ハイリコムモノ
もう何回も読んでる本ですが、大竹伸朗の「テレピン月日」をまた久しぶりに読んだ。
読むごとに発見があり、気づかなかったことに気づきます。
そのなかで、気になった文章があったので、それについて書いてみます。
95ページ 『霊長類ヒト科オスの自分が絵を描くわけ』
ある日あるとき、自分の内側にストンと切り込んでくる「色や線」との唐突なる遭遇ー
・・・例えば街中の路上やビルの壁面などに辛うじて「色や線」と呼べる世界のカケラとして何気なく立ちあらわれる・・・
何かの拍子にそれに触れてしまうと、それを眺めているだけで、快感が身体を駆け抜ける。
快感と言ってしまえば話は単純だが、これを言葉に置き換えるには少々複雑なる感情であり、
既に自分の中にある感情の上に起きる何か、というよりは、日々どうしても埋まらない心の中のスペースにスッとそれらは入り込んできてその全体像をおぼろげに確認出来たような、そんな感覚に近いのかもしれない。
・・・その感覚をキチンと捕まえ表現の上での具体的な定着方法を必死に探るのだが、いつもハッキリとした答は見つけられないもどかしさのうちにどこかへ消え去る。
これを読んでまず感じたのは、「日々どうしても埋まらない心の中のスペース」というのはどういうものだろう、ということ。
やはりこれは、日常をしっかりと生きていないとわからないことではないだろうか、と思う。
ストレスは必要なのだ。
朝起きて飯を食う。掃除する。仕事をする。彼女と会う。友達と会う。そういう、全うな生活をしていて、やはり満たされない。
でもここで書いてあるのは、「心に隙間が出来る」という意味ではないと思う。心の隙間を埋めるために絵を描くというのではないと思う。
大竹伸朗さんは、「色や線」との唐突な遭遇により、絵を描きたい、という欲求を持っているのだ。
しかししっかりと生活を送ることで、「スッと心に入り込むもの」の存在を感じれるのではないかと思う。
それから、つぎに思ったのは、自分にとっての、「スッと心に入り込むもの」は何だろうか、というかそもそもそれは自分にあるだろうか、ということ。
これは、最初にこの本を読んだときも考えた記憶がある。
そのときは考えてもわからなくて、とりあえず大竹伸朗のスタイルを真似しようと思って、コラージュを始めたように思う。
でも今はそれは、自分の中にあると思える。大竹さんを真似ることで構築されたんではなく、もともと自分の中にあったものに気づいた、という感じ。
でもそのことに気づくには、やはりそれなりの時間が必要だったみたいで、真似してイロイロやってみてよかったなあと思う。
・・・なんか文体が大学ん時のレポートみたいになってきました。
重い重い・・・(。-人-。)
まあ、そんな感じで、スッと入ってくるものは、基本的に誰にでもあって、要はそれをどう向き合うか、
じゃないかと思う。
自分にとって「スッと心に入り込むもの」は、たいていの場合、田舎のほうの風景、といっても棚田とか水車とかじゃなくて、そのへんに残ってる古い家とか、植物が生えまくった庭とか、怖いくらい濃い森とか、そういうのである。
なんかこんな煮詰まった感じにするつもりは無かったんですけど、すいません・・・
とにかく、この本、おすすめです!描きたい欲求がどうしようもないくらいわいてきます。
読むごとに発見があり、気づかなかったことに気づきます。
そのなかで、気になった文章があったので、それについて書いてみます。
95ページ 『霊長類ヒト科オスの自分が絵を描くわけ』
ある日あるとき、自分の内側にストンと切り込んでくる「色や線」との唐突なる遭遇ー
・・・例えば街中の路上やビルの壁面などに辛うじて「色や線」と呼べる世界のカケラとして何気なく立ちあらわれる・・・
何かの拍子にそれに触れてしまうと、それを眺めているだけで、快感が身体を駆け抜ける。
快感と言ってしまえば話は単純だが、これを言葉に置き換えるには少々複雑なる感情であり、
既に自分の中にある感情の上に起きる何か、というよりは、日々どうしても埋まらない心の中のスペースにスッとそれらは入り込んできてその全体像をおぼろげに確認出来たような、そんな感覚に近いのかもしれない。
・・・その感覚をキチンと捕まえ表現の上での具体的な定着方法を必死に探るのだが、いつもハッキリとした答は見つけられないもどかしさのうちにどこかへ消え去る。
これを読んでまず感じたのは、「日々どうしても埋まらない心の中のスペース」というのはどういうものだろう、ということ。
やはりこれは、日常をしっかりと生きていないとわからないことではないだろうか、と思う。
ストレスは必要なのだ。
朝起きて飯を食う。掃除する。仕事をする。彼女と会う。友達と会う。そういう、全うな生活をしていて、やはり満たされない。
でもここで書いてあるのは、「心に隙間が出来る」という意味ではないと思う。心の隙間を埋めるために絵を描くというのではないと思う。
大竹伸朗さんは、「色や線」との唐突な遭遇により、絵を描きたい、という欲求を持っているのだ。
しかししっかりと生活を送ることで、「スッと心に入り込むもの」の存在を感じれるのではないかと思う。
それから、つぎに思ったのは、自分にとっての、「スッと心に入り込むもの」は何だろうか、というかそもそもそれは自分にあるだろうか、ということ。
これは、最初にこの本を読んだときも考えた記憶がある。
そのときは考えてもわからなくて、とりあえず大竹伸朗のスタイルを真似しようと思って、コラージュを始めたように思う。
でも今はそれは、自分の中にあると思える。大竹さんを真似ることで構築されたんではなく、もともと自分の中にあったものに気づいた、という感じ。
でもそのことに気づくには、やはりそれなりの時間が必要だったみたいで、真似してイロイロやってみてよかったなあと思う。
・・・なんか文体が大学ん時のレポートみたいになってきました。
重い重い・・・(。-人-。)
まあ、そんな感じで、スッと入ってくるものは、基本的に誰にでもあって、要はそれをどう向き合うか、
じゃないかと思う。
自分にとって「スッと心に入り込むもの」は、たいていの場合、田舎のほうの風景、といっても棚田とか水車とかじゃなくて、そのへんに残ってる古い家とか、植物が生えまくった庭とか、怖いくらい濃い森とか、そういうのである。
なんかこんな煮詰まった感じにするつもりは無かったんですけど、すいません・・・
とにかく、この本、おすすめです!描きたい欲求がどうしようもないくらいわいてきます。