の創り方には何も変わりはない。
 そして、つくる場所も決められていない。そのつくる方法にしても、本来、人間誰もが知っている。 
それこそ、場所はどこでもいい。風呂の中でも、トイレの中でも、車の中でも、男と女がいるなら 
そこには、つくるために何か特定の工具も、精密な道具も必要ない。 
 そのように、ただ本能的に、男女両性の結合によって、そうした素晴らしい人間になる。 
 しかし決して、人間は人間が作る物ではない。 そして、この自然界に、
人間が創られ、産まれ、育ち、死にゆくという事実を否定できる者もいない。
 今こうして自分の手足があり、指も関節も自由に動かすことができることも、できないことも、
鼻の穴で空気を吸うことも、匂いがわかることも、また、顔にある二つの目が見えて、
耳が聞こえて、口を動かすことで誰かとお話できたり、何か目の前にある食べ物を見て、
食べたいと思うことも、それをその手で掴んで口に運び入れることも、
決して人間が造った物としてあるわけではない。
 そのようにして食べた物を消化する人間の臓腑によって消化された物を自分の体の外へ出すことも、
教育によって造られた者でもない。学校や社会、親の躾や先生の教えには関係なく、
初めから人間に備えられた能力である。 
 それは、人間が一人、この世に誕生する以前から決められていたことである。
 目に見えないような卵子と精子がぶつかった時。その受胎された瞬間から 
人間の細胞組織としてはじまってゆく。そこから十月十日【とつきとおか】の間、母親は一つとして、
「顔の目をどのように入れるか、鼻をどの辺りにつけるか、口をどんな形にして付けるか、手は、足は…」 
というふうには何ひとつ考えないし、それを相手が自分の目の前にいてもいなくても、
父親に相談することもない。 
 ただ健康で、かわいい元気な子供が産まれることを願い、喜び、あるいは様々に不安に思うことが
あったりしても、人間が創られるときに、どのようにするということは何一つ親が決めることではない。
 そのようにして子供はできるのであって、いちいち、人間が手を貸し、干渉しつつ、監視しつつ
創られるものではない。だから、人間は人間を創れない。
 人間以外の、人間が作る物はすべて、人間の管理化のもと、監督下にあつて作られる。
それでも一つ間違えれば、それは商品としても、物としても、役立たなくなってくる。しかし人間は、
少々馬鹿でも、利巧でも、たとえ形が変形していても、産まれてくる。
そして、世の中に生きて行けるようになっている。
 それほど、人間とは素晴らしく、母体とは、そうしたものをつくり出すものである。
 だが、人間は、その母体を今日ここまで、ことごとく破壊してしまった。
 それが教育であり、学問の知識、その指導者である。
 生きるために必要以上の知識、必要以上の経済。それがすべて、人間を駄目にしてしまったのである。
そして今まだ、それを続けようとしているのが、教育の世界である。 
 今まだ世間の教育界では、名門幼稚園、名門小学校、中学、高校、大学と、
常に英才教育を施そうとする教育があり、社会の常識があり、
それに踊り、それに着いて行こうとする親も大勢いる。
 その英才教育を受け、名門の幼稚園、中学、高校、大学へ入学し、させられ、すべてを終業してから、
いざ実社会へ出て、その期待通りの仕事、職場があるのか、どうなのか。
 そんなものは、もうない。
 明治、大正、昭和、その常識は既に終わったのである。
 これ以上それを続けて、誰の、何が満たされるのか。
 かつては、そうした名門出を認めていた常識も通用して、そういった高校や大学と卒業すれば 
素晴らしい一流企業の永久雇用、終身雇用、企業や国からの待遇もあり、
人々の生活も保障されていたかも知れない。しかし今は、そうした優秀な企業はないし、
行政においても、国の出先機関の窓口である地方の役場ひとつ、
「いつ倒産するのか」「いつ破綻するのか」「どうなるのか?」と、明日をも知れず、
先行きの見通しは何ひとつ解らないのが現在の世の中ではないのか。 
 それにもまして、我々人間の心。その心の容器である肉体。 そして、
その肉体を持つ人間の容器である地球。その自然界そのものが、教育によって破壊されている。
今まさに、この自然界。人間の置き場所が激しく、著しく破壊され、そこに住み飼いする人間は
ふらふらである。 
 我々人間も、大地に がっしりと脚を踏みおろし置くことができるように創られている。だが、その
踏みおろした大地が揺れてしまい、これから、もっと動こうとしている。 そんなところに立って 
どうして仕事ができるのか。そんな場所で人は、その肉体も心も、そうして落ち着いていられるのか。
これ以上、今まで通りに、その教育を施しても、すべて無駄である。 
 それは一人、人間だけではない。山に住む獣も、川や海に住む魚も、空を飛ぶ鳥も、昆虫も 
已むことを知らない経済を追求させる人間の教育が、開発に次ぐ開発を重ね、各々がその住む場所を
失いつつある。 そして、雨も、風も、空気も、陽射しも変えられてしまった今、
山に、山の動物のいる場所がない。川に、川の魚のいる場所がない。空を飛ぶ鳥に、空を飛ぶ力がない。
そこに飛び交い、地に降り立つ旅客機が、科学や学問の知識とは関係なく堕ちる。 
人工衛星が何億円という費用で開発されようとも、必ず堕ちる。容赦しない。落ちる場所へ堕ちる。
「絶対にない」ということだけが、絶対にあるように自然界は動く。
   
 かつて、今よりもまだ、人が食べる物も飲む物も安全で、着る物や住む場所に対しても
それほど神経質な人もなく、水も、空気も、大地も、それほど淀んだり濁ったり、汚されてはいなかった時代。
そこでは、整然と流れる自然界とともに営まれる人間の生活もあった。
 たとえば、獣も冬眠することができた冬、様々な動植物が休む場所へ降り積もる雪も落ち着き、
大寒もすぎた2月3日。 暖をとる囲炉裏【イロリ】の前で、部屋の中に巻かれた豆を拾い、それを十二粒、
炭火へ近づけて並べ、調度よい加減で順に囲炉裏の淵へ取り出して、
左から右へと自分達の目の前へ並べていた農村農家もあった。
そしてその一粒目の豆の焦げ方で前の月の天候を想い起こしたり、
ふたつ目の豆では二月のこれからを読み、みっつ目は弥生、四個目は卯月、五個目を皐月…
というふうに暦として眺め、
「ああ、5個目と6個目は、あんまり焦げてないよ。今年は雨が多いかも知れないね」
「いや、7月の豆はずいぶん焦げてるね。もしかすると暑い日が早くからつづいて 
今年のソバガラミの時期(稲の交配時期)はたいへんかもしれないね」 
「そうか、じゃぁいつもより少し田植えの準備を早めようよ…」
そのように、自分の家で採れた十二粒の豆の状態を その年の暦と照らし合わせることで、
そこから一年の季節、天候を予測し、稲作の取り組みや秋の豊作を期待していた人々の生活もあった。
それは、旧暦が廃止され西暦になる以前のことであっても、それまで何世代にも渡り、
自然界に生きる暮らし、営みの中で受け継がれた生きるために必要な生活の知恵であり、
人々はそうしたことを暖をとる家族の団欒としていたのである。またそれが、一年の節目という節分であり、
日本人の生き方であった。
 そして雪も溶け、春になると、やがて地熱が出て陽炎が燃え、樹木の緑が息吹く頃、
春一番、人家と近しく生きるツバメが、どこの家屋の軒先でも巣づくりをはじめ、
自分達で産んだ卵から孵った雛を育てていた。そして、
雨の降る前日になると、宙を飛ぶ小さな虫が普段より地に近い場所を飛ぶために、
鳥達も低い位置を飛び交っていた。
 村でも街でも、それを見た人は、
「ああ、明日は雨が降るな…」というふうに、昨日まで自然界の中にあったはずの人間の生活は、
都心から消え去り、町になくなり、山の村落にも失われ、日本全国あらゆる場所が
同じような街並に造り変えられ、自然界は破壊されている。 
 かつてのような自然界の流れに従った人々の営みは、もうどこにもない。 
 そして今、社会は、学校は、家庭は崩壊し、それを隠すことも、そこから逃れることも苦しくなり、
真綿で首を絞めるような日本経済も、人々の心を悩ませる医学も、治せない病気の問題も、
現在の人間の営みの、そのすべての在り方、昨日までの常識が、人々の生活に合わなくなってしまった。 
 経済にしても、軍事産業から平和産業へと移り変わった時代のかつてのような繁栄。その
栄耀栄華はどこにもなく、最早、人と経済の関係は、すべてにおいて噛み合わない。それでも今まだ、
その合わなくなったことを平気でやっている教育、経済、人間の造ったあらゆる常識である。 
 かつては、親に、学校の先生に、言われたとおりにして、社会に用意された常識の通りに生きて 
一流大学を出て、一流企業へ就職し、そこで永久に雇用され、雇用できたかもしれない。
今は、そんな大学を出ても決して、永久に雇用する会社そのものがなくなってきた。それなのに、
今まだ、様々な教育によって、様々なことを言いながら、学校や教育施設の運営を勧め、
人間が人間を教育しようとしている。
 文部省の配下にある全国の学校、親の頭が、自分達の子供に対して今まだ、
「お前はここで頑張って、こうやれば、こうなる」 「やればできる」 
そう言っていながら、決してその通りにはならない。 
 すべてが、『最期の嘘』のように、全国の企業、会社も、同じようにやっている。 
 労働賃金の問題ひとつ、世の中のすべての企業が、百円の物を作るために、
二百円、三百円の経費を掛けて、人件費を上げている。この状態がいつまで続くのか。 
人間の守り続ける見栄や体裁の常識が、今日このような自然界の中で、いつまで持ち堪えられるのか。
 これを根本から治さなければ、日本経済も日本の教育も、絶対に未来はありえない。
世の指導者と呼ばれる者、立派な肩書を持つ先生も、お医者さんも、企業の経営者も、政治家も 
人間であるなら、今そのことに気づくべきである。
 現在、どこの会社も、利益、収入の何倍という計算の中で人件費だけの問題で悩んでいる。
その問題は、一企業の一経営者であれば、誰もが本当に無視できない問題である。また、 
そうした企業の経営者と同じように、
「今、自分がどうしたらいいのか?」 
「今後、自然界はどう変化して行くのか?」 
頭を抱えているのが国の指導者である。
 財界も、政界も、かつて日本を牛耳っていた人は、その肉体も心も、もうすべてヨボヨボの老人となり、
もう間もなく、この国の中には、かつての指導者として政治家の顔をした者はいなくなってくる。 
 その後を受け継いでいる官僚や代議士が、どれほど優秀なのか。 何ができるのか。 
 今後、一企業を使う財界、政界の動きは、必ず破滅することになる。 
 その厚生省の動き、文部省の動き、農林水産省の動き、潰れる順番。 また、一二〇機関もある
特殊法人の変化の仕方、廃止。それらはすべて、国民一人一人の生活に大きく関わってくる。
政治家共は、もし検討がつかなければ、直接、私のところまで素直に聞きにくればいい。
本書の巻末には連絡先も住所も掲載している。 
 だから、これ以上、教育を受け、これ以上どんなに素晴らしい学問を身につけようとも、
その教育を受けた人達のいる場所。その人間達の職場がない。今のままなら今後、永遠に 
この職場はない。 誰もが、誰にも、何にも保障はされない。
 そのように、決して今まで通りではないことが、平成の世の常識であり、
それをそのように動かしているのが自然界である。 
    
 わずか、百年たらずの間に経済の先取りを考えた教育の公害。そこで 
「人間は皆、平等である」と考え、教えてきたことのすべてが大きな間違いである。その教育を
重視してきたことが、決して善い結果ではなく、今日、世界を一家にしてしまった。そして、
人間を生かしている自然界の序列を無視して、馬鹿を金持ちにさせ、利巧な者を抑え込もうと頑張ってきた。 
 自然界に生かされている人間の階級、人の頭の程度、人間の創られ方の違いは決して、
学問や教育によって決まるものではない。
 すべて、受胎の瞬間に入魂される心。その三世を生きた永遠の魂によって人間の程度が決まる。
その心によって、生涯、その肉体が動き、その者が生きてゆくために必要な知識も、すべてを備えられ、
創られ、育ち、死にゆく。それが人間である。
 そしてその、過去、未来、現在といわれる三世に区別があるのではなく、人間誰もが、現在、
今ここに生かされているからこそ、過去があり、今ここに生かされているからこそ、未来がある。また、
過去、未来、現在。そのすべてを最初から最後まで完全に解らなければ、誰も、何も救えない。
 人の言葉でいう、「神」や「救世主」という者が本当に実在できるとするなら、その者は、
人々に何を伝え、教えようとしているのか。 
 人間とは、どうして創られたのか? 地球とは何なのか? 
 このすべてを確かに、具体的に明かせられなければ、誰も、何も納得できない。 
 やがて間もなく、科学も宗教も、全世界の教育が ことごとく崩壊する時期…。
 それまでに一刻も早く己に合う本当の生き方を見つけておくべきである。
 
 今まではやはり、「右に行けばいい」と言われると皆、右へ寄って行った。そして、
「これ以上、右に行ってはダメだから、何とか方法を考えて…」という世の中になって来ている。
だがそこに、本当に自分に合った方法、生きる術が在るのか、まだ見つけられないのか。
それ以前に、自分自身の立つ場所にやっとの思いで立っているだけの肉体である。そしてそのように 
いついかなる時も不安定で、常に落ち着きのない人間の容器。人類の置かれる場所。すなわち、
地球は破壊されている。その激しい変化の中にいて、人は、自然界の成せる業には手も足も出ない。
成すがままである。 
 そして今後は、自然界が崩壊するより先に、次々と、人の頭が壊れて行くことになる。
 
   ------------ 中略 ------------ 
 
女らしさとは素直さであり、優しさであり、男らしさとは逞しさである。
女には女の教育を 男には男の教育が必要であったものを
すべて同じように教育された頭で、世の中には今、何事においても解ったフリはできても素直さはなく、
完成されてしまったような顔で、男は男として逞しさもなく、
女は女として創られ産まれた女でありながら、女らしさもなく、
人間の偽者のような格好をしている者も多くなってしまった。それがもし、世の指導者であるなら、
その教え子や生徒、後輩、部下、社員にも、その顔を見ただけで、その者の嘘を見抜いてしまう者もいる。
その時、その生徒は、子供達は、上司に腹を立てる部下は、自分の孫や娘は、 
何を思って、その次にどんな行動に出てしまうのか。 
誰にも想像のつかないような世の中の有り様である。
 そのような人間が生きて生かされるはずの場所。社会で、教育現場で、医療現場で、
様々に巻き起こる事故や事件、犯罪に巻き込まれるかどうかも、己次第である。だから、
ここでこのあたりで、科学者も教育者も、世の指導者とされる政治家も、財界人も、 
すべて己そのもの、自分がどうして創られた人間なのか。そのことに目覚めなければ 
地球は完全に破壊されることになる。
 その、地球破壊も間近い今、どうやれば これを防げるのか。どうすれば この苦しい世の中に
生きていけるのか。自分という人間がどう創られているのか。 
    
 父親と母親が本能的な男女両性の結合によって造った結果なのか。自分の心、魂とは何なのか。
 そうしたことを分かり、それが職責であり、職能であって、今、社長で良いのか。社員で善いのか。
どこかでこのことに気づかなければ、社長でない者が社長の席に座っていれば、とても苦しいだろうし、
社長であるべき者が社員であれば、常にイライラとするでしょう。
 繰り返すように、人の頭は決して、同じではない。教育によって出来あがった物ではない。
最初から、受胎の瞬間から、魂はそう創られている。 
 その創られた通りにしないから、人々は悩むし、苦しいのである。 
 できる人はできる。できない人はできない。臭いものは臭い。駄目なものは駄目だ。
必要でない者は必要ない。自然界と同じように、捨てる者は捨てる。
 そうしたことに気づかせ、その職責にあった自分自身を、自分の力で見つけられるようにしているのが
私の洗心であり、今後も私は、大勢の者に必要とされる人間と直接会って対話をすることになる。
 
 たとえば、「健全なる肉体に健全なる精神が宿る」と考える人がいて、本当に自分の考えた通りに、
その肉体が動くのか、どうなのか。
 思うようにならないとすれば、その肉体を 具体的にどうやって治せばいいのか。
 人間は、常に健康で、明るくなければ、何をやっても無駄である。
 たとえば、学校の先生が、ベルが鳴ったあとに教室の戸をあけて、一言も物を申さず、
日本中の苦虫を自分独りで食べたような顔をしていれば、それを見た教室の生徒は、きっと、
「今日の先公はヘンだ」と思うに違いない。そして、教壇に立った時も、何も物を申さなければ、
また変である。 
 どんな時でも、指導者であるなら、教育者であるとされる者なら、明るく、健康で、朗らかでなければ
誰に慕われることもないし、寄り添うことも、頼りにされることもない。その健康、健全さを欠いては、
人の指導も、家庭の指導も何一つ満足にできない。 
 その教室の戸、ドアをあける向こう側にいる生徒へ向けて 
「イヨ!」というような声を出して、常に人に呼びかけ、常に人に語りかけ、そうしてリードする先生が今、
日本全国に幾人いるのか。 どこの学校の教壇に毎日のように顔をあわせることが楽しみで 
それだけのために「学校へ行きたい!」と生徒に好かれるような魅力ある指導者がいるのか。 
その日一日、ほとんど、自分の体を持ち堪えさせることが精一杯な者ばかりである。それで
苦しくはないのか。
 また、最近の中小企業。日本の北から南まで大勢の事業主が集まり、集められ、そういった企業を 
「どう経営すればいいのか?」 「どうすれば潜在能力を開発できるのか」 「どんな努力が足りないのか」 
そうしたことを常に考え、教えようとしているセミナーもあり、宗教の教えと企業を合わせたような者もいて、
今も日本にどれだけの数の、経営者の開発、人材育成講座。精神のトレーニング、鍛錬。また、
様々な方法や策を教え込もうとする経営コンサルタントの会合や社会教育セミナーといったものがあるのか。
そこへ通う人達は、どうして、それまで立派な教育を受けてきたにもかかわらず、会社の経営に悩んだり 
考え込んだり、イライラすることも多く、なおも勉強し、必要以上に自分のための教育を必要とするのか。
 たとえば、一つの会社の朝、朝礼の時も、そこで働く者同士で、その日一日を打ち合わせするにも、 
「今日は、どうすれば仕事が旨く行くのか」 「どうしたら決められた目標を達成できるのか」 
「どうやったら接客が巧くいくのか」 そういったことを短い時間の中で具体的に話す機会もあるはずである。
しかし何人【なんびと】も、自分の頭で考え、その頭で考えた通りに行動するはずの肉体が、
最早、その素晴らしい頭の考えた通りには動いてくれない。 
 どう言われても、どう考えてみても、自分の体は その通りに動かないのが事実である。そのことは今、
誰もが判ってきていることであり、まず自分自身がよく知っていることである。 
 しかも、その職場や会社の経営者や管理職の立場にある指導者とされる者ばかりでなく、そういった者が
集められるセミナーの講師、トレーナー、先生と呼ばれる人にも、一人として、健康で素直に明るい者は 
いないはずである。 
 その指導者や指導員とされる者も、すべての教育によって、決められたことだけしか言えない。そして、
決められたこと以外は頭に浮かばない。
 その、決められたこと以外に解らないことを、もしも相手に質問されると、応えることができない。 
そのために常に、自分自身で悩み苦しむことになり、肉体までも悪くさせてしまう。
 今まで通りに、長い間、教育されてきたように、
「お前も この通りにやれ!」と押し通す元気があるならまだしも 
そのような人が、それもこれもすべてをやり尽くして駄目だったという相手に会ってみて、
そこでは一体、何を応えられるのか。 
 人の気には、そばへ寄って、とても楽な人もいれば、そばに寄りたくないほど嫌な気もある。
「あの人の側にいると、とっても楽だよ」という人もいるし、
「この人の側へ行くと どうしても気が重くなる」という人もいる。
それはそれぞれ、その人の気である。
 少なくとも、学校の先生。また、そういった指導者といわれる人は、いついかなる時、
どんな場合でも、誰に、どこで、何を質問されても応えられる余裕があって、どんな時も、
相手の身になって返答できなければ、それは指導者でも教師でもない。
 またそれは、病院で働いている者が、とくにそうである。
 そして現在、教育者。そうした指導者に限らず、人の体を治す立場にある人。この人達が
いずれも体が悪い。
それは、自分の知識として、教育、学問として、教えられたことだけしか考えられないからである。
 零は百個あつめても零。千個 積んでも零は零にしかならない。この零から一歩も出ることはない。
 その頭でもう少し、「自然と人間」 「人間の創られ方とは どうなっているのか?」こうしたことが
分かれば、このようなことはありえないし、治される人も、治す人も、とても楽に仕事ができて 
自分らしく堂々と生きてゆけるに違いない。
 いずれにしても、何者も、創る前に、創られる前に、すべてが決められて創られている
ということに気づくべきである。そして、人間は、生命ある者に対して、
人間の力では何一つ解らないということを改めて認識すべきである。それは、
自分が可愛がっている猫でも、犬でも、自分の目の前に咲いている花でも、
生命ある者に対しては、人間は一つとして解らない。この、絶対に解らないということに気づけばいい。
 自然。生命を持っている者。道路の脇に生えている草一本にしても、いま日本に、
どんなに立派な農学博士や様々な学者がいたとしても、 
「この草は何のために生えているのか」 
それは解らない。
その葉の命、存在について、学名とか種類とか、勝手にその名前をつけることはできたとしても、
それは一つの分野、学識の範囲、枠組、学問の知識で、その名前だけが判るだけで、
どうしてどこに存在するのか。どうして生えたのか。
どうしてこの場所にこの花が咲いて、この草が生えているのか。
その場所にある花も、草も、別の場所に行けば、そのようにそういう花は咲いていないし、
そんな木はない。それは、どうしてなのか。
博士と呼ばれる者が、百人集まっても、そういうことさえ解らないし、気づけない。しかし、
それは博士である。何かを研究し、その功績も、世の中に認められて、博士として存在している。
それでも、その自分の存在さえ、どうしてそこに在るのか解らない。
 ひとつの場所に馬鹿を千人集めても一万人集めても、馬鹿は馬鹿でしかない。
そこに、利口が一人いるだけで、その場所は変わってしまう。
 とくに、人の体を診る医者、医学博士、治療士。人に教育をする先生。人を指導する指導員。
企業の社長も、政治家も、財界のトップも、指導者とされる者。
この人達は今一度、自分に戻り、よくよく考えてみてはどうか。
 決して、人間が人間について、何か解るものでもないし、人間が人間を 何か治せるわけでもない。
 たとえば、人間の胃という臓器ひとつにしても、世界の製薬会社、そして世界中の薬剤師、医学博士を
一ヵ所に集めてみても、人間の胃酸も、胃液も、その通りに同じ物を造ることはできないし、
人間の胃の消化。その分泌する液について、その者共が何をどんなに研究してみても、何一つ解らない。
 人間は決して人間を創れない。 このことに気づけばよい。
    
 厚生省の管轄下にいて、人の体を診る病院、診療所のお医者さんも、文部省の認可のもとに
素晴らしい資格、技能、様々な治療法を身につけ、それを業としている開業医。そうした治療院で働く人達も、
その人達の体は、心が悩み苦しむことで悪くなり、今なお沢山の問題を抱えておられる。それはまた、
本人よりも、患者、お客さんの方がよく知っているし、判っている。
「先生、だいじょうぶですか?」 
そのように言葉にしないまでも、大勢の者が、その顔色や体を見て、不安も心配も、そのままになっている。
要するに、治される側より治す側の立場にある人の方が体が悪く、今後この問題はもっともっと酷くなり、
医者も治療師も、もっともっと悩み苦しむことになる。
 厚生省や文部省に限らず、国は、このことをどこまで把握しているのか。そして人間は、
こんなことをどこまで続けようとするのか。 
 こうした教育者、指導者、人の体を診る人は、自分以外の他人の何かを教育しようとする以前に、
指導する以前に、人を治すことを手伝う以前に、まず、自分の肉体がどうなっているのか。 
そのことに逸早く気づかない限り、素晴らしい教育もできないし、素晴らしい指導もできない。医者は、
治療師は、人の体を治すこともできない。
あくまで、人間の肉体。その全体を覆う筋肉に流れる血液と気。人が自分でつくる邪気と正気の問題である。
常に患者の邪気を吸い込んでしまったその体で治療し続け、まだ開業し続け、
人の邪気を吸い込んだ指導者、人の邪気を吸い取ってしまった教育者がほとんどである。
そんな者に誰が頼ってくるのか。
そして、治される側の人、患者は、自分のところへ来る前の状態よりも、
もっと苦しくなるし、何も治ってはいない。
 このままではまさに、治される側の人も治す側の人もどうにもならないし、今まで通りの方法や策、
学問による知識や経験だけでは、ほとんど治らなくなってきたことは事実である。それは実際、この本を
読んだ人も、見た人も、今々、自分の周囲にいる人を自分の目で見てみて、その人達の中には常に、
「ここが痛い」 「あそこも痛い」 「どうしてもここが苦しい」 そう言いながら転々と治す場所を替えて 
「今日は鍼灸院」 「今日は あそこの病院」 「昨日はカイロプラクティック」、指圧も整形もリハビリも、
「あそこがいい!」と訊けばそこへ出向き、健康雑誌や健康機具、健康食品の広告を趣味で捲り、
知識によって肉体が汚れ、それ以上に具合が悪くなることには構わず、
「明日はどこそこへ行く…」というふうに勝手に決めている。それでも、まったく楽にはならない。
それは、どうして治らないのか。何のために悪いのかは一つとして判らないし、誰も教えてくれない。
そのために転々と移動し、あちこちの病院、様々な診療所、色々の治療院を数かぎりなく回り歩いている。
そしてそこへ行くたびに
「ああ、どうせまたココも駄目でもなんでしょ。治せないんでしょ…」という他力本願な考え方でいる。
原因が解らないものを治すことはできないし、人間が人間を治せるものではない。
それを病院は薬で抑えつけ、治療院では高額な機械や機具によって人間の体をなおも破壊している。
そのように、どこか具合が悪くても、どこへ行っても、どの病院も、はっきりと、
その原因も治し方も何も解らないから、遂には、その人が、
正しく解る人の意見も聞けなくなり、目を吊りあげ、まったく素直さを失った顔になってしまう。
今このような人が全国にどれだけいるのか。そして、このことはもっともっと続いて行くことになり、
今後、カウンセラーと呼ばれる人や老人介護にあたる者にも大きな苦しみになってくる。
人間は、そうした社会の問題をどうすることもできずに、様々なことを言うようになる。
まさに滑稽な、知識の化け物を揃える世の中が出来あがる。
そのような世の中で、誰がどうして生きてゆけるのか。それは果たして、人間の世の中なのか… 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                 つづく ☞ #10  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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