大房岬と山岡部隊 | Blog 安房国再発見

Blog 安房国再発見

★ブログを引っ越しました。新しいアドレスは【リンク一覧】より参照ください。

    辞世blog 人間楽しんでっ会


  このたびは

  還らぬ旅と

  知りつつも

  剣の御光と

  我は征くらん



兵庫県神戸市から、

戦争従軍者の遺族が訪ねてこられました。


選りすぐりのエリート猛者で編成された

潜水艦による秘密部隊【山岡部隊】

=正式名【呉鎮守府第101特別陸戦隊】だった

大原啓蔵さん(大正8年生まれ)のご長女・啓子さんです。blog 人間楽しんでっ会


山岡部隊は、

昭和19年に、館山海軍砲術学校 で編成され、

南房総市富浦町の大房岬 で訓練していました。

昭和20年5月17日、啓子さんが誕生したそうです。

啓子さんの戸籍には、「富浦町に生れる」と記載はありますが、blog 人間楽しんでっ会 字名番地はわかりません。

要塞地帯の秘密部隊だったからかもしれません。


そして昭和20年6月末、マリアナ諸島のB-29破壊を目的とした「剣」作戦が計画され、出撃が決まりました。

生まれたばかりの啓子さんと母は、汽車を乗り継ぎ乗り継ぎ、すすで真っ黒になりながら、実家のある淡路島まで戻ったそうです。

そして7月、届いた色紙が、冒頭の辞世の句です。

どんな思いで出撃していったのでしょう。


色紙にはこう続きます。


   部隊編成後の隊名変遷

 呉第一〇一特別陸戦隊

 山岡部隊

 剣空挺隊

 神風特別攻撃隊第六御盾隊(帝国海軍最後の特攻隊)

  第二中隊一式陸攻二番機剣号機長

    海軍兵曹長  大原啓蔵

 昭和二十年七月 出撃之日  於三沢特攻基地 当年二十七歳

  二年余りの短かい生活でしたが有難う。子供の養育頼みます。

  尚親代わりとしての兄上御夫妻の今日までの諸事の感謝宜敷くお伝え下さい。

 妻くみゑ、長女啓子に贈る


blog 人間楽しんでっ会


幸いにして命を長らえ、家族のもとに生還し、
戦後は警察官としての人生を全うし、

10年ほど前に亡くなられたそうです。


戦後64年目にして、64歳の啓子さんは、

初めて、自分が生を受けた地を訪れました。

要塞地帯であった大房岬の100mの断崖絶壁を見上げ、

ここを登ったであろう27歳のお父様に、想いを馳せました。



南房総国定公園の大房岬。

真っ青な海と空。

穏やかで美しいこの場所で、

こんなばかげた訓練が

二度と起きずにすむことを祈るばかりです。


   ・・・・


「山岡部隊」は、Wikipedia によると、次のように解説されています。


● 呉鎮守府第101特別陸戦隊

大日本帝国海軍 の秘密特殊部隊 のひとつである。指揮官の山岡大二 少佐の名を冠して通称山岡部隊と呼ばれていた。また、潜水艦 を使用した隠密活動が任務であったため、“Submarine”の頭文字からS特攻部隊(S特)とも呼称された。


● 概要

1944年 初期から館山海軍砲術学校 (館砲)で養成が始められた。海軍陸戦隊 の中でも特に体力、知力に優れ、風貌や体格が欧米人 風という条件を満たした350名を選び編成されていた。訓練 は、もっぱら夜間で、アメリカ本土 の地理や交通に関する知識をはじめ、英語 や風習に関する教育が行われ、隊員の服装や食事もアメリカ風だったといわれている。隊員には、どんな苦難や欠乏にも絶える特殊な訓練が課せられ、短い自動小銃 をはじめ40kgの荷物を背負って、一日60kmを駆け足で移動する強行軍や、富浦町 大房岬 の海岸にある100m近い絶壁を素手で登る訓練を行ったといわれている。

なお、日本海軍では、山岡部隊のほかにもS特を編成しており、佐世保鎮守府 第101特別陸戦隊(山辺部隊)や同第102特別陸戦隊(常盤部隊)などが知られている。


blog 人間楽しんでっ会 ●作戦計画

当初の計画は、フィリピンサイパン島 などの敵陣地に潜水艦で近づき、一人ひとりが夜間隠密に上陸、航空機を焼き払ったり、司令部に進入して幹部を殺害したりして、一挙に戦局を逆転させるものであった。しかし、大戦も末期になると 駆逐艦 のよる哨戒網が厳しく、潜水艦 航路の安全性が極端に脅かされるようになったことから断念された。

1944年12月にはアメリカ西海岸へ上陸し破壊活動をおこなうという作戦も立てられた。目的はロサンゼルス 郊外のロッキードダグラス 等の軍用機工場の破壊活動で、人目の付かないアルグエロ岬ゴムボート で上陸し山中に拠点を構築した後、車を奪いロサンゼルスへ突入するという計画だった。また、同時に大統領 暗殺 の作戦命令を受けたという証言者もいる。作戦に向けた本格的な訓練が行われ、1945年 4月ごろには準備も整い発動を待っていたが、沖縄戦 の激化のために中止となった。

代わって同年6月末に、マリアナ諸島B-29爆撃機 破壊を目的とした「剣」作戦が計画された。一式陸攻 30機にS特隊員を乗せてサイパン島グアム島 に強行着陸し、B-29を壊滅させる計画だった。7月には陸軍空挺部隊 300名による共同攻撃と、機銃を増設した銀河 72機による直前の地上攻撃も計画に加えられた。さらに8月に広島長崎原子爆弾 が投下されると、陸軍諜報機関の情報から原爆貯蔵庫があるとされたテニアン も攻撃目標に追加されて、大規模な作戦に発展した。山岡部隊は、青森県三沢基地 に移動、作戦準備に入ったが、同年7月におきた青森大空襲 の際に三沢基地も被害をうけ、作戦に使用する輸送機 の大半が破壊されてしまったため、作戦決行日は8月19-23日に延期された。そして、出撃直前になってのポツダム宣言 受諾により、作戦は中止となった。山岡部隊は、一度も実戦に投入されることなく解散した。