ちょっと ひと息。   ♪ 日本ん魂ぃは、どこぉへ ゆくぅ~  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   
   
今日、ここに紹介する内容の捉え方によっては
なんか、勘違いされそうな気もするので
前もって断っておく。
   
俺自身はでもでもなく
赤組でも、どっかの新興宗教
会員 でもなく
特定の政党を支持する者でもない。

思想などはまっぴらだ  

と心に誓っている一人でもあるので
俺が書いているページによく登場する
カツオ爺さん ”という謎の人物(?)にしても
その人から訊いて気づかされたことを
誰かに押しつけるつもりはない。 (事実は人類に突きつけるけど)
だから俺は、どこにでもいる“フツーの一般市民”であって
今さらながらこんなことを云っても
“フツーの人”とは思われないかも知れないけど
俺自身としては
普通の人間として生きて
普通の人間として死にたい。 そう云っていることが既に普通ではない)
   
そんな、フツーでありたいフツーな俺は
最近、2002年に暗殺された石井紘基 衆議院議員のことや
ユダヤ民族の本質(?)などをネット検索しているうちに     やはり普通ではない)
発見した人物なんだけど
今の現実社会に対する問題提起としては
この人のパフォーマンスは
日本人の“失ったモノ”をつなぎあわせようとしてる…ように思う。
   
http://www.youtube.com/watch?v=FR3RuQHwoX8&mode=related&search =
http://torihada.tripod.com/haijin.html
http://www.torihada.com/history0.html
   
最初に載せているリンク中のURLの右側の選択枠の中に
いくつかのフラッシュ映像秘蔵ビデオクリップ)もあるけど、
ご本人は自分で持って生まれた能力を活かして
生きてゆくために必要として
そういう講演(?)・演説活動のパフォーマンスを繰り拡げているのだと思う。
それはそれでその人の自由なので
俺としては違和感は感じない。
むしろ、
「この人は今、何のために こんなことをやっているのか?」
俺にはただ単に「喰っていくため」とは思えない。
   
大東亜戦争(別名:太平洋戦争を含む第二次世界大戦)のあとの
今の日本人の意識と日本の社会は
ほとんどすべてが仮想的な現実にすぎない。
と、俺は思っている。
この何十年か、数百年かの間で見失った本来の人間の自由や
義務を伴わない権利、主張を錯覚して、錯覚させられてる大衆意識
「愛と平和」とか「男女平等」、「人権尊重」などという言葉だけで
嘘を並べ書きたててきただけの年寄り連中の無責任な人生観とか
貴重な戦争体験者でありながら福祉に齧りつき
その余生を恩金や年金制度だけに
しがみついてるだけのような高齢者のダラシナイ生き様…
そういう人たちが指導すべき立場である己を見失い
人間としての“人生の先輩”を辞めてしまったように
他力本願な惚け老人になってしまっていることが
情けない。
世の中にはグラスホッパー の70歳タップダンサーゴンタ君の友達のように
介護無用の高齢者 もいるのに
ほとんどの高齢者は、人間が人間として“生きる”ってことをナメてる。
「長生きしてりゃぁいい」ってもんでもないだろ、ええ、どうなのよ? その辺は?
ああ、なんだか鳥肌3No6のようになっちまった…)
   
ただ、
   
   政治や経済、社会構造というのは、恒久不変なものではなく、
   本来時代に応じて変化していくものです。
   しかし、たいていの社会では、
   変革よりも現状維持の方向へ力が働きます。
   しかし、それが度を越せば社会の活力を奪ってしまいます。
   古い体制を維持したい社会運営者には、個性の発揮とは有害なものです。
   豊かな個性の育成は、社会を活性化すると同時に、物事の価値感も変えます。
   不必要なもの、無駄なものは淘汰されます。
   したがって古い価値観を維持するためには、
   画一的(没個性的)である必要があるのです。
   個性とは、人と違ったことをすることでも、奇抜なことをすることでもありません。
   自分の人生を豊かに生きるという過程で現れてくるものにすぎません。
   そして、豊かさの追求の仕方は人それぞれです。
   本来、多様であるものを、画一化しようとすれば、必ず歪みがでます。

                        2005-11-14 09:05:04 中司
   
という、フリーランスの報道写真家の中司達也の言葉
も参考にさせて頂くと
奇抜な発想やアイデアで一時的に大衆の心を掴むことだけに満足してしまうと
自分が本当に伝えるべきことは伝えられない。
この点は常々、俺も注意してることだけど (ええっ!?)
たとえば、伊丹十三監督の映画づくりには
その辺りにちょっとした失敗があったと思う。
「社会に投げかけた問題提起」として
あの才能には類い稀なモノがあった。
日本映画の素晴らしさを、出演した俳優陣の人生も含め、
各作品ともにどれを観ても妥協のなさを感じる。
生前の伊丹監督は、人間の生と死と、そこに絡み合う欲望を基本テーマに
「宣伝するに足りる映画を全力でつくり、その映画を
宣伝を巧くして(マスコミを利用して)社会現象化させる」
 1990年ご本人の発言による
という、ものづくりにたけていた。
ある意味で天才であり、気チイだったと思う。
ところが、そのあとがあまり善くなかった。
「死とは人生最期の映画である」
などという、精神世界公害に引っ張られたような状態で
それから間もなくして自らの命を絶ってしまった。
周囲の者に与えた哀しみは、一つ一つの映画完成の喜びより小さくはなかった。
亡くなる3日前に六本木のキャンティという喫茶店で監督の姿 を見かけて 

あの時もしも、奇抜な発想を得意とする俺が(?)
店の中へ飛び込んで行って
「カントク! 俺を使ってくださいっ!」って土下座でもして
そこで何か一曲でも歌っていたなら、
俺は交番へ連れて行かれても、監督はもう少し生きていたかも知れない。
などと、最近の日本の映像芸術の諸々の出来栄えが嘆かわしい俺としては
他人に何か影響を及ぼす力量などないのに
何年か前まで、そんなことを思っていたこともあった。 
あとの祭りだけどな。
   
   
昨日は、佐渡の両津港の花火大会へ家族三人で行ってきた。
両津の七夕祭りは100周年ということで
100連発の打ち上げ花火が見れたよ。
一龍が喜ぶ姿に妻も大喜びだった。
田舎は“七夕まつり”を ひと月遅れでやるので
西暦と旧暦の間にいて一ヶ月以上も笹の飾りつけが街中にぶらさがっている。
五月のコイノボリにしても6月7日まで空を泳いでる。
   
 ♪ いぃらぁかぁ~の なぁみぃとぉ~ くぅもぉのぉなぁみ~
    かぁさぁなぁる なぁみぃのぉ~ なぁかぁぞぉらを~
    たぁちぃばぁな かぁおぉる~ あぁさぁかぁぜにぃ~
    た~かぁく おぉよぉぐぅや こぉい~ぃのぉ~ぼりぃ~
   
これって軍歌っぽいよな。どことなく。
来年も再来年も
春の鯉幟や夏の花火が散り咲く空の彼方に
戦闘機やアパッチ の飛行する姿がないことを願うよ。