三福寺釈迦瞑想像と房州石工・俵光石 | Blog 安房国再発見

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クリップ 南房総データベースより    (館山の浄土宗・三福寺の境内)


大きな石の坐像が、菩提樹の木の下に建っています(=写真)。南方仏教を思わせるこの仏像は、菩提樹の下で釈迦が悟りを開くための瞑想をしているようすを表しています。右手の指を地に着けているのは、触地(そくじ)印または降魔(ごうま)印といい、悪魔を降伏し、煩悩がおこるのを防ぐ姿です。
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 台座の裏面に刻まれた銘文から、明治36年に山崎辨榮(べんねい)上人ほか10余名が発起人となり、宗内寺院や大勢の人々で建立したことが知れます。また、「高村光雲門下俵光石彫刻」とあることから、この釈迦瞑想像は、地元の石彫家・俵光石 の作とわかります。
 俵光石は。明治元年(1868)に館山の楠見に生まれ、本名を房吉といいました。石屋の家業を手伝いながら腕を磨いた光石は上京し、後藤貞行、高村光雲に指導を受けますが、やがて光雲の働きかけにより、明治27年、東京美術学校(現芸大の全身)の石彫科石彫教場助手に任命されこのころから光石と名乗りました。
 明治30年、館山に帰った光石はたくさんの作品を地元の神社、仏閣に残しましたが三福寺の釈迦像が現在知られている作品の中で、最大のものとされています。


クリップ 「幕末維新懐古談~谷中時代の弟子のこと」 by 高村光雲 (岩波書店) より抜粋転載


(前略) もう一人、俵光石という房州北条の石屋さんがあります。この人が宅へ参ったのはちょっと話がある。
 谷中茶屋町の私の宅はお隣りが石屋でした。私の宅にて中二階の仕事場を建てましたので、二階から仕事場が手に取るように見え、また石屋の方からこちらの仕事をしているのも見えました。一方は木、一方は石の相違はあっても同じく物の形を彫って仕事をしているのには違いはありません。もっとも石屋の方では主に石塔のようなものを彫っているが、時には獅子、狐、どうかすると観音などを彫っていることもある。こっちでは動物流行の折からで、象、虎、猿、などいうものを彫っている。石も材料、木も材料、材料は違うけれども双方ともに彫刻師である……にもかかわらず、石屋さんの仕事場の方ではこっちの仕事をしているのを振り向きもせず、さらに知らない顔をしている。てんで無感覚であります。これを見て私は思ったことですが、いかに何んでも、お互いに物の形を彫ることを職業としている身でありながら、自分たちからは異った材料でやっている仕事の工合は一体どんなものだろう。木彫をやってる彼の人たちの、腕を一つ見てみよう位の気は起りそうなもの、こっちでは随分毎日仕事の合間に石屋のこつこつ叩いている処を見て、もうあの獅子の頭が見えて来た、狐の尻尾があらわれたと、形の如何はとにかく、段々と物の形の現われて来るのを楽しみにする位にして見てもいるのに、石屋の職人たちの気のなさ加減にもほどがあると、余計なことですが、私はそう思いました。そう思うにつけて、何かこちらでも石を彫って見たい気持になる。石というものも彫れば我々にも彫れるものか —— 彫って見れば彫れぬこともあるまい。彫れば、まさかにあんな形を平気でやりもしない。どうせ、物を彫るものなら、もう少し、石であっても物の形を研究すれば好いのに、あれでは石の材料が可哀そう……一つ石を彫って、もっと物らしい物をこしらえて見たい……というような物数寄な気が起るのでありました。
 それで、或る時、毎度話に出ました例の馬の後藤貞行さんに逢った時、私がこの話をして見ると、後藤さんも至極同感で、いろいろ話の末に、同氏のいうには、「私の知人の軍人の知り人に北条の石屋でという人がありますが、この人は石屋に似合わず感心な人で、ざらの石屋職人と違い、石でも一つ本当に彫刻らしいものを彫って見たいといろいろ苦心しているそうですが、田舎のことで師匠もなく、困っているという話を、その軍人上がりの友達が私に何んとかならないものかと話していましたが、高村さん、あなたが、そんな気がおありなら、一つそういう人を仕込んで見たらいかがです。必ず、相当、石で物を作ることが出来るようになるかも知れませんよ」
 こういう話を後藤さんがしましたので、「それはおもしろい。その人は根が石屋だから石を扱うことは出来よう。物を彫る心を教え込めば物になりましょう。やらせて見たい」というような話になりました。この話が基になり、後藤さんを介して軍人上がりの人からその話を俵氏に通じますと、俵氏は日頃から望んでいることですから、早速、北条から東京へ出て来て、私を尋ねて参りました。無論、相当石屋の主人のことで、生計の立っている人ですから、万事好都合でした。
 それから、石ということを頭に置いて色々なことを試みさせて見ましたが、彫ることには心がないのではありませんから、なかなか満更ではありません。或る時は私の作の狆を手本にして、伊豆から出る沢田石で模刻させて見ると、どうやらこなして行きます。石にして見るとまた格別なもので、石の味が出て来ておもしろい所があって、前に雲海氏の衣川の役の作が安田家に買われた縁故などもあって、この石の狆は、安田家に買われ、新宅のバルコニイの四所の柱の所へ置き物にするというので四つ拵えて納めたりしました。
 こんなことから、美術学校にも石の部を設けたらどうかという話などが出て、岡倉校長も賛成して、俵氏に標本を作らせて、石を生徒にやらせたりしました。
 光石氏の石の作としては、平尾賛平氏の谷中の菩提所の石碑の製作があります。これは墓石のことで少し仕事が別にはなりますが、仕事は花崗石で手磨きにして、墓石は別に奇を好まず、形は角で真じめな形ですが、台石の周囲などに光石君の石彫としての腕が現われております。私の弟子の中に石彫家のあるのはこの人だけです。今は北条に帰って活動しております。