Running Smoker 1983  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   
   
      走れスモーカー  ~ new edit version 
   
   
 青年は苛立った。数学の問題が解けないのである。
 時は既に深夜二時を廻っていた。表では、秋雨が残暑の夜を涼しく染めていた。
 青年は、頭を掻き毟ると、突然 立ち上がり、両手で机を叩いた。
そして如何にも物欲しげに咥えていた鉛筆を手に取ると、それを握り締め、力強く折った。
 彼は浪人の身で、歳の頃は十九。その年の春、都内某有名国立大を見事に辷り堕ち、
単身で上京、都会の片隅のとある学生宿舎の一室で、
ひっそりと勉学に明け暮れる日々を送っていた。
 彼が煙草を覚えたのは、その年の梅雨に入って間もなく、理工系志望の不合格者として
二ヵ月間の絶望へ追い遣られての事だった。そしていつの間にか、その道の
重症喫煙者【ヘヴィ・スモーカー】と成ってしまっていた。然れど、この秋の青年は、
次の年に再度の勝負、共通一次を控え、心に“禁煙”を誓い、勉学に勤しむべき身であった。
 これ迄彼は、聢りとその事を自覚していた。その証拠に、ここ二週間半は郷里から
送られて来る餃子や焼売を蒸す事はあっても、煙草を吹した事は一度もない。
 然し、今と成ってはそれを吸わぬ事には叶わない。
 彼は高次方程式の難問を投げ出し、深夜その一室で、ある捜索を始めた。
 机の引出の中、戸棚の中、冷蔵庫の中、下駄箱の中と、戀しい煙草を求め、
部屋の中を隅から隅迄、探し捲った。
 三十分後、灰皿が三つ、マッチが九個、ライターは七つも見付かったのだが、
肝心の煙草は姿形は固より、その吸い殻さえも見当たらなかった。
 青年は、欲望の渦へ引き込まれる自分を何とか抑えようとしたが、若しやと思い、
共同トイレも覗いてみた。が、矢張、吸い殻一つない。
 いつもなら、便器の脇に積まれた週刊誌の上には無造作に置かれたアルミニウムの
灰皿が在り、そこに干涸びた吸い殻が山の様になっているのだが、その日はどういう訳か
綺麗に掃除されていた。
「なんだよ…」 
青年はそう云い残すと、共同トイレを後に部屋へ戻った。
 深夜に身体を動かした所為もあり、幾分、疲れた様子で机に坐った彼は、肘を立て、
額へ指を這わせながらも、砕いた鉛筆を丁寧にセロハンテープで補強する事で、
暫し心を落ち着かせようとした。だが、気を取り直し、それから再び解けない数式を
睨みつけてはみたものの、一度、湧き上った煩悩は、そう簡単に鎮められるものではない。
「タバコを吸いたい」という欲求の広狭は、漸次、拡張される方向へ進み、軈て彼は、
焦燥に駆られて来た。そしてその激しい苛立ちの余り、遂に青年は叫び声を上げた。
処が、それだけでは治まらなかった。
そこにその場所に、巨大な欲望が満たされない事の証跡を浅はかな結果として現わすかの如く、
数回に亘り、手元にあった消しゴムをその鉛筆で突き刺した。
更に彼はその消しゴムを堅く握り締め、又もや机を叩くと、
「最早、買いに行くしかない!」
そう決起し、愛用のライターと小銭を、可哀相な消しゴムと一緒にポケットへ詰め込んだ。
 青年の決意は、その苛立ちと同様、異常な程に迄に膨れ上がった欲望から生じる
もののみであった。その為か彼は、「一刻も早く!」と、非常に慌てていた。
 
 人は、自ら置かれている状況が大変な時にこそ、
何事も慌てず落ち着いて行動できれば善いものを 
その時と許り慌ててしまい、更に苦しむ方向へ持って行ってしまう。
どんな時も冷静沈着な心を保てるよう、肉体に余裕があれば、
それぞれ生まれ持った能力を充分に活し、
行動も常に聡明な筈である。それは先ず、心の容器である肉体に問題がある…
 無論、自然界に生かされている人間の肉体と心の密接な関係の基本、その原理原則すら
知り得ないその時の青年は、心の容器である肉体にゆとりを持てる訳もなく、深夜、
降り頻る雨の中へ、玄関の脇に立て掛けられた傘を持って飛び出す位が彼の中に唯一
残された心身の余裕であった。
 胸元に綿の丸首シャツが覗ける純白のYシャツと、穿き古して色褪せたジーンズという、
浪人生らしいシンプルな服装に身を極め、右手に蝙蝠傘、左手をポケットの中へ突っ込み、
煙草を買う為、只管に雨の暗がりを走り行く青年。最早、この時の青年の気を止めるものは
何も存在し得ないのか……。
 彼は非常に慌てていた為に、右足にはスニーカー、左足に下駄を履いていた。
 それ迄、切々と、秋の夜長に煙る雨音が支配していたアパート街。その裏路地の、
その路面には、下駄とスニーカーによって、カタッベチャッ、カタッベチャッと軽快なリズムが刻まれた。
 そして、「タバコを吸いたい」という唯それだけの欲気に囚われ、とっとと走る青年の姿がそこにあった。
 そんな彼は、この夜これから、凄まじい幾つもの不運に巡り遭う事など夢にも想わなかった。
 それから約二分後、青年は、下宿先より五百米ほど離れた、ある煙草屋へ到着した。
 店頭に設置された一台の自動販売機。そこへ、少々息を弾ませながら近寄る青年が、
ポケットから小銭を出そうとしたその時だった!
 彼はそれを見て唖然とした。
 髀肉にも、その販売機の煙草は全て売り切れだったのである。
 憎らしくも、羅列する二文字の赤いランプは、この二分間、
煙草を吸うという抑え切れない欲に操られ、
雨の中を懸命に走って来た青年を嘲笑うかの如く、
列を成し、仲良く光っていた。
亦それは、彼のこれからの運命を象徴しているかの様でもあった。
(日本国内に於いて、23時以降、酒類及び煙草の自動販売機の利用が制限されたのは、
1985年からである。この物語の舞台設定は、それ以前の昭和末期、関東地方のとある
郊外とされる。従ってこの時期は未だ現在のように過剰な迄に便利さを追求した店舗、
24時間営業のコンビニエンス・ストアや、レストラン、ゲーム・センターの深夜営業
も殆ど無に等しく存在しなかった時代である。勿論”センター試験”と呼ばれる制度
も無かった時代。ちなみに、20本入り煙草のハイライトは一個 ¥220だった…)
 
   
 暗がりにぼんやり浮かび、横一列に点灯する赤いランプ。
思いも寄らぬ光景を目にした青年は険相し、その遣るせなさは、愚かにも怒りに変っていた。
「糞ッ!」  
彼は思い切り、販売機を蹴った。 (ガグォンッ) 
 するとその音は路上へ降り注がれる雨音によって遮られたが、力任せに蹴り込まれた部分は
見事に凹んだ。
 次の瞬間、その行為に身を投じた青年は我に返った。
「かぁ、ヤバイぜ…」
 彼は差していた傘を持ち換えると、腰を屈め、自分が凹ませた部分へ、そっと目を近付けた。
そして、販売機の傷痕を濡れた手で申し訳なさそうに擦った。
 青年は、唯々、反省を胸にその場を立ち去ると、何に命じられてか再び走り出した。
 彼は決して諦めなかった。というより、その時の彼自身の中には、その意思は殆どなかった。
それ程、ここへ辿り着く何分か前、怒り狂う寸前迄、その紙一重の興奮の基に机を叩いた堅い決意は、
彼の中で何としても曲げられない意志と化していた。
 青年は兎に角、煙草を求めて走った。そして今度は町中へ向った。
 アパート街から下町を抜け、国道を沿って南へ進むと、寂然とした商店街に出た。
そして早くも、一つの販売機を見付けた。それは大きな酒屋の前に在った。彼は息を切らせながら、
何とも云えない安堵感に胸を膨らませ、傘を窄め、麗しき煙草の販売機へ近寄った。
 然し、(ガーン!) 又も、あの売り切れランプが並び輝いていた。
 刮目を装う暇もなく、その光景を目に焼き付けた青年…。そこに込み上げた怒りは頂点に達し、
意馬心猿。彼は、錯乱したかの様に、店のシャッターを拳で叩き続けた。
 然し、都会の片隅と雖も、その町も謂わゆるドーナツ化現象の為に、夜間の商店街には人気もなく、
深夜ともなれば、時折、路地裏から聞こえて来そうな野良猫の鳴声すらない。
而も、その様な大きな酒屋であれば、住民が居ない事は尚更である。
 軈て、その事を悟ったのか、青年は徐々に力を失う様に叩き続けたシャッターの前に崩れ落ちた。
 冷ややかな風雨が彼の頬を静かに程好く叩いた。だがそれで破り去られ散りゆくも、
浅き夢を抱ける彼の魂魄が、あの耐え切れぬ興奮から目覚めた訳ではなかった。
 その場は諦めたものの、青年は傘を差し直し、亦、振出しに戻った。
 欲望に絡みつく運命の悪戯とは、こうも一人の若者を振り廻すものなのか…。その、
「どうしてもタバコを吸いたい」という欲求と解けない高次方程式、大学入試不合格、
そして売り切れの販売機…。
その不条理の空廻りは、僅かに残されていた自制心をも掻き消すかの如く、若き者を熱く奮い立たせ、
亦それ以上に、彼の欲望と執念は、
「今後、迫り来るどんな状況下に己が置かれようとも必ず成し遂げねばならない」と
いう程の、牢固たる信念へ変りつつもあった。
 夏の名残を見せる底の擦れた下駄の音は、秋雨の音色に良く調和し、薄汚れた白いスニーカーは、
水溜まりに填まると大きく撥ねを上げた。
 その、雨降る闇を走り行く青年の足元は、いつしか泥道に変っていた。
 と、その時だった! 突如、彼の差していた傘が宙を舞った。青年は驚愕の叫びと
共に激しく転倒し、やや大きな水溜まりへ突っ込んで、泥の水飛沫を上げた。
「うぅっ…」
彼は唸った。 するとその時、泥塗れの青年は、後ろから猛スピードで迫る自動車の
ライトに気づいた。次の瞬間、彼は、咄嗟に神に祈りながら道端に転げ廻り、
持っていた筈の自分の傘が踏まれる音を耳にした。(ヴァリリッ!) 
 危うく難を逃れた青年は、その場に俯せ、通り過ぎて行った車のテールランプを眺めていた。
そこには、降り頻る秋の雨音と、青年の荒い息遣いだけが聴こえた。
   
   
 暫くして青年は、蹌踉めきながら立ち上がり、車に轢かれ、骨を折られた傘を拾い上げた。
そんな彼がふと、自分の足元を見ると、泥に汚れた左の素足に気づいた。
 石に躓き、下駄の鼻緒が切れたのであった。辺りを見回すと、鼻緒の切れた下駄は、
最初に顔を突っ込んだ水溜まりで逆さになって浮いていた。その底をポツポツと雨が叩くと、
水溜まりには波紋が拡がった。
 彼は、フラフラとそこへ歩み寄り、しゃがみ込んで一つ溜め息を着いた。
そして、泥水の中から下駄を摘み上げた。
 幸い怪我はなかったが、彼の肉体は衰弱し、日頃から睡眠不足だった所為もあり、
その時間ともなれば体力も限界を越え、意識も朦朧としていた。青年は二,三度、頭を振ると
両手で顔の泥を拭い、下駄と傘を振り捨て再び走り出した。
だがそれからは、全く煙草の販売機は見付からなかった。
 そのうち彼は隣町の飲み屋街を突進していた。 
 そこでは、雨降る夜半でも幾つか店先の提灯には火が灯り、暖簾が下がっていた。 
 青年は不意に、そこへ立ち止まった。
「タバコはここで買えばいい…」
 然しこの時、彼のその欲念を妨げる思いがあった。
「俺は何故、タバコを買うなどという阿呆な目的で、
こんなにも御苦労な思いをする必要があるのか? 
俺にとってタバコが、そんなに大事な物なのかよ!?」
と、それは、常識や秩序という事の他に、彼を思い止まらせる彼自身の“心”そのものであった。 
 彼の場合、自称[浪人生]という肩書きは無いにせよ、一般世間の見方からすれば、
ある一つの常識の枠に嵌まり、そこで打ち拉がれた、一人の敗者である。かといって この時代、
何も彼一人が一流大を辷り堕ちた訳でもなく、それ程迄に肩身の狭い思いをする必要もないのだが、
先ず第一に、彼は、納税義務のある年齢に達してはいない。
詰り、煙草を買って吸える様な輩ではない。而も、そうした自分の生き様を生々しく表さん許りの、
その泥だらけの格好で、まだ入り慣れない店へ、単に“煙草を買う”という目的で入る事も
不自然である……と、その様に彼自身が自問自答していた訳でもないのだが、実はそれ以上に、
この時の青年には、
「自分という人間に必要以上の欲が生じるのは何故なのか?」という疑問。その根底に
「生きる理由とは何か?」と、それを素朴に思う心があったのである。
 詰り、人間であるが故、人間に欲望が生じるという、その摂理は、この世に生きる己自身と、
どう関わっているのか?
 もっと云い換えれば、「生かされている理由を知りたい」という思いである。
「タバコに執着した俺。この俺は、何の為に今ここに存在しているのか?」と…。
 すると突然、目の前の店の戸が開き、軽く暖簾を掻き分け、明かりの中から
一人の中年サラリーマンが出て来た。
 そんな時間迄、一日の疲れを癒していたというより、十年一昔前からの馴染み客という赴きで、
その男は一本の煙草を咥えていた。雨の中、その後を追う様に店の女将らしき女が、
これから家路を辿る男を見送り、微笑んでいた。
「…たぶん、8トラックなら出てると思うから、
リクエストの奴、来週までに用意しておきますからね」
「頼むよ」
 よく有りがちな、そんな一夜の雨の横丁。そこに不自然な青年が一人、立っていた。
然れども、傍若無人。二人はその姿に気づきながらも
彼の存在を無視して、いつもと変りない和やかな雰囲気に浸っていた。
 その最後の客を引き払い、暖簾に手を掛ける女将。
柄の長い傘を広げ、微酔い加減で濡れた陋巷へ歩み入る男…。
次の瞬間、青年は、男の背中腰に思わず叫んだ。
「すみません! タバコを一本、貰えませんか?」
 矢張、重症喫煙者と成ってしまっては、その中毒性と習慣による欲望には打ち勝てなかったのか。
それ迄の想念を全て吹き飛ばし、腹を切る様な覚悟で、一歩踏み出た青年であった。
処が、振り向き様に一言、男はこう云った。
「糞して寝な…」
 すると女将が続けて、
「あんた、学生さんでしょ!」
と云いかけたが、崩れた出立ちで突っ立っている青年をまじまじ見ると、そこで改めて
彼を薄気味悪く感じたのか、二人は何もなかった様に、挨拶を交わし、
それぞれの寝床へ引き上げて行った。
 青年は言葉もなく、呆然とその場に立ち尽くしていた。
 闇に埋もれ行く背広の男。その後ろ姿を見詰める青年。黙って暖簾を畳み、店仕舞する女将。
彼の胸襟の屏風は、閉められる戸の音に貫かれた。 (ピシャッ!) 
「最早、これまで!」
彼は幕末の志士の如く、日本人独自が持つ意地が破り去られ、
その無念を末代に残すかの様な気分で、一つ呟いた。
 ともあれ、彼そのものは、そんな表現に収められる程、立派なものではなかったが、
「日本の夜明けは来るのか…」と、一瞬にもその様な念いが浮かんだ事は確かである。
その証拠に、青年は、片足だけに履いていたスニーカーを脱ぎ捨てると、文明開化が勃る以前の姿、
その時代に生きた人々の生活様式。即ち、素足になっていた。
   
 青年も訳が解らなくなり、結局、その飲み屋街でも煙草を買い求められずして、
いつの間にか亦、足に加速を付けていた。
「俺は何故、走っているのか? そう、タバコを買う為だ。
……でも何故だ! 何故、そんな目的で…
解らない。兎に角、タバコを買おう。販売機で買おう。そして吸おう。
それから緩、その事を考える事にしよう。先ずは何が何でも販売機を見付けなくては…
だから走らなければならない。走り終えた所で少しは解って来るかも知れない」
と、そこに、自分の肉体に問題がある事も僅かに感じながらも、これ迄“煙草を吸えない”
という無償な苛立ちや、そこから生じた突発的な怒り、精神の歪みは、
濡れた路面を素足で走る事により、彼の中から徐々に消えて行った。
 その頃、雨は、次第に激しく降る様に成った。それによって彼の泥だらけの身体が
洗われた。まるで、青年が走れば走る程、その激しさは増して行くかの様でもあった。
   
   
 夏を締め括る様な積乱雲の下、今度は“何かを諭る”という目的で走る青年は、
「販売機は駅にあるに違いない」と、そう考え、その町の駅を目指して突進した。
 そんな彼がズブ濡れで突き進む舗道。その街角を曲がったその時だった! 
 青年は、見るからに気の荒そうな二人の酔っ払いに、物の見事に激突してしまった。
 三人が担路へ転げた次の瞬間、それまで陶酔していた筈の若い二人の男は、
怒号と共に青年に殴り掛かって来た。
青年は謝る間もなく、頬を殴られ口の中を切り、目元を打たれ鼻血を流し、腹を蹴られ蹲り、
着ていたシャツもビリビリに裂かれた。
 然し、彼も黙ってはいなかった。謝罪も訊かず、唯、加減なく暴行を加えて来た事は、
仮にその筋の稼業に繋がりあったとしても許せなかった。
 青年は爆発した。
 そして、雨は激しく降り乱され、天空は迅雷を轟かせた。
 疾風の中、その激怒による猛撃の脅威は最早、人間を越えているかの様でもあった。
が実は、幼少の頃から空手と槍術を嗜んでいた事が身を守る結果となったのか、
いつの間にか彼は、壊れたモップの柄を八雙に構え、息を切らし、雷霆の中に立っていた。
 短くも長き凄烈な時を経て、そのぎりぎりの所で、遜色した己に気づいた彼は神魂に
導かれた。そして、どこから拾い上げたのか、握り締めていた木刀を投げ捨てた。
 そこには、青年に屠られ、血反吐を吐きながら蹲踞する二人の姿があった。
 にも拘らず青年は槇き苦しむ彼等に詫を入れながらも、一方が履いていたサンダルを拝借し、
それを履いてその場を立ち去った。
 云う迄もなく、彼は再び走っていた。
 走っている間、青年は「あの酔っ払いの二人組より自分こそが、
卑劣で胴欲な精神に身を委ねた存在である」と、自分の貪婪さを嘆いていた。
 矢張、まだ彼の中には、「タバコを吸いたい」という欲心から生じた苛立ちや衝動の勢いが、
この明け方近く迄も残っていたのか。その反面、
「己を知らなければならない、絶対に遣り遂げなければならない」という自己の追及を
惜しまず、自分に立ち向かおうとする心情の内にある、その葛藤の半分は単なる意地で、
もう半分は恒心の堅実さを超えた信念であった。
 軈て、雨足は遠のき、それまでの激しさが嘘の様に、風も和らいだ。
そしてその頃、早くも夜が明けようとしていた。
曉雲の合間から、その姿を現わした許りの幾つかの星も、もう行こうとしていた。
漸く、青年はその街の駅前へ出た。そして見た! 
 朝靄の立ち籠める旧いバスターミナル。そこから、約、百米向こうを見届ける青年。
喜色満面の彼の目には、溢れん許りの涙が込み上げていた。
 彼が見た物…。そう、煙草の販売機である。
 それは自動切符売り場に並ぶ駅の売店、その軒先と花屋が隣接する間。そこに、
小さく、小さく設置されていた。
 青年は、そこを目掛け、全速力で走った。最早、睡眠を取っていない疲労感などはなかった。
たったそれだけの距離を、泣きながら、走って走って走り抜こうとした。
 然し、又も青年は、突然の不運に見舞われた。
 突如、建物の脇から跳び出て来た新聞配達の自転車に撥ねられてしまったのである。
配達員は中年の女性だった。その時、青年は足を挫いた。処が酷薄にも、彼女は
転倒したその場で足を押え、苦しみ悶える青年に罵声を浴びせ、去って行った。
 青年は足てなかった。
 後、三〇米。
 彼は、積悪の報いを祓い除ける様に、目的地に向って這って行った。
 後、五米。…この時、彼のジーンズのポケットからライターが摺り墮ちた。
 青年は、最期の道を跋渉し、聳える煙草の販売機へ辿り着くと、釣銭口に手を掛け、
そこに縋って足ち上がった。その時、彼の脳裏に、ある一つの杞憂が過った。
それは、あの小癪なランプの事である。
販売機に膚接する青年の顔には、不安の色が滲み出た。
けれども、喜ばしい事に、何故か、あの忌々しい売切れランプは点灯していなかった。
 販売機にしがみつき、それを確認した彼は、ホッとすると同時に、
ここ迄来た甲斐があった事を思うと感涙を抑えられず、喜びで胸が一杯になった。
 こうして青年は、その感動に手を震わせながら、数枚の硬貨をコイン投入口に流し込んだ。
そして、好みのボタンを押した。
 煙草が出た。ハイライトであった。
 販売機も、一夜の雨に打たれ、一面に砂埃で汚れて真っ白に乾いていた。
 彼は、その側面を背凭れに、崩れる様にその場へ坐り込んだ。
そして取出し口から煙草を遙み出すなり、それに接吻した。
 青年は笑った。その姿に、道行く者が怪しげな視線を送っていた。
 嗤い終わって、彼は、緩とセロハンを剥がすと、そこから一本、煙草を摘み出した。
 この時の青年にとって、白い一本の煙草は何よりも大切な物に思えた。
そして彼は、その限りなく美しき一本を、燥いた唇に挟むと、
薄汚いジーンズのポケットの中から取り出した物で、徐ろに火を点ける仕種をした。
 処が、火は点かない。
 それもその筈、彼の手の中に在った物。それは紛れもなく、
その日の未明、鉛筆で突き刺した跡のある、あの、消しゴムであった。
 「無念!」 
文弱した青年の頭の中には、その二つの文字だけが無数に飛び交った。
 然し、彼は思い直した。
「下宿を出る時、確かにこのポケットにライターも入れた筈だ!」
 彼は他のポケットも探りながら辺りを見回した。
すると五米程手前、自分が這ってきた路上に朝陽に輝く物が見えた。
正しく、彼の百円ライターである。
 青年は持っていた消しゴムを、その名の通り
「ゴム消えろ!」と云わん許りに投げ捨てると、
煙草を口に咥えた儘、再び路上を這いつくばり、輝けるチルチルミチルを獲得した。
そしてその儘、その場に仰向けになり、清々しい晴朗の秋空を仰ぎながら、
咥えていた煙草に火を点けた。
 微かに、煙が目に凍みた。
 新涼に包まれた青年の唇から、緩と吐き出される白い煙。
その煙が消え行く蒼茫な色を見詰めながら、
彼は、過酷で壮絶な櫛風沐雨の一夜を送った事を胸に、
「これで絶対、タバコを止めよう…」
と、決心した。
 その頃、新しい朝に
始発列車のベルが鳴り響ていた。
    
 翌年、春を迎えた青年は、志望大学を受験せず、たばこ会社に就職、現在に至る。
   
   
   
   
                        
   
   
   
    筆:1983年秋 書き直し:1998年春 
   
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