既にフェイスブックや、あいの会公式ブログには書きましたが、
先週土曜日(2013年9月14日)、
東京は池袋で、グリーフケアのワークショップを開催しました。
細かくは下記に書きましたので、よろしければ覗いてください。
https://www.facebook.com/azumin827
https://www.facebook.com/i.nokai0708
http://blog.livedoor.jp/i_nokai0708/archives/33010507.html
不必要かと思いますが、念の為、ネット辞書から引用します。
グリーフケア=身近な人と死別して悲嘆に暮れる人が、
その悲しみから立ち直れるようそばにいて支援すること。
一方的に励ますのではなく、相手に寄り添う姿勢が大切。
ここ数回、あいの会は講演会形式で催しを実施してきましたが、
ワークショップという方式を取るのは今回が最初でした。
蓋を開けて、振り返れば、やってみてよかったと思っています。
有意義な催しを行うことができたと本当に感じています。
決して自画自賛ではなく、けっこうかなり大真面目に(^-^)
詳細は上記リンク先で書いた内容に譲ります。
ここでは個人ブログなので、個人の感想ということに特化して、
ところどころ思いを巡らせた箇所を書き出してみます。
被害者同士でも「自分のほうが大変だ」という被害比べをして、
お互いに傷ついているという素直な相互理解が難しい場合がある。
最初に、そんな話がありました。
あえてセンシティブな話題にも触れます。
例えば、あくまで一部の人に限った話ですが、
殺人遺族は、交通犯罪遺族を見下す態度に出ることがあります。
誤解のないように繰り返しますが、あくまでごく一部の人です。
交通犯罪遺族の中でも、これは悲しいかな皆無ではありません。
「私たちは特別な試練を経験をした、聖痕を有する者なのだ」
そんな「選民意識」に陥るパターンはゼロではないのです。
(ややユダヤ・キリスト教的な表現を取りましたが・・・)
もちろん、こんなのは勘違いです。
そこにはつい被害比べ、被害自慢をする人間の弱さがあります。
そして、そのような勘違いに陥ってしまうことによって、
奪われた生命は本来みな尊いものだったはずだ、
というあるべき視点が決定的に消失してしまっているのです。
家族を殺されて、悟りを開くわけでも、救世主になるわけでも、
聖人になるわけでも、特別な能力が授かるわけでもありません。
ただ辛く不条理な経験をしたということ、それだけなのです。
その試練を世の中に訴えることは大切で尊い使命です。
そして声をあげずに辛さが癒えるのを待つのも立派な生き方です。
ただ傷ついている人が、そこにいる。
そのことをお互いに認め合い、理解し合う。
その大切さと難しさについて、あらためて思いを巡らせました。
また私が失われたものの一つに、つまらないことで、
「逮捕されました」「実刑判決が下されました」
という報道ニュースを見ることができなくなったことがあります。
母を殺した加害者が、逮捕も刑務所収監もされなかったためです。
例えば、かつてのホリエモンや鈴木宗男をめぐる報道の時も、
まず思うのは「彼は人を殺したわけではない」ということでした。
ホリエモンや鈴木宗男に限らず、人の生命にかかわらない
経済犯や薬物犯のニュースをみるたび、同じ思いがよぎります。
おそらく歪んだ見方なのだと思います。
自覚はしています。
しかし、そのようにしかニュースを見ることができないのです。
これは私の明らかに失われた部分だと思っています。
他にも失われたことはたくさんあります。
このブログテーマに関する喪失についても、それ以外でも。
ここでは書けないこともあります。
誰にも言えず、墓場まで持っていくしかないこともあります。
かつて全国交通事故遺族の会で専門家のカウンセリングを受け、
いろいろと気づかされることがあったことを思い出しました。
一人で悩むよりも、じっとしているよりも、黙っているよりも、
とにかく外に出て、人と話して、本を読んで吸収することも含め、
とにかく前に前に進んで、何を少しずつ蓄積していくことが、
自分にとってのグリーフケアになるのだろうと思っています。
ファシリテーター役で来ていただいた方には、何度も、
「あいの会の皆さんを見ていると、その活動自体がすごく良いグリーフケアになっている」
と言っていただけました。
確かにその通り。
私にとって、あいの会の存在は、力強い支えになっています。
