宇田 明の『もう少しだけ言います』

宇田 明の『もう少しだけ言います』

宇田 明が『ウダウダ言います』、『まだまだ言います』に引き続き、花産業のお役に立つ情報を『もう少しだけ』発信します。

昨年は、花市場開設100年。
今年は、玉川温室村開設100年。
過去をふり返らないのが花産業、

無関心。
それがどないしてん?

甲子園球場開場100年。

そらえらいこっちゃ!
 

今回のお題、

玉川温室村が今日の花産業にどれだけ貢献したかを語ります。
 

玉川温室村のスゴかったところを列挙します。

 

①近代的ガラス温室と温室専作経営の見える化
玉川温室村、入植第1号は、1924(大正13)年のスイートピーの荒木石次郎。
そのとき、東京にはすでにガラス温室がたち、切り花、鉢ものの生産がはじまっていました。
最初の温室経営者は、米国シアトルから帰国した澤田(名前はわかっていない)。
1909(明治42)年に、中野町城山に小型温室を建て、カーネーションを栽培。
残念なことに、澤田は温室をはじめてすぐに病没。

実質的な最初の温室経営者、

翌年の1910(明治43)年に、上大崎(目黒)でカーネーション栽培をはじめた実業家の土倉龍次郎。

 


画像 日本のカーネーションの父 菜花園園主 土倉龍次郎

    カルピス社長室に掲げられていた肖像画

 

これまで何度も紹介しました。

土倉龍次郎は日本では「カーネーションの父」、

台湾では「水力発電の父」とよばれている。

台湾の教科書にとりあげられているほどの人物。
奈良県吉野の山林王 土倉庄三郎の次男。

黎明期の花産業の幸運、

土倉龍次郎という傑物が温室経営をはじめた。

 


画像 土倉龍次郎・犬塚卓一共著「カーネーションの研究」1936(昭和11)年発行 修教社書院

    カーネーションの名著、カーネーションのバイブル

    戦前にこれだけの本を書ける人物が、在野にいた

 

2012年4月29日「カルピスと「カーネーションの父」土倉龍次郎」
https://ameblo.jp/udaakira/entry-11236696723.html
2016年3月13日「カーネーションの父土倉龍次郎とあさの娘とのお見合い話」
https://ameblo.jp/awaji-u/entry-12138815151.html

土倉龍次郎は、カルピス創業者のひとりでもある。
土倉は、上大崎で温室経営をはじめ、下目黒、そして神奈川県高津町溝口に温室を移築。


高級園芸市場理事長田四郎によると、

大正のはじめごろに東京で温室経営をしていたのは、

官庁、大富豪以外では、

目黒の土倉龍次郎、

葛飾青戸町の加藤東七、

中野区沼袋町の伊藤貞作の3名。
(大井町の自宅で温室経営をしていた玉川温室村の発案者 烏丸光大伯爵は大富豪に含まれているようです)
したがって、庶民、農民が営利生産のガラス温室を目にすることはなかった。


それが多摩川左岸の調布村に1万坪以上のガラス温室がたち、東洋一の温室団地が出現したのだから、ひとびとは驚いたことはまちがいがありません。
しかもそのガラス温室は、米国式の軒が高い超大型。

画像 玉川温室村(昭和10年ごろ)

    植松敬氏提供

 

全国から視察に訪れた農民たちは、

大型ガラス温室、石炭ボイラなどの施設・設備とカーネーション、バラ、スイートピー、洋菊(現在の輪ギク)などの洋花、シクラメンなどの鉢もの、イチゴ、メロン、ブドウなどの高級野菜・果実の栽培を目にすることができました。
まさに、ガラス温室専作経営の見える化。
あるいは、近代農業のテーマパーク。
視察に訪れた農民は、温室経営および花の栽培に農業の未来を見て心をときめかしたでしょう。

 

なお、

昭和初期の温室村での栽培品目は、カーネーションが65%、バラが20%、フリージア、ユリ、スイートピー、その他切り花、鉢ものなどが15%(川泉弘治 実際園芸1933年)

戦後、昭和30年代からはじまった国の構造改善事業でも1万坪の温室団地はない。
しかも構造改善事業は国の補助事業、国民の血税がつぎ込まれています。
玉川温室村は国の事業ではありません。

30数名のよそ者が調布村に集まり、土地も、温室建築費もすべて自己資金と借金で建てた温室団地。
温室経営に未来を見たのです。


②暖房温室の発想転換
当時、農民、技術者が描いていた暖房ガラス温室のイメージは、いまの植物園の展示ガラス温室。
バナナやヤシの木が育つ環境。
昼も夜も高温多湿。
地中海地方原産のカーネーションやバラを、昼も夜も暖房したので、軟弱徒長、病気が多発、まともな切り花にならなかったのは当然。
昼間は換気し、夜間に凍死しないように暖房するというのが温室との感覚がなかった。
おまけに当初の温室は半地下式で、じめじめしたフランス、英国式温室。


なんとかカーネーションやバラを栽培できるようになったのは、米国での研修を終え、帰国したひとたちが米国式の大型ガラス温室を建て、栽培をはじめてから。
はじめて昼間は換気して、外気をいれることを知った。


米国式温室もそのままでは東京で通用しなかった。
乾燥したカリフォルニアや冷涼なオレゴンと多湿の日本では環境がちがいすぎた。
米国式温室には天窓はあっても、サイド換気がなかった。
温室村では、天窓だけでなく、側窓からも換気できるように改造しました。



画像 温室村 カーネーション温室内部

    植松敬氏提供

 

③切り花・鉢もの温室栽培技術の教育・普及
当初の温室経営者は、他人は温室内立ち入り禁止。

見学厳禁。
栽培技術は企業秘密、他人には教えなかった。


それを広く公開、

全国から集まった研修生、視察者に栽培技術を教えたのが、菜花園の土倉龍次郎。
温室村経営者のうち、

烏丸光大伯爵、藤井権平、犬塚卓一らは米国で研修したのち、温室を建てた。
一方、

烏丸光大伯爵と共同で二頃園を経営した森田喜平、入植第1号の荒木石次郎らは、土倉の菜花園で研修をしたのち、温室村に入植した。
また、戦後ミヨシ種苗を創業する三好靭男(みよし・ゆきお)も土倉菜花園の研修生であった。

 

画像 1925(大正14)年に米国式温室を建設した犬塚卓一

    犬塚の帰国で、日本のカーネーション栽培技術が一挙に向上した

    日本のカーネーションの母とよばれている



画像 玉川温室村 二頃園温室(昭和6~7年ころ)

    大勢の園丁(従業員)と研修生

    屋根が高い米国式温室

    植松敬氏提供

 

温室経営をめざす全国の気鋭の青年たちが研修生、見習いとして温室村に集まりました。
彼らは地元に帰り、先駆者として花づくりをはじめるとともに、栽培技術を地元に広めました。
このように、土倉や温室村経営者が栽培技術をかくさず公開したので、花の栽培技術は東京から全国へ一気に広まりました。

「東京の花」(1968年)に記録されている温室村で学んだおもな研修生と研修農園を紹介します。

ユリの偉大な研究者清水基夫:藤井農園(藤井権平 温室400坪)、
神奈川県大磯町 根本音吉:日本フローリスト東京分園(犬塚卓一 温室500坪)
戦後、日バラ会長として、多くの研修生にバラづくりを指導した神奈川県川崎 横田長吉:三香園(田中文作 350坪)

あまたの温室村研修生のひとりとして、「カーネーション生産100年史」より滋賀県草津の青地順二を紹介します。


青地準二は花好きの少年だった。
農学校を卒業すると、18才の秋にふとんと雑誌「実際園芸」を持って上京した。
玉川温室村の井上農園(井上庚三郎 50坪)、山本農園(山本鐵治 300坪)で学び、22才で帰郷。
1932(昭和7)年、60坪のガラス温室を建て、スイートピー、メロンなどを栽培した。
1934(昭和9)年には85坪を増築し、カーネーション栽培をはじめた。
その後、温室を拡大し、1940(昭和15)年には300坪のカーネーション専作経営にとなった。
戦後、カーネーション栽培を再開。
地域のリーダーとして活躍するとともに、1974(昭和49)年に発足した日本花き生産協会カーネーション部会長を長年務めた。
日バラリーダーの滋賀県守山の国枝栄一とともに、滋賀県の両巨頭が成長期のカーネーション、バラ生産を主導した。
息子の農夫も青年部のリーダーとして活躍。
育成した「青地ピーター」は1964(昭和39)年に名称登録。


④「売れてなんぼ」を実践
いくら珍しい花であっても、つくるだけでは経営は成りたたない。
市場経済の申し子、

花づくりは誕生した時から「売れてなんぼ、お客に使っていただいてなんぼ」が真骨頂であり、本領。
温室村経営者は、売るための努力を怠りませんでした。
その努力のひとつが、

温室村誕生前に、すでにわが国初の花市場 高級園芸市場を開設していたことです。
みずからがせり市場を経営することで、公正公平な流通を実現したのです。
さらには、市場の先にある花店の経営に乗りだす温室経営者もいました。

前回につづいて松山誠さんの記事を引用します(青字)。
「東洋一を誇った玉川温室村 100年の光芒」
FLOWER DESIGN LIFE 2024年9月号(678号)株式会社マミ



画像 温室村 鈴木農園(園主 鈴木譲)の温室全景
 

 

生産と利用は両輪
昭和初期、温室村の登場が起爆剤となり、切り花の供給量が急増すると、ときに需要を超えてセリ値の暴落も頻発するようになりました。
「生産と利用は車の両輪」と言われていますが、生産者は花商の組合に対して、もっと魅力ある商品を作り、消費宣伝に力を入れて欲しいと求めるようになります。

中略
温室村の鈴木譲は、同じ農大出身の田島堅吉らと共同出資して新宿に「みどりやフローリスト」を出店しています。
中略
戦後、鈴木譲の子息、「温室村育ち」の昭は、銀座で「スズキフロリスト」を創業。



画像 温室村 鈴木譲の子息 銀座スズキフロリストを創業した鈴木昭氏

 

市場経済では、需要と供給で価格が決まります。
花には安定した需要がないので、市場価格は乱高下。
年に数回の物日以外は、安値の連続。
その問題は、昔も今もかわりません。

草創期の温室経営者は、

みずから公正公平な流通と、需要創出を手がけるなどの自助努力を続けました。


そのことを、現在の花生産者は忘れてはなりません。

 

宇田明の『もう少しだけ言います』(No.446. 2024.9.15)

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