(本件に関する記事では文体を改めています)
期末試験も終わって進級が確定し、面会交流審判の書面作成からも当分解放されたので、お約束どおり、
「無資格者が有償で相談に応じることへの違和感と懸念」
について私見を述べたい。
以前の記事は以下のとおり。
【緊急投稿】違和感と懸念(序)←クリック
違和感と懸念(1)←クリック
なお、前2回とは異なり、今回以後はあくまでも一般論として展開するのでくれぐれも誤解なきよう願いたい。
前置きはこの程度として、自称「カウンセラー」や「アドバイザー」、「コーチング」なる方々が相談に乗ること自体を私は必ずしも否定しないし、むしろ、迷える人に指針を与え、孤独な存在の支えになることは有意義であるとさえ考えている。
宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」にも、
「南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくてもいいといい」
「北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろといい」
とあるし、
「そういうものにわたしはなりたい」(訴訟をメシのタネにすべく学習している自分に忸怩たる思いはあるが)。
懸念しているのは、有償の場合、そうした人が「対価を得るにふさわしい品質」を提供しているかどうかである。
無償であればいい加減で良いと言っているのではない。
求める人に何かしらの方向性を示す行為が「その人の人生に責任を持つ」ことについては無償・有償を問わない。
ただし、対価を得るとなれば責任の重みは格段に増す。
他人から物を預かる「寄託」でさえ、無償と有償とでは目的物の保管に関する責任の度合いが違うのである(無償寄託については民法659条、有償寄託については民法400条)。
ましてや、今後の人生を左右しかねない「相談」が有償であった場合に、「善良な管理者の注意」(ここでいう「善良」とは、単に「良い人」ではなく、「行為者の職業や社会的地位等に応じて通常期待される程度の能力がある」という重い意味を持つ)が課されることは言うまでもない。
善意に解釈(こちらの「善意」は通常の意味)すれば、その方の経験やその中で得た知識があるからこそ名乗っているのであろうが、それが対価を得られるほどの汎用性を持っているかどうかは別問題である。
この点において、独自の経験を聴衆へ一方的に語り、「共感」や「感動」等を与える(場合によっては参考になることもあるかもしれない)ことで対価を得る「講師」と、相対(あいたい)で、かつ、相談者個人のプライバシーにも踏み込む「前者」とは大きく異なる。
論文や著作を発表し、あるいは社会的な活躍をして主催者から招聘されるでもなく、ブログ限りで「カウンセラー」や「アドバイザー」、「コーチング」を名乗って自己のサイトへ誘導しているような面々は、結局、個人単位で独自の経験を読者へ語りかけている「講師」であるような気がしてならないし、汎用性のある知識も提供できず、ただ相槌を打っているだけならば、それはもはや単なる「話し相手」に過ぎない。
「講師」に相応しい評価を得るための著作や社会活動には大変な労力を要する(もちろん、「講師」になるために努力しているわけではない)が、ネット限りの「カウンセラー」等や「話し相手」は元手要らずである。
そこの辺りも、私が「違和感=胡散臭さ」を感じる理由なのかもしれない。
今回は「相談を受ける立場」について考察したが、次回(おそらく最終回)は、「相談をする立場」についても言及したいと思う。