あたらしくチームができてゆくのは、こんなに大変だったのですね。。
と認識し続けた1月。

ひとつは、チームメンバーが代表の裁量ではなく、
なんとなくの過去からの関係の流れで構成されていることに、
原因があるのだと思っているのだけど、

それにしても、自分が一緒にやりたいと思うメンバーでない人と仕事をするのは、
かくも苦痛なことだったのかと。
今まで、あまりそういうことがなかったので、
とても不思議な感覚です。
どんだけ恵まれた環境で仕事してきているのか、再認識できている。

でも、コミュニケーションの問題は50:50だからね、
とボスに言われ、はっと気づく。
向こう側にばかり原因があると思っていたのだけど、
それは大きな思い違いですね。
わかっているつもりだったのに。

相手は、私の何に反応しているのか、考えてもわからない。妄想にすぎない。
考えたことを、こういうことですか?とは聞けるけど、
それにはちょっと勇気がいることで、まだできない。
だから、私は、相手の何に反応しているのかをずっと考えている。
もう少し、時間が必要。


ここ数年、自分の父や母と同じ歳の人たちとお仕事することが増えた。
どちらかというと、仕事に矛盾や曖昧さを内包していることが多い。

それは、年齢によるものでもない気もするし、
歳を重ねていることで、どちらもあるんだよ、ということを許容できる度量がある、
ということのような気もする。

自分のことならば、矛盾や曖昧さを内包できるのに、
組織や仕事のこととなると、どちらかだけを選ぼうとする自分。
ふしぎなものですね~。

この季節は、毎年少し停滞する時期。
春が待ち遠しい。
ひさしぶりに書きたくなったので、書く。
(とある本の影響なのだけど、自分が書きたくなるような文章を読ませる人って、
正直、ちょっとくやしい)

10月半ばから、新しい仕事をはじめた。
まったくの初めてではなくて、正確には1年半くらい、つかず離れず見ていた仕事に、
時期が満ちて、中に呼んでもらった。
すごく入りたくて、見ていたわけでもない。
どちらかというと、私から距離を置いたこともある。


でも10月はじめのタイミングで、あ、今だな、としっくりきたから、そうなった。

これで、ざくっと大きく分けると、NPOやらソーシャルなんっちゃら系の仕事が2つと、
ワークショップ系(という言葉も、なんとも適当だけど、まぁいいや)の仕事が2つ。
どれも、事務局と呼ばれている。

これまで、かたちのないところから、仕事の「型」をつくってきたり、
組織やプロジェクトがうまく進むための仕組みをつくってきた一方で、
圧倒的な安心感と存在感を持った大人たちと、
どこまでいっても形のない・どこかふわふわとした・でも確かにある何か、とともにいる時間を
参加者として、場を用意する者として、つくってきた。

前者と後者は、これまでいつもばらばらな場であり、
だからそれぞれの場で使う言葉や振る舞いは、違ってよかった。
両者の行ったり来たりは楽しく、バランスもよく。

でも、10月にふわっと舞い込んだ新しい仕事は、
この両方を抱えねばならなくて。
つまり、型や仕組みをつくる必要がある一方で、
教えず、管理せず、忍耐を持って信じ続ける存在が必要、と、
なんとも(私の中で)矛盾を内包した仕事。

1カ月くらい、なんとなくうまく立ち行かない感じがある原因が、やっと今日わかった。
両手がふさがってるから、どう走ればよいのか、わからなかったのね。
今までの仕事の仕方を変えなきゃ、とただ漠然と思っていたけど、
どこを変えたらよいのかが、やっとこさ、わかった感じ。
どう変えるのかはまだわからないけど、ここだ、とわかったので、なんとかなる気がする。




社会システムを変革する、という大きなメッセージを近くで聞くたびに、
"社会は、私たち一人ひとりの仕事の積み重ねでできていて、
だからこそ、自分の手元にある仕事の働き方をよくすることで、
社会はよくなっていくのではないか"(正確ではないと思う)、という西村さんの言葉を思い出す。

自分の手元の仕事を大切に扱うことと、
大きく社会を変えていくことの両方ができますか、と問われてる感じのする冬。
できるかはわからんけど、やってみたい。
ワークショップに行くと、決まって最初に名札を書かされて、自己紹介の時間がある。
これが、最高にめんどくさいと思う。
どんなに自分が好きで参加していても(そもそも、好きなものにしか参加しないけど)、
たぶんこの時間はもっともテンションが低い。

自分がなぜここに来ているのか、過去のストーリーも含めて自己開示をする人が、必ずいる。
よくそんなに初対面の人に重い話も含めて話せるよなぁー、と思いつつ、
その人が、それを話したいならそうすればよいと思ってはいるのだけど、
なんか釈然としない感じがあって。
今回は、特にその釈然としない感じを2日間のワークショップ中、ずっと持ってた。

昨日、解散後にようやくわかりつつあるのは、
自己紹介で自己開示をすることそのものに違和感があるよりは、
その内容に囚われすぎて、ワークショップ中のその人の在り方や変化に、
気づきにくい、あるいはまったく見えなくなっている様子に、苛々していたのだと思う。

ある女性メンバーは、ある男性メンバーの自己紹介がすごく気になっていて、
今回をきっかけに変化したらいいのに、という期待があったようで、
自己紹介の時にこういうふうに言ってたけど、
今はそれでいいの?どんな気持ちなの?と繰り返し聞いていた。
たぶん、自己紹介からこれまでの男性のイメージを作り上げて、
今まではだめで改善したほうがよいから、なんかこのワークショップ中にチャレンジすればよいのに、
ということだったんだろうと思う。

それが、すごく気持ち悪かった。
男性は、確かに独特のコミュニケーションで、自信なさげに見えることもあったけれど、
自分を卑下しているようにも見えなかった。
彼なりに必死で、一生懸命にチームのことを考えていた。
それなのに、彼が苦手そうなところにスポットを当てて、
それを表面的にできるようにすることに、いったい何の意味があるのだろう。

自己紹介は、相手に自分のことをわかってもらうのに、もちろん必要なことだけど、
自分がわかってもらいたいようにわかってもらえるかは、相手の受け取り方による。
受け手も不自由になるくらいなら、やらないほうがましだよなぁ、と改めて思う。

私自身は、過去とか日常からの延長線上にワークショップでの自分もいるとわかりつつ、
とはいえ、その時の自分をまず伝えたいので、自己開示はほとんどしない。
今回も、私の仕事や年齢、どういうバックグラウンドなのかは、ほとんど伝えなかった。
それでなにか不都合があるかと言えば、特にないと思ってるし、
本当に知りたいなら聞いてくれればいい、というスタンスは、たぶん変わらないだろうなぁ。

それにしても、松木さんフラウによるbe wolf camp、
とっても良かったです。
土曜日の夜は、ちっとも狩りに成功せず、夜ご飯にありつけなかったし、
独特の流れでグループ構築がなされて、とても味わい深かった。

私たち、ゆっくり出会っていってるでしょう、それがいいと思うの。
という、メンバーの言葉がいいな、と思って、残ってる。
あぁ、すっかり放置してしまっていた。
この3カ月、仕事もプライベートも、急流下りをしている気分だったなぁ。
ようやく、流れのゆったりしている広いところに来た感じ。

去年の夏と大きな違いは、仕事の学校の高校生クラスがないこと。
参加人数が少なくって、中止になった。
高校生と過ごさない夏は、3年ぶり。
3年前より前は、それこそ毎年1週間、高校生と一緒の仕事をしていたから、
夏=高校生、であり、夏をピークに徐々に年末を迎えていくのが例年なので、
なんとも落ち着かない。
今年はいったい、どんな後半になっていくのだろうな。


大きな変化のもう一つは、8月から個人事業主になる。

これまで仕事は別々だったけれど、所属は旦那さんの会社にあった。
そこから、いったん離れてみる。

これまで、属していることには、うまく言語化できない違和感があって、
個人事業主になる、と決まるまでも久しぶりにしんどかったけれど、
決めてからはあっけないくらいに、軽くなった。
もちろん、これがどういう影響があるんだろうな、という不安。不安とは少し違うな。
不安のようなもの、はあるけれど、よっぽどすっきりしてる。

私自身は、一旦離れてみることをとっても大きなことのように思っていて、
(確かに話した少しの人には、ぎょっとされたけれど、)
ひとりだけ、ぜんぜんいいでしょ、と言ってくれる人がいて、
だって、やっぱり違うなと思ったらまた戻ればいいんだし、と言われて、
あぁそうだよな、と思った次第。



自由に仕事をしている・させてもらっているつもりでも、
なんとなく不自由さを感じることはあって、
でもその不自由さの多くは、私が自らつくっているものだったりする。



今年も少しずつだけれど、
大事に思える人や、たまにしか会わないけど元気をもらえる人が増えていて、
総じて、良い。

仕事は去年に比べてばたついてるけれど、
今年はそういう年なんだろうと、ありがたく受け止めている。

そんな感じ。
4月のはじめくらいについったーで見かけた、この呟きが頭から離れなかったものの、
なかなか考えられずにいた。

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RT @HironaoAshida ちょっと違う。自分だけで他者ということ。RT @nakatani70: オープンマインドですね。 RT @HironaoAshida: 世界(世界史)を反映しつつ自立していること。

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ついったーは、どうも言葉を消費している感じがして、
私自身は、だいじなことは書く気が起こらない。SNS的に知り合いとのメッセージのやりとりと、
どうでもいいことがメインで、たまに広報的なことをつぶやくくらいの使い方になってる。

でもたまにこういう言葉を見つけることもあって、うれしいようなもったいないような。
”自分だけで他者”、って、ほんとそうなんだよなぁ。
うだうだ言わずに、これだけで言えるのは、芦田さんが消化しきってるからだろう。
多少粗っぽいけど、興味深い人だ。

自分の外にばかり寄り添って、八方美人のような振る舞いをして、自我ばっかり育てても、
いつまでたっても自立できないよー、と、私は読んだ。
とはいえ、自己だけを大事に、と言いたいわけではないと思う。



というところで、忙しさもあって、しばらく脳停止してたのだけど、
ジョーゼフ・キャンベルの本読んでたら、進めそうな、繋がった気がしたので、書いてみる。

「導師に従って内的瞑想を始めると問題になるのは、自分の自我(エゴ)と自己(セルフ)
との関係です。これは最も基本的な関係です。より深い自己を意識してこれと関わると、
他の人との関係、妻や友人との関係が煩わしくなってきます。わかりますか?
逆の場合を考えてみましょうか。結婚です。結婚は自我の拡大、自我の開放です。
他の人間の人生に参加する恩恵に浴する経験であり、宗教的な実践です。
だからこそ結婚は一種の秘跡(サクラメント)なのです。」
(「ジョーゼフ・キャンベルが言うには、愛ある結婚は冒険である。」)


あらためて、すごい言葉だなぁ。
思っていたより、かなり早く結婚したけど、後悔したことは一度もない。
味わい深い経験だなぁと思ってる。
3年弱で、その関係性も少しずつ変わってきてる。
旦那さんは、他者だけど、他者じゃない。でももちろん自分でもない。
おもしろい。

茅ヶ崎駅南口にある駐輪場にいるおじさん達は、すてきな人が多い。

朝、入る時はおはようございまーす、と声をかけてくれ、
停めた後出ていくときには、いってらっしゃい!と言ってくれる。
たいていいつもやばい!と思いながらダッシュなのだけど、
なるべく目を合わせていってきまーす、と言うようにしてる。
帰ってくる時も、21時くらいまではおかえりなさーい、と迎えてくれる。
疲れ果てても、なんとなくほっとする。


こないだ久しぶりに良いお天気の日、自転車で海岸沿いを走っていたら、
道路の砂をトンボのようなもので脇によけてくれてるおじさんがいた。
どっかで見た事あるなーと思いながら、思い出せず。
通り過ぎたあとに、あー、駐輪場のおじさんだ!と気づく。

その日は浜風が強くって、砂浜の砂が道路にたくさん積もっていた。
砂が積もった道路は、歩きにくいし、走りにくい。
自転車だと、車輪が砂に埋もって、バランス崩してこけそうになったりする。

砂をよける仕事が、市かどこかから委託されてる仕事なのか、
おじさんが自分でやってる仕事なのかはわからない。
でも、おじさん一人だけだったから、頼まれ仕事でない気もする。
すれ違った時に、ありがとうございまーす、とすっと言えなかった自分が、
なんか心に残ってる。

良い仕事だな、と感じたら、ちゃんとそう思ってるよ、と言おう。
ワークショップに参加したり、つくってる側にいたりする中で、
そこでなされるワークとか、言葉のやりとりに、違和感を感じることがある。
仕事中もそうか。

んー、ちょっと待ってよ、という感じ。
もう少し言うと、出発してから思ってた行き先と違うバスで、
わー、ちょっと違うみたいなんで、降ろしてください!という感じ。

違うと思ってる感じを探るのに、
その場に居続けるのと一人になる選択肢があったとき、
私は圧倒的に一人になることを選ぶ。
(で、周りの人に、ぎょっとされる)

なんで違和感感じてるんだっけ、ということについて、
じっくり味わってみたいからなのだけど、
そうではなく(あるいは、どうにも抜けられず)居続けることで、
見えてなかったものが見えたり、聴こえなかったことが聴こえるようになる。
(そうなることもあるし、そうならないこともある。
 そうならないことにも二つあって、状況がそうならないこともあれば、
 自分が開かないことで見えない・聴こえないこともある)

ちょっと違和感あるんで失礼、と場を離れることが許される、
あるいは、そんなことが言いやすい社会にもっとなればよいし、
そんなに右向け右、でどうするの、とも思う一方、
もしかしたら辛抱強くあり続けることから見えるものも、あるのかもしれない。

ふむ。
白川郷にて2泊3日。

初日、晴れ。2日目、雨。そして3日目、朝から雪。
ひととおりのお天気を楽しめた。ラッキー。
(雪合戦はできず・・・残念!また次回の楽しみに。)

助走中。

1日目、するする考えられてた至福について、
2日目は、うんうん考え込んでしまう。(半ば放棄気味)
3日目には、言葉にこだわらない気分に。

参加者と事務局を行ったり来たりも、ちっとも負担じゃなかった。
いや、実際は正直に言うと、
3日目の朝は8割くらい思考が事務局だったこともあり。
どちらかというと中には入らず、一人後ろでぼーっとしててもよいかな、
と思っていたけれど、(そんな心のうちを西村さんに察知されたのか、)
それまであんまり話してなかった参加者の一人とCoインタビューをさせてもらったことで、
ぐーんと、一人じゃ来れなかったところまで連れてきてもらった気がする。
私は、私一人では、私として存在しえない。まちがいなく。

1日目と2日目、「自分」と言う言葉や、「至福」という言葉に、
なんとなく「私」だけしかいない感じに、ずっともやもや・窮屈な感じがしていて。
でも、実際の「私」は、「誰か」やその他色んなものと関わらざるを得なくて。

でも、西村さんも、中野さんも、西田さんも、
そんなクローズドな意味で「自分」や「至福」を使ってなかったよね、と気づいたのは、
帰りのバスの中くらい。
勝手にクローズドに考えていたのは、他でもない私。
はー、良い時間やったなぁ。

・・・・

参加者のひとりから偶然、
私もここ半年くらいずっと抱えていた問いについて尋ねられる。
その人に答えながら、自分自身にも答えてる感じで、なんだか不思議やった。
答えてみて、すっと違和感なくなったし。

・・・・

ふとしたときに、関係が熟してきたな、と思う。
何気ない一言とか、何気ない動作ひとつで。
必要以上に言葉を使わなくても、
大まかにはまるっと伝わってるだろうなという安心感は、
嬉しいし、ありがたい。
そんなことがたくさん積み重なる3日は、やっぱり良い場だった。

・・・・

事務局やってて、安心感があるというフィードバックは、
この上なく、ほっとする。
ファシリテーターの皆さんのエネルギーが場に注力されるには、
余計なことを考えずに済むことが一番だと思っているし、
そのための場を整えるのが私の仕事。

それってどこがおもろいの?と訊かれると
理由をうまく答えられないのだけど、おもろいのだ、とっても。

ちょっと先に起こる未来のことをイメージして先手を打っておくこと、
そのために人を巻き込んでしまうこと、
そうして事が進むのを客観的に見守ること。

そうする上で、率直に正しく言葉を使うこと、
丁寧に関わること、自分自身を常に感じていること。

たとえ迷っても、憤っても、どうしようもなくなっても、
そういう自分をちゃんとわかってれば、OK。
思考だけ、とか感情だけ、とかもつまらない。
両方がせめぎあって、なんぼやと思う。

だめだ、きりがない上にまとまりがない。

来年のフォーラムNは、5月27日~中野さんの屋久島・本然庵にて。
その頃の私は、どうなってるかなぁー。楽しみ楽しみ。



半年以上前から楽しみだった仕事を前に、
久しぶりにブログを書く。

最近ようやくtwitterの140文字に慣れてきたけれど、
マーケティングが始まったりhow to本がでたりすると、
サービスを使っているのか、サービスに使われているのか、
わからなくなってくる。
そうして呟けなくなるのは、あまのじゃくだろうか。


このところ、異様に忙しい。
複数の仕事の繁忙期が重なり、身動きがとれなくなって、
いくつか、我ながららしくないミスもした。
久しぶりに仕事でへこむ。
仕事があるのは幸せだと言い聞かしながら、
雑な仕事になるなら請けないほうがまし、と言う自分もいる。

気持ちの上でも、嬉しいことと哀しいこと、
楽しいことと悩ましいことが立て続けに起きている。
未だに持ち続けてるものも多い。

例年、2・3月は私にとって、揺さぶられる時期。
ぐらぐらする大きなうねりの中でも、動かない何かを、
いつも問われている気がする。
それは、仕事で大切にしたいことだったり、
大切にしたい人は誰なのか、ということだったりする。

ぐらぐらの中で、会いたいなと思う人がいる。
いつもなら、会いたくなったら、すぐに会いに行く。
でもこの時期の会いたい、は単なる依存が多い。
だから、もう少し春になってからにしよ、
と自分で自分自身に言い聞かせたりする。


私は、自分自身と近いなぁという自覚がある。
周囲がなんと言おうと、自分自身を信じることも多い。
いや、自分を信じずに、一体何を信じればいいのかとさえ思う。

こういうことを言うと、自己肯定感や自尊心が高いと言われたりする。
その通り、高いとも思う。
でも、どうして高いのかと問われても、わからんとしか言いようがない。
自尊心が低い人たちに触れると気にはなるけれど、
どうしたらいいかはわからない。

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compassionと、「はじめに言葉があった。」で始まる聖書の句。

この一週間に別々のところで何度も耳にしたり、目にしたりした。

compassionとは、情熱を共にするだけでなく、
苦しみも共にするということ。

「はじめに言葉があった。」の続き。
「言葉は神とともにあった。言葉の内にいのちがあった。いのちは人の光であった。」


なんか、あるんだろうな。
私がこれからも大事にしたいこと、今大事にしてることが、
浮かび上がってる気がしている。
来年決まっている仕事のうち、もっとも楽しみなもののうちの一つ、
ワークショップフォーラムN の申し込みが開始しました。
3月5~7日に、雪の白川郷にて。

ファシリテータは、西田さん、中野さん、西村さん。
イニシャルがみんなNだから、フォーラムN。
キャッチーな、仰々しい名前をつけないこの感じが、すき。

3人のファシリテータ、そしてスタッフのたりほさん。
それぞれにとってもすてきな佇まいで、
そんな中に一緒に入れていただいて、あー幸せやなぁと思います。
よく考えると、すごい贅沢なメンバーの中で、
だいじょうぶか自分、となってもおかしくないのに、そんなことは微塵も感じなかった。
わーい、良い仕事をする事務局でいようーっと、と楽しみで仕方がない。

いずれ、良い仕事をするファシリテータにも、なりたいとは思う。
でもそのためにあれこれする前に、良い仕事をする事務局でありたいと思う。
1年前は、うまく自分の仕事に名前をつけられないなぁと思っていたけれど、
無理につけようとせずに委ねてみたら、自然に「事務局」が残った。

この間、別の場で、「必要のない時は、気配を消しているけど、
必要なタイミングでしっかり」してるとフィードバックをいただいた。
「どんな」事務局、の大事にしていることの一つなので、
すごくうれしくて。

あとは、きちんとファシリテータ・参加者・私の全部を見る。
どこかだけを大事にしない。(全部大事にできる在り方が、あると思う。)
ん?と思うことをそのままにしない。あたりを大事にする。

自分が苦手だと感覚的に感じてしまう人を、
いかに色眼鏡で見てしまわないようにするか(私にとっては神業な気がする)、
が、今のところの課題。
こればっかりは、日々鍛錬、かなー。