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救世の法セミナー「救世の法」講義 2011・1・16 東京正心館にて





こんにちは。今年初めての方も多いでしょうが、私は今年11回目の説法をやってます。

中心的な本が救世の法、方向付けというか教団の動いていく方向が見えると思います。

81年に大悟してから30周年。86年に幸福の科学の活動をスタートしてから25年。

95年宗教法人の認可が下りてから20周年、区切りの年です。

竹の節のように区切りをつけて次の節に向けて大きく伸びていきたいと考えています。

大悟30周年の感想がまえがきに出ています。…まえがき…とまえがきに書いてますけれど、あとがきのほうには…あとがき…エル・カンターレは仏教、キリスト教、イスラム教などの生みの親だと書いてます。

さらっと書いてあるけど大悟30年を経まして、静かな挑戦の書でもあるということですね。

宗教は多くございましょうけれども私たちのよって立つところ、「目指すところは何か」を極めて明確に示していると思います。

相当の覚悟がこの本には秘められてるということでもあるかと思うんです。

30年いろいろやってまいりましたが、まだまだこの国のカッコつきの常識を根本的に覆すまでには至ってないのが実感であります。

その中の一部分、何とかして位置づけられて存在を許されるとこでとどまってるように感じられますので、これをもう一段突き抜けていく必要があると考えます。

根本的には私が問うているのは、日本人というのは本当に文明人なのか、ほんとに高度に文化資本持ってる
所の人間なのか、この国の文化文明は本当に肯定されるべきものであり、未来を約束されたものなのかどうか、問われてると思います。

はっきり申し上げまして宗教の存在を否定することを旨とするような論調がまかり通っていて宗教を尊重しない、尊敬しない国がこのまま成長繁栄の道に入ることが許されるのかどうか問うているわけです。

どういうことかというと、動物たちの世の中と変わらないと申し上げているんです。

動物はその日の糧があればいい、生命を存続できればよいかもしれないけど、人間はそれでは十分ではありません。

目に見えないものに価値を感じ、その中に生きがいを見出すことが出来なかったら、人間としての存在根拠には十分じゃないという風に思うんです。

外国で伝道するにつけましても、この日本の国の立っている地盤の弱さ、脆弱さというか、まるでぬかるみに立っているような足元の弱さを感じます。

ひ弱です。とっても弱いんです。バックボーンがないんです。だから漂える国ですね。

本当にこの島国は海中底深く、地球の奥までつながってるのか、それとも海面に浮かんでいるだけの国なのか、クラゲのように漂ってるのか、そういうことが気にかかります。

さらに精神的バックボーンの無さが国としての政治や外交、様々な所に影響が出てますし、教育においても非常に情けない価値観を子供たちに教え続けているようでありますし、その反作用が結局のところ、主として国公立における学級崩壊から教育崩壊、そしていじめ問題につながっていると思えます。

国への尊敬を失った大人たちに育てられた子供たちが本当の意味で生きがいを見出し、やりがいを見出し、未来に自信を持つということが非常に難しいのではないかと感じられます。

私は何度も繰り返し申し上げてます。日本という国にきちっと一本背骨を建てたいんです。背骨を通したいんです。

クラゲのような国に背骨をきちっと入れたいんです。

どの国でも背骨にあたるものが国家としての基本的な精神です。

その基本的な精神がどこからきているかというと道徳から来ているし、道徳のもとにあるのが宗教です。

宗教は哲学の上に立つものです。ですから宗教がしっかりしないと国というのはふにゃふにゃの状態になってます。

現にそうなってます。ほんとに混沌状態が続いているというのが現在の日本の状態です。

GTPが世界2位とか3位とかはどうでもいい。200カ国近くある中でのトップにあらそっているような国が何らの精神的なことを発揮できず、オピニオン発揮できず、世界に対するリーダーシップを持てないでいる状態は実に実に情けない状況であるか知らなければならない。

それだけの責任を負ってないことに対して恥ずかしいという気持ちを持たないとならないんじゃないでしょうか。

そういう気持ちが私には湧いてまいります。

今のように漂っているだけではいけない。やらないとならないのはこの国に精神棒を入れないといけない。

宗教を軽く見て、嘲笑っている人たちに対して、びしっと言い返せる皆さんにならないと駄目ですよ。
ピリッとした国にしなければならないと思いますね。正論を言えないような国民であったのでは駄目ですよ。

そういう国民には未来はないと私は感じます。

もう当たり前すぎて仕方ないくらい私はくりかえしているけれど、宗教のすすめのとこにも書いてますが、絶対にはずしてならない第一番目のこととして、人間が霊的な存在であって、その霊的存在が肉体に宿り地上で人生を送るのだということ、これが第一点目として外しちゃいけないことと書いてあります。
この最初の第一点目のとこが学校教育、小学校、中学校、高校、大学でも全く教わらないし、社会道徳で教わってもありませんし、また社会におけるエリートという人たちはえてして、この反対を言って善と考え、反対でいることでもって、インテリと考える傾向があります。大変残念であります。

なぜ残念かというと思想の自由、言論の自由、表現の自由、出版の自由、そういう自由があるのは承知してるけれど、いろんな意見、表現、考えがあっていいけども、事実と事実でないものを区別する知恵がないのは人間として恥ずかしいことですよ。

ですからなんといってもそれは自由ですけど、水素と酸素が結合してできるのはH2O、水です。
水素と酸素が結合して油はできないんですよ。

言論の自由だからと言って、水素と酸素が結合して石油が出来るというなら、それで言論の自由ですということがまかり通るなら、それは何かが欠けてると言わざるを得ないということです。

それが未知なる状態の時にはいろんな意見が百出してもいいと思うけれど、水素と酸素から水が出来るとはっきりしてる場合に「いいや。水じゃなくて、油が出来る」と言い続けるのが言論の自由ではないと私は思うんですね。

この辺が私が言いたいところです。

だからいろんな意見があって結構ですけども、真実というものがありますよ。人生には真実があります。
それが真実に反したことを教えたり、学んだり、行動したりしてるものには、人生の途中においてあるいは終わってからそれなりの反作用が来ますよと言っている。

個人でなく、そういう人が作っている組織や社会、国、世界においてそれだけのことが起きてきますよと申し上げているんです。

誰が何と言おうとも、この30年間の私自身の積み上げてきた探求実績から見て、この世を去った世界というのは100%存在します。

そしてあなた方は肉体が自分と思ってるなら、絶対に間違っているんです。

たとえ偏差値がいくら高い医学部の先生が死んだら人間は終わりだと言ったとしても、間違っているんです。

人間としての尊厳から間違ってるものは間違っていると言いきれなければならないんです。
それを知っていただきたいんです。

あと何年か何十年かしたら確実にそれは体験することですから、どうか私の言葉を覚えておいていただきたいんです。

みなさん全員体験することです。私の言ってることが一片でも間違っているならどうぞ来てください。
来た人いませんから…今まで。私の言ってた通りだったとその時みんな言っています。

知っていて良かったという人ばかりです。知らなかった人はそもそも来ませんけどね(笑)

知らなかった人はそもそも来ることができません。

この世的な知識やインテリジェンス、知能が高いとか地位が高いとか家柄がいいとか、あるいは会社の名が通ってるとか男女の差とか、全く通用しない世界があるんだということを知っていただきたいんです。

いろんな仕事もありましょうけど、いずれあなた方は死を迎え旅立ちを始めます。
その時に持って帰れるものはあなた方自身の心しかない。

その心が正しい信仰心を持っているかどうかを試されるということです。

信仰心というのは、神仏に対する信仰をもった生き方をこの人生においてなしたか、あるいはその神仏への信仰を妨害せんとして活動してるとこの地獄界をうごめく悪魔たちの価値観でほんろうされて人生を生きていたかどうかということが、必ず問われるようになるということです。

個人としてのそれが最後の審判にあたる部分です。

しかし個人のみならず組織としても社会としても国家としてもまたどのような色付けを持った国であるかということによって十分未来はどのようにも変わっていく余地があると信じざるを得ません。

同じ法を説いても、日本で説くのと海外で説くのは違ってくる。それぞれの人の信仰心が違うからです。
もちろん日本が先進国であるから、日本ほど進んでないと思われる国の人たちが、日本を尊敬して、良く聞いてくださることが一部あるかもしれないけど、信仰的素養のある国民の場合には、素直に教えが浸透していきます。さ~っと入っていきます。

私はまだ直接行っていませんけれども、アフリカ、ウガンダでは国営放送で、私の説法が毎週連続して流れています。
映画も流れました。ネパールでも国営放送で流れています。
インドでもムンバイでは一部ヒンディー語の字幕が入ってますけれど、私の講演が流れている。

日本のテレビではありえないことですね。

宗教に関して報道する、教義を流布することに協力するということは倫理に反すると思われている。

結局これがこういうことかと言いますと、思わず知らず宗教選択なされているんです。

神仏の側につくか悪魔の側につくかということで、神仏の側につかないということは、自動的に悪魔の側についているんです。

この世を地獄界に近づけることをしているということ。

教育においてもそうです。教育においても日本の古代の日本書紀・・否定して載せないとこから他の宗教についても考古学的興味関心で書くことはあっても、その教えの内容には入らない。

だから学校で習っただけでは宗教心というのは芽生えない。
ミッションスクールに行った人以外は芽生えないことになっている。

大学の宗教学科に行くと、もっと信仰心が無くなるようになってるんです。
大学の宗教学科というのは、宗教に対する信仰心などわからない。
本当のフィールドワークのように習慣をなくして、ただ分析だけしている。
ほとんど医学部で人体をバラバラにするのと同じようにやっている。
何が善か悪かわからない。全く無駄な学問ですね。そういう風な状況が続いていて、それが当たり前になっている。

おそらく先の大戦の敗戦から大きくそちらのほうに舵を切ったと思いますけど、そろそろ悪夢から目覚めなければいけないと私は思います。

真実の力を取り返さなければ、日本にいて体に精神力が宿り力が湧いてくることはないであろうと思います。

皆さんは自分が神仏の子として神仏の心の一部を宿してるもの、神仏の光の一部を宿しているものという人生観を持って生きるのと、自分らは偶然に生まれてただの土くれと同じような、あるいは機械と同じような生き物として生きる人生観を持つのと、どっちが皆様方の人生にとって素晴らしいかということを良く考えていただきたいんです。

自分をくだらなくするほうの人生観を取ることを、この世の中はすすめているんです。

これに対してはすでに教育批判、マスコミ批判してるけど、宗教自体もたくさんありますが、堕落の極みであると言わざるを得ないと思いますね。使命を果たしてない。特に宗教の中において唯物論的信仰を広めている宗教がいっぱいあります。

古い宗教の中にはそういう風に仏教とかそう考えるとこもあるし、日本にあるキリスト教団の中には同じように左翼的な活動にまい進しているとこがあって、本当のことが分からなくなっている人もいます。

おそらくは個人的体験の無さがそういうことをよんでいるんだろうと、そういうことを個人的体験があったかなかったかということを別にしても、人間として直感的に、自分には目に見えてる世界以外の尊いものが宿っていると、人生の途中で全く感じないというのはやはり、その人自身の問題であると私は思います。

多くの人の助けを受けて生きる、導きを受けて生きる。ある人の言葉を受けて人生が立ち直る。
そして信じられない所から皆さまを導く光を感じる。

そういう聖なる瞬間というものを経験されなかった方は残念ではあるけれど、合格点に達していないと思いますね。

それはどういうことかと言いますと、おそらく自己認識が非常に低いということだと思うんですよ。

学校の教育もありましょうが、アメーバが先祖でそれが進化してあなた方になったというんでしょ。
それ証明してごらんなさいっていうんですよ。

証明できた人なんていませんよ。アメーバから人間になって行く途中順番にもし生きているなら順番に並べてください。

こっからアメーバで、ナメクジで、カタツムリで、こっからとして人間まで進化したその過程を並べてください。
途中の者がなきゃいけないですよ。変化中のものがあるはずです。
今あるのは完成されたものばかりです。この意味がわからないのかということです。

すでに完成された種しかない。だから仮説に基づくのはいいけれど、仮説はあくまで仮説であって真実ではないということです。
それを忘れないようにしてください。
アメーバはいきすぎというかもしれないけれど、あなた方のご先祖がネズミであると言われて、「はいそうです」と、もし100%近い人が信じるなら、世の中狂っていると思った方がいいと思いますよ。

なぜネズミはネズミのままで人間は人間になったのか。この理由を説明せよということです。
なぜ人間は高度な知能を発達させ感情を発達させ高度な仕事が出来るようになったのか、それを説明してください。偶然になったと思いますか。
偶然に適者生存とかになったと思いますかということです。

言葉を変えれば、山に入ったら森林に木が生えている。木がこれだけあったら自然に木造の家が建ったと言っているのと同じことでございます。
それは木を切って製材して家を建てる人がないと建たないんですよ。こういうあまりにも論理が通り過ぎた説に飛びついて考えることを停止した人間を大量に作った国家には、それなりの困難が必ずやってくるはずです。

だから私たちはそうした国家に立ち向かってくる困難に対して戦わなければならないと思います。
自分たち自身の存在根拠を否定した、尊厳を否定した者に繁栄した未来が来ると期待するほうがおかしいという風に私は考えております。かつて滅びた国などたくさんあります。滅びた文明なんてたくさんあります。

この日本文明も島国の文明です。これを独立した文明として数えている方もいます。続くかどうか大きなカギを私たちが握っていると私は強く信じるものです。

特に間違った考えのもとに国家運営をなされている・・・この文明が滅びては相成らないという風にも思っております。

それは神の正義がこの地上において実現されないばかりでなく、その反対の者が実現されるということになるからです。

むしろ逆に真理的に間違った国是でもって成り立っている国家に対して正しく言論と伝道において、正論を貫いて彼らの国のあり方を文化のあり方を変えていくように努力しないとならないし、そのためにこれだけ大きな経済力を持った国家として許されているんだと考える次第です。
その使命を十分に果たしてないのが残念でならないと思います。

さて、この中では、これからこの世の終わりのようなことがいっぱい起きるとある。
おそらくそうでしょう。
朝のテレビを見てもCNNとかBBC見ても、南半球では大洪水が起きたりしている。
時ならぬラニーニョ現象と北極の局が振動したとかで、洪水が起きている。地球の異変は続いています。大地震から続いています。
これからもいろんなものが起きてくるだろうと思います。

そういう人類に対する揺さぶりと新しい文明づくりとは裏表で一体だと私は思います。

今まであるものへの揺さぶりが来ていると考えてるものであります。
今まで予想してなかったものが今後たくさん現れてくると思います。

去年の末、横浜アリーナでエル・カンターレ祭がありました。
講演の最後5分くらいで「これから宇宙時代で宇宙との交流の時代がやってくる」と預言のように最後のほうで話しました。
それだけ話を聞くと、今までの日本の常識から見たらずれてると思ったでしょうが、その直後アリーナを出た数千人の人が上空にUFOの大群が現れているのを目撃しました。

母船から出るところを見た人までいました。100機前後は出たと思われます。
恐ろしいことですが、私の講演の衛星放送は地球人ならざる者も聞いているらしいということまでわかってきました。

言葉選びが一層難しくなります。電波傍受するくらい出来ないことはないでしょう。

地球に飛んでくる力、文明があれば内容がわからないわけないけれども、私の講演を注目してくれている。
まことに感謝に堪えないんですけど、いい方に使おうとされてるのか悪い方に使おうとされてるのかどうか、クエスチョン、何とも言えませんけども、この地球がどういう風に動いていくか、今後この地球文明がどういうほうへ行こうとしているのか、私が挑戦しようとしていることに、私が思う方に向いているか克
明に見ていると推定しています。

去年夏ごろは中国の空港にもUFO母船が現れ大慌てになり、空港が封鎖になりました。
地球人の手の届かないような現象が今後起きてくるかもしれませんし、あるいは今まで見知った現象が、規模を大きくして現れてくることもあると思います。
予想外のことがいろいろ起きてくると思います。

しかしどうか迷わないでください。その時のために私は生まれていているんです。
だからあなた方に希望の未来があるということを告げるために生まれてきているんです。
だからどうか信じてください。そして日本のためだけにやってるんじゃないと繰り返し繰り返し申し上げています。

私は国師としての仕事をしていますけど、本質的にワールド・ティーチャーです。
世界教師として、世界の人が向かうべき方向を示すことを、地球の未来はこうでなければならないということを示すことを本当の仕事として現れています。
それを知っていただきたいのです。

たとえば本書でも第4章「宗教国家の条件」で、イスラム教とキリスト教の対立が今後どうなるか書いています。
今心配されるのは核兵器をすでに持っているイスラエルと核兵器を持っている、製造し持つであろうというイランと核戦争が起こるかどうか。

そのイランの核が使用可能になる前にイスラエルが攻撃するかしないか、おそらくサウジアラビアやエジプトも核武装するのは確実。
イスラム教圏の中でイスラエルだけが核武装している。
核武装したイスラム教国にイスラエルが囲まれるという状況を黙って見過ごすかどうかこういうことが大きなここしばらく、ここ10年懸念される事態の一つです。

ここでもし核戦争が起きれば、旧約、新約の黙示録に出ている通り、ハルマゲドンの戦いになるんですね。場所はここですから。

懸念されること、その戦いに対立が起きてる原因がこの中に書いてある。
結局人間は霊界が見えないので、書いたものとか、人が語ったものでしか神様を判断出来ないし、過去の預言者の霊聴、耳で聞くだけ、姿が見えなかったものが多かったために、その辺で対立はよく起きているんです。

偶像崇拝を否定するのはよくあるけれど、教祖が霊視出来ないのが多い。
霊視が出来ていたら、神とか仏とかの存在に対して、その姿をもし見ていれば、必ずその姿を何かに表わすんですよ。
必ず造形にかかるんですが、見ることが出来なかった場合、声だけ聞こえた、自動書記の形で霊示だけ降りたというスタイルだと、偶像崇拝を否定したがる気がある。

実際見ることが出来た人はそれは言わないのが普通です。ほんとに見た人は見せたくなる。
「神様はこういう姿でした」と見せたくなる。像を作るか絵を描くとか見せたくなる。
見える形に作りたくなります。

教祖の霊力の違いによって宗教の違いが出てきやすいんです。

今日講演するにあたって、昨日いくつかの世界宗教のもとになるもののルーツの霊査をしたんですけど、ユダヤ教、一神教から調べに入ったんですが、ヤハウェという神がいる。
最初のユダヤ民族の中にはヤハウェ信仰するのが出るが、途中から神の名が変わる。

イザヤという預言者が出てきたら神の名が変わる。エローヒムと呼んでいる。
それがユダヤの人にはわからないので、同じ人と思っていた。
しかし霊的実体をいいますと、イザヤがエローヒムと呼んだ神は、中東全域を覆っていた神様。
エローヒムが現れたのは800年くらい後。キリスト教が起きる準備に出ている。基盤を作るためにエローヒムが出ている。

この辺がユダヤ教の中で区別がついていない。ユダヤの小さい宗教に世界宗教を作るためにエローヒムが降りている。

イエスもはっきり区別していない。イエスが信じてたのはエローヒム、愛の神。中東全域を覆っていた神ですね。

そういうことがあるのでユダヤ教は、古いユダヤ教を信じる人はキリスト教を圧迫してました。
キリスト教対イスラム教起きたけど、イスラム教を指導したのも、中東を指導しているエローヒムなんです。
同じ神様なんだけど、この辺が理解し合えない部分。

他の偶像否定、「我以外神なし」ということで教えが混在して整理できないで、戦いが起きているんです。
今私は全部整理しようとしている。
世界宗教のもとにあるものをきちっと整理して、紛争を根からなくそうとしている。
宗教の根元、根本的相互理解出来てないとこを治そうとしている。

幸福の科学はそういう大きな使命を持っています。

さらに日本神道も十分な理解を持っています。右翼の国粋主義の運動とは当然違ったものであります。
キリスト教にもイスラム教にもユダヤ教にも、そのほかの世界の宗教、アフリカなどにも大きな影響を与えてきてますので、エジプトにもギリシャにも影響を与えてきました。インドにも与えてきました。
今日本にも大きな影響を与えようとしています。

今皆様方に明かされている未来の計画を実践していかなければならないと思います。

未来はただ与えられると思うんではなく、自らの力で開いていこうと強く願っていただきたいと思います。

これが「救世の法」講義です。ありがとうございました。


以上











ありがとうございました。

http://amamikyo.amamin.jp/e77205.html より転載


もっと詳しい書き起こしの方も読みましたが、かなり細かくご指摘いただいているみたいですね。

(個人の日記なので転載不可)

うちの師匠もよく言ってたなぁ。

「色情(欲望・感情)の世界は地獄だ」と。特に慢心や怒り、恋愛感情のもつれや不平不満とかね。

「それは言いすぎでしょ!(笑)霊の世界ってそんなに極端なわけないですよ~」と思ってましたが、

師匠の言うことがあたってました(笑)

これを読むと、古代の聖職者が家族をつくらなかったわけや絆への信頼・信仰という思いの霊的パワー、戒律(欲望を戒める教え)の重要性がわかりますね。

ただ一つ気をつけたいのは、悪魔という存在を認知したあとは「悪魔を見破りつつも、悪魔のせいにしてはいけない」ということです。ここは難しいかもしれませんが、悪霊や悪魔からの干渉は実在します。でもそれを神仏や指導霊と一体となった精神によって見破れば、その干渉を押しとどめることは可能なのです。

それができないこと(悪魔に翻弄される本当の原因)が、一番の問題であるのです。

もっと自分を知りたいですね。自分に盲目的な部分に、悪魔はやってくるのですから。



このご法話、早くちゃんと聞きたい!

(((( ;゚Д゚)))ガクブル





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『悪魔の正体と見破り方』の速報版をまとめました。
個人メモから起こしましたので、転記ミス、ニュアンスの違い、記録ミス等を含んでる事を前提に、あくまでも録画を拝聴して頂くきっかけとしてお取り扱い下さい。
内容の重要性から早い拝聴をお勧め致します。



『悪魔の正体と見破り方』佐倉支部巡錫2011.01.10

新年明けましておめでとうございます。本年第一回が佐倉支部となります。

初っぱなから恐ろしい題で、普通の人々には恐い話し。でも、大事な話し。
今年は『救世の法』を押し出していく。妨害してくる悪魔(に対して)は対策を考えておく必要あり。興味本意ではない。

悪魔は直接見た事も無いでしょう。ショッキングな存在。仏教学者は不思議に思っている。
釈尊がは菩提樹下で悟りを開いたはずなのに、釈尊の人生の至るところに悪魔が現れている。
降魔したはずなのに、どうして悪魔が出てくるのか。一生悪魔が現れる。仏教学者は分からない。
これは、ある意味で、鯉の滝登りと同じ。これは難所を乗り越えると、この折々に悪魔が現れてくる。
ある意味で完全な敵対者ではなく、イノベーションを起こさなければならない時によく出てくる。組織に揺さぶりが出てくる。

大きくはそうだけれど、個々に見れば悪質である。

どの様な性質を体現しているかという。。。。欲望というのが必ずしも違う場合もある。
企業を大きくする事が、社会に役立つ場合と、自我を拡大させる場合がある。地獄的か天国的か必ずしも分からない。

天使ほど頭が良いと思われがちだが、悪魔もそれなりに頭が良い。狡猾さを含めた頭の良さだ。
暴力団にしても脅しをかけたり交渉力が有ったりする。各種詐欺や騙しを使ってくる。ある意味、この世的に頭の良い所がある。
ディベート力があり賢い所がある。これは、悪魔の手とそっくりである。

頭の良し悪しでは分からない。頭の良い人でも、悪魔はやってくる。
オーメンのダミアンは大きな財閥にとり入って、政界にのし上がっていった。この世的に出世してくる。
財界や政界は全て良い人とは限らない面がある。

もうひとつ嫌な事。その人の一番、嫌な事に(悪魔は)揺さぶりを掛けてくる。
その人の信仰心に関わる部分に揺さぶりを掛けてくる。
例えば、愛する人が苦しんでしまう。会社が倒産する。夫婦の片方が死んでしまう。
活躍する人、ポテンシャルの高い人には、その人ではなく、その人以外の弱い所に入ってくる。
その人の子供、親、弱い所に入ってくる。

それから、年間3万人以上の自殺者が居るが、悪魔に魅入られた方が相当いる。
悪魔に取り付かれた場合で、向こうの霊力が強い場合は、大抵、「殺してやる」と声が聞こえてくる場合がある。
天使でも守護霊でもない(存在が)結構いる。人を殺せと声が聞こえる。こういう状態を、魔が入ったと言われるが、本当にそうである。
こういう者、凶悪な者に取り付かれているケース(自殺者)が多い。

(勿論、彼らの)心の中に引き寄せるものが有るが、それだけではなく、何らかの目的がある。揺さぶりを狙っている。
夫婦関係では、片方が活動に熱心で、活躍する奥さんの夫に入ってくる。はじめは嫉妬から、だんだんと足を引っ張りたくなる。
肉親は愛情で繋がっているが、信仰の世界はそうでは無い場合がある。
(例えば)支部長の肉親の場合、悪霊撃退をやっても(支部で支部長が祈願祭で)効かないと思い込んでいる。
周り(支部信者)は、支部長が祈願したのだから効くと思っているが、(支部長の)家族は効くと思っていない。

この世的に見れば有限で、この世の常識ではおかしいと見える事が有るが、医者とかジャーナリストとかはそうした者が多い。
脳科学者なんかが、脳のせいにする人もいる。悪魔の入りたい放題である。
これは邪見を指すが、最初の思い込みである。積極的に宗教を馬鹿にする人にも悪魔が入っている。
この世的なもの、医学も大切である。目に見える事も大切であるが、自分達が分からない所を否定するのは止めて欲しい。
こういう事が傲慢さを生む。

自惚れの強いタイプから、悪魔を剥がすのは難しい。謙虚な方、反省できるタイプは直ぐ剥がれる。
自我の強さは自惚れや慢心からきている。ライバルを蹴落とし、競合を蹴落とす世界は魔が入りやすい。
M&Aなどの世界で利益追求のみの会社、ウォールストリートの世界は悪魔の入り込む余地はある。強欲も入りやすい。

最後には何かと言うと、信仰心が立って入る場合は、エクソシストが成功する。悪魔が落ちる。
信仰心が有る場合は、引き剥がす力が出てくる。信仰心が無い所に入り込みやすくなる。(悪魔を)剥がせない事が多い。

HSの批判を始めると、悪魔と同様になってくる。
聖書にも有る通り「汝、吾を信ずるや。」と言って、奇跡をやるが、信じる事が奇跡を起こす条件となっている。
この世の常識や理性が、悪魔につながっている場合がある。
信仰が立っている場合は、「正心法語」や「エルカンターレへの祈り」で十分である。これで、出来ない事は無い。
基本的に、「正心法語」「エルカンターレへの祈り」で十分効く。

最終的には執着との戦いになる。何れ全て、捨てなくてはならない。何れ別れがやってくる。
如何に大事なものであっても捨てなければならない時期が来る。最後には、この気付きを持ってください。

最後は、正しい信仰心しか持って帰れないと、思ってください。これが分かれば、どんな悪魔も離れてゆく。
最後には、この世的なものとの戦いとなる。他人?には見えない所。これが固まってくればやられない。
こういう実態を知ってほしい。武器としては、これで十分戦える。あとは、信仰心で十分戦える。
(悪魔は)いろんな所で現れてくるが、強い信仰心で立ち向かえるし、未来は(作れる)。

自分自身を高めていって欲しい。耐え抜いて着々とやってゆくと、何れ追い風が出てくる。
色々な事があろうが、この世的に色々な事が起きるが、惑わせない。悪魔の本質は破壊である。ここを強く心に留めてほしい。

うち(当会)の修行をしていれば、コーヒー一杯飲んでいる間に分かる。問題が大きいか、小さいかも分かる。見破れると思う。
それなり(当会)の霊流を引いて戦って下さい。どうしても、取れない場合は、時間をかける場合もある。
その時は、(心が)穏やかな時に、真理を流してやる。相手への思いやりを、入れてやる。
中心(エルカンターレ)からの光を引くこと。サンガー全体の力を増すこと。怠けないでやって欲しい。
皆が強くなれば先生(エルカンターレ)も強くなる。(ここが重要)


説法は以上、以下は対話。(今日は2問)

質問1:悪魔との戦いという事と、支部活動の関係を知りたい。例えば、書店での話で、経典を読んでいれば組織に入らなくても済むのではと言われたことがある。

回答1:外に居ても、中の情報が取れるのでしょうが無い部分がある。他団体は、肝心なところを外に出さないように為っている。
当会は奥義に当たる部分も出しているが、普通は、外からは分からないようにしている。
それは、出来るだけ多くの人々に公開しているのは、当教団の為ではない。
公開については、出来るだけ多くの人に見せたい所もある。実は怖い所でもあるが、公開する理由は、相当の自信があるから。
だから、当会は親派層が相当ある。ラジオやBSを通して得られた、全体の視聴率は80%ほどある。
未来ビジョンなど平均視聴率が8.7%以上あり、夜中の時間枠が夕方の時間割に変更となった。
調査すると、外側の人の人気にビックリする。関西で天使のモーニングコールを聞いている人が、100万人いた。
支部への展開が遅れている。しかし、こういった方々が支部まで行けるようになるには何らかの、導きがいる。
上手にやる人が必要。まだまだ、活用の仕方を考える必要がある。
支部精舎を見える形で増やしていく、目に見える形を広げている。
中に入ったら、もう一段付加価値がつくというPRが必要。
組織型宗教の良さをもっとアピールする必要あり。当会の魅力を打ち出す。


質問2:慈悲について、どのように具体的な思いと行動をしてゆくか。

回答2:大乗仏教を一言で言うようなもの。「慈悲の宗教」に関心が移ってゆく。
出家者ではなく、一般在家信者が大乗に移ってゆく。あまねく、愛してゆく。
彼ら(悪魔)の間違いは、自己防衛本能が強く出てくるところ。全て、生命を躍動している事が生かされている事。
仏の大悲の海であると感じ取る。全てのものが光り輝いている。全てのものが大生命下に生かされていると悟る。
自分を生かしめていると知る。これは、空海の悟りの解説である。この次は釈尊の悟りになる。

以上




感謝合掌

http://amamikyo.amamin.jp/e74872.html より転載


このお話は、非常に重要です。
このお話自体が二つ以上の研修を受けるのに等しい内容です。

どうか繰り返し読んでみてください。
3回目、4回目でどんどんしみこんできますので。
小林館長、かなり本気モードです。


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七の日感謝祭ご講話 北海道正心館小林早賢館長

「エル・カンターレとの約束を思い出す」




皆さまこんにちは。今日はようこそ、北海道正心館『七の日感謝祭』にお越しいただき、ありがとうございます。
今日は、先日の支部長情報交流会に関連して、来年のことを考えて一番中核になるテーマを取り上げ、年明けから始まる『信仰を深めるためには』公案研修を探究していく上で重要なことを~更に北海道正心館ではもう一段、練り込みをしてありますけれども、それが来年1月8日から開示になるのですが、(既にかなりの支部からオーダー研修の予約を頂いておりますが)~今後一番重要なテーマでありますので、年末の締めくくりとして、そのお話をさせていただきます。
情報交流会での発表がいろいろありましたが、特筆すべき点は、活動推進局が『エル・カンターレ信仰伝道局』という名称に衣替えしたことです。一番大きな変化だと思います。
これは、単なる名称変更にとどまらず、色々なことを、今後、変えていくことになると思います。名前というのは、それほど大きな理念を含んだものです。
そういう視点で見てみると、いろんな変化を作っていくだろう、むしろ作り出していくべきだろうと思っています。
その背景について、もう一段、説明しておきたいと思います。
これは、先生のお言葉として何度か耳にされた方もいらっしゃると思いますが、自然に流しておくと、どうしても地上においては、21世紀のこういう時代に、つまりイエスのような時代ではなく、現代の高度な経済社会で、こういう宗教活動をしていると、結果的には、「活動形態がやや税務署に近くなる」と言われています。
ややもすると、「行動パターンが税務署型になる」というのは、皆さんもお感じになっていると思います。
別の言い方をすると、「統計局」型の行動~数字の報告を求める~になってくる。
(削っても削っても、数字の報告がまた増える。「報告業務のリストラかけても、また元に戻って、結構な報告量になる」というのを20年間繰り返していますね。)
また、ややもすると、ご教示を伝える「連絡局」型の行動になる。
機能としては、税務局兼統計局兼連絡局という、こういう感じなると言われているわけです。
もちろん、この世的には、そういう活動が付随するのは、あることなのですが、ただ、それらは手段、或いは結果であって、「目的と結果の関係」、或いは「目的と手段の関係」をよく考えないといけないのですね。
私達の「目的」は、エル・カンターレ信仰を広めることです。その結果、色々な数字が出てきて、「みんなで喜びを分かち合う」ということになります。
ただ、ここが微妙なのですが、「結果に囚われない」ということを言っている訳でもないし、さりとて、「結果が目的になる」と宗教ビジネスのように見えることもあるので、これの「中道」をよく捉えないといけません。
経済や生活全般が、現代ほど複雑でなかった仏陀、イエスの時代に比べると、現代は、このあたりが難しいと思います。
「目的と結果の関係」をさらに説明すると、先生がこれを人体に喩えて(たとえて)仰ってくださったことがあるのですが、「目的」というのは「頭脳」にあたります。また成果測定をする箇所は、「下半身」に相当します。
組織を人間の人体に置き換えると、「頭脳」というのは指令を発信するところ、つまり「目的」にあたります。その目的がつつがなく流れるために、下半身が三次元でダチョウのごとく駆けて「結果」を出す、そういう意味で、先ほど述べたような活動(報告、連絡等)が「下半身」に相当するわけです。
(下半身しかないダチョウは、変ですね(笑)。)
こういう全体像をよく腑に落としておかないと、ともすると目的と手段の関係が逆転しかねない部分は、過去20年間ありまして、かくの如く先生のご指摘もありました。
本当の意味で「目的」をしっかり打ち立ててやっていく。そのプロセスで、統計的側面も出てくるわけですが、
「主従を間違えてはいけない」ということです。
「その目的である「信仰」が、どれくらい大きなものなのか」
それを掴んでいくために、『信仰を深めるために』公案研修の意義について、これからお話したいと思います。



『信仰を深めるために』公案研修の意義



『あなた方は、主エル・カンターレの本当の姿の100分の1も掴んでいない』と、霊人の言葉にもありました。
「なぜ今の私達が、100分の1にとどまっているのか」ということと、本研修は関連があります。
この研修は、「仏陀特別霊指導」で、全5則です。第4則がクライマックスです。
北海道正心館版では、もう一段工夫を加えて、内部の実験研修を大晦日の日にやります。更に、今回は支部長向けのプレ研修を1月6日に行います(講師:館長)。
そうして、本格的に1月8日から開示いたします。

公案の中身は、もちろん申し上げられませんが、その主旨、意味合いは何かといいますと、
「皆様方が生まれてくる前に主の御前で誓った中身」、これは結構重いと思うのですけれど、「私達は生まれる前に、その主の御前で何を誓って出てきたのか。それを思い出せ」、
これが第4則です。
これで十分、この研修の念い、重要性、意義がおわかりになると思います。
私達は、本仏の前で誓って出てきたんですね。
これ、今までに弟子が、ニュアンスとして語ってきたことはあったと思いますが、現実に、ここまでストレートな「仏言」として出てきたのは、初めてだと思います。
そもそも、本仏の存在を知っていた。その本仏の前で誓いを立てた。そして、その誓いが存在したがゆえに、私達は、この時代に生まれることが許された。
そして、その誓いを思い出すことは、とても重要なことではありますが、
「これは簡単なことじゃないぞ。本当に深いところまで、自分が誓ったことを思い出せる、そこまで霊的になれるというのは…これは生半可なことじゃないぞ」
と、3年5年10年と修行された方であれば、おわかりなのではないでしょうか。



今世のこの世の自分から、自由になる



 日々感じておられると思いますが、どうしても3次元で生きていますと、この世的な自分に束縛されて、己を小さく小さく考えてしまいます。
その小さな自分と決別したくて、脱皮したくて、精舎修行に来られます。
一泊研修などして、その晩あたりから、俗世の塵垢(ちりあか)が取れてきて、本来の自己に向き合って、
「本当の自分はこんな小さくないのだ」
と悟り、そして、
「信仰をとおして主と一体になって、もっと大きな自分になれるんだ!」
と掴むのだけれど、下山して3日から1週間過ぎると、その思いが切れてくる。で、また精舎修行に行く。
単純な繰り返しをしているように見えますが、実は前進しています。何度も何度も繰り返していくことで、確実に前進しているのですが、
皆様の成長に応じて、当会自体も大きくなり、各自にかかってくる負荷も大きくなっているので、格闘している精神状態は、同じように見えますが、第三者からみると、間違いなく成長しています。
日常生活の中で、色々な出来事があると、自分を小さく捉えてしまうものです。だから、
「こんな小さな自分が約束できることなんて、この程度じゃないか」
と、無意識のうちに小さく考えてしまうんです。
この世の自我に囚われた(とらわれた)状態で、約束してきたことを思い出そうとしても、
そこで思いついた「約束」は、本来の自己から見れば、とてもそれを「誓って」、生まれてきたわけではない、というものなのです。
もしそれで、エル・カンターレとの誓いを思い出せるなら、この研修が存在する意義はありません。
日常の生活の中に囚われている意識では思い出せない「誓い」とは、一体、何だったのか。
「そこまで深く立ち入って、エル・カンターレとの誓いを掴む」
これが、この研修の目的です。
これは半端なことではありません。妨げているのは、「自我意識」です。具体的に言うと、今世のこの名前で生きているという、その枠の中で生きているという意識が、「自由な自分」を妨げているのですから、ここに制約があります。



自分を捕らえているもの:地域、両親、職業、教育…



 私達は何百、何千、何万転生という豊富な経験を持っています。表面意識は、それらに直接アクセスできませんが、潜在意識には、智慧と経験が蓄積されていて、
「それが表面意識ににじみ出てくる」
という意味では、アクセス可能です。
 例えば、ある地域(北海道・日本)に生まれたという事実があると、その地域特性とか言語、文化に囚われた制約があります。
例えば地球の裏側のブラジルの方の発想。先般のブラジルご巡錫でも皆さんご覧になったと思いますが、初めて会った人をスタンディング・オベーションで迎えられました。
さっそく直後の横浜アリーナ(12/4)で、日本の人が真似していましたね。先般の熊本でも真似していました。この20年間、日本では誰も思いつかなかった発想です。
この生まれ育った環境に制約された生き方をしているんです。
ブラジルは、カルチャー遺伝子的には、元々の南米大陸に加えて、ポルトガル、南ヨーロッパ(一部アフリカ)等ですから、どこかの転生で、皆さんも接触はあったはずです。要するに考え方の遺伝子としては、どこかで触れているのですが、今世、表面意識の環境制約に囚われていると(ex.日本人は自分の方か
ら積極的に好意を表現しない)、彼らのような発想が出てこない。

 自分を小さく見ているという点で、さらに影響が大きいのは、
「この両親の下で生まれた」
という制約です。これは、白紙に戻して観ることができます。ここは公案(第3則)にも出てきます。
この両親の下で、この両親の人生観によって、少なくとも成人するまで育てられた。
「信仰とは、親の価値観からの独立でもある」
と、2007年大阪中央支部での『純粋な信仰』の質疑応答にありましたが、親の価値観ではなく、主の価値観を選び取るということが、「信仰が立つ」という上で、重要な意味があるのがわかります。
これは皆様も、なかなか、出来ているようで出来ていないのではないかと、無意識に背負っているように見えます。そこから完全に解脱し、自由になっているか。そういう意味で信仰が立っているかどうか。

 また、たまたま選んだ、(もしかしたら流れで選んだのかもしれない)「職業」からの制約もあります。
職業は、魂の傾向性をつくりますから、職業特性から出てくる人格というのもあります。そこから自由になった自分は、また違う個性かもしれません。
今世、私は「公務員」でしたが、もしかしたら「貿易商人」だったかもしれません。
実は、全く違う遺伝子を潜在意識は持っているのだけれども、それが遮断されていて、色々な可能性があることに気がつかない。
しかし、そこで信仰が立つことによって、今世の職業経験から自由になると、自分にはもっと可能性があることが見えてきます。

 また、さらに長い視点で見てみると、今世における「経歴」も、たまたまの偶然の要素があったのかもしれません。
私も今世、ご存じの大学を出て、ご存じの組織に就職し、その後出家したわけですが、
(レジメでは詳述は避けますけれども)、どこかでボタンが一つかけ違っていたら、まったく違う人生のプロセスを経て、例えば夜間大学に行き、まったく違う職業に就いていたかも知れません。
その場合、今52歳にして、この時点まで全く違うプロセスを辿ったとして、この2010年12月27日の時点で、北海道正心館のこの演台に立っているだろうかと考えてみたとき、
直感としては、「やはり立っている」という気がします。
だから、「経歴」というのは相対的なものであって、主体である「意志」と「情熱」が、環境をつくり出していくのだと思うのです。
 ということで、「経歴」からの制約もあります。また「家族」からの制約もあります。「伴侶」、「子供」、「親」、「学歴」、「外見」、「体力」etc.…。
誰もに今世の制約条件があり、その制約の中で発想し、行動しています。
ただ、それらは「思い」の中で乗り越えることができ、違う自分を引っ張り出すことは可能です。
こういう制約だらけの中で生きている自分が、自然のままで、
「仏の御前で、生前、約束してきたことは何か」
といういことを考えたら、「小さな目標」や「小さな目的」を考えてしまうはずなんです。
この限界を、「信仰」の力によって突破しなければならないのです。




http://amamikyo.amamin.jp/e74875.html より転載


繰り返しますが、この内容は非常に重要な悟りのエッセンスがつめこまれてます。
どうか、繰り返し読んでください。
この内容を学ぶこむだけで、二つ以上の研修でいただく学びの深さがあると思います。
(特にひっかかったキーワードはノートに書いてそのテーマで深く思慧されることをオススメ!)

実はその意味で、この講話自体が一つの「禊ぎ」になってるんですよね。

さすが、年末にふさわしいご講話です。小林館長、おそるべし!!!!!

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(前編よりつづき)






入念な準備をした上で



 多くの霊人も仰っておられますけれども、主エル・カンターレ本仏はひたすら大きいので、例えばその大きさは、
「釈迦とキリストの悟りが手のひらに乗って見えた」
と『フランクリー・スピーキング』にありました。この前の「韓信の霊言」によれば、
「仏陀の時と違って、主エル・カンターレを支えるには、脇士としてみたら、普賢菩薩みたいな方が100人位いないと担ぎ上げられません」
とありました。
それだけ巨大な方を信仰するということは、何を意味しているかというと、
「その百倍巨大な主の願いを実現することに命を賭けます」
ということを、表面上の言葉ではなく、他人向けのプレゼンテーションとしてではなく、それを本心から「誓い」、「帰依する」ということに他ならないのです。
つまり、「私達の目標が、本当は100倍あったのだ」ということを受け止めて、制約された"自我意識"がささやく、
「出来るわけないよ」
という言葉に打ち克っていくことが、必要なのです。

そのための入念な準備が、まさに第一則から第三則にあたるわけですが、北海道正心館版は、さらに工夫を凝らして、第4則の入り方に万全を期しました。
三次元の制約というのは大きいですので、その中でこれをしっかりと掴んでいくために、第一則では、「肉体の殻を脱ぎ捨てる」ことを、まず瞑想でやります。
この世的な経歴、性別、両親、家庭環境など、いわゆる「言い訳」の材料から自由になることです。
そして、肉体意識から自由になった心を、「一念三千」ではありませんが、その心の針を、しっかりと菩薩の世界に定めることを第二則でやります。
そして、「信仰とは主と一体となること」ですが、そのためには、もう一段の心の作業が要ります。それが第3則です。
それは、洗濯でいうと「染み抜き」にあたることです。染みが残っている部分というのは、主と一体となるときに、例えば移植手術でいう「拒否反応」みたいなものを起こし、それが妨げとなります。
一般的には、染みの三大要因は、「家庭環境」と「教育」と「職業訓練」だと教えて頂いています。
「両親の考え方が先生とぴったり同じだ」という方は、いないはずです。そのギャップのところに染みが存在します。
二つ目が教育。私達には少なからず偏向要因となっているはずです。
現代の二大阻害要因は、「マスコミ」と「教育」ですが、既にマスコミにはパンチを食らわせていますから、来年は『教育の法』で、左翼的考え方に光を当て改革していきます。
三つ目は職業特性です。
これら三大要素の中で、特に象徴的なのは両親の価値観です。ここで無意識に刷り込まれてくる「染み」から自由になることが、本当の意味で信仰が立ってくることと大きな関連があります。
ここで最後の染み抜きをやって、
「エル・カンターレの御前での誓いを思い出す」
という第四則に入ります。

 私も、何度もシミュレーションしてみたのですが、本当に誓ったものを思い出すには、まだもう一段、二段、真実に近いものを思い出すには足りないと思いましたので、更に第4則の冒頭で、準備と工夫を加えました。
皆様の人生計画、或いは「誓い」は、誰が預かっているのでしょうか。
守護霊・指導霊ですね。その存在に、何十年間導かれてきたわけです。
それを正確に受け取る必要があります。比喩的に言えば、
「私はどう誓い、どう書いて、何を託してきたのでしょうか?」
ということです。
そのためには、様々なこの世的制約条件から自由になっていくことが必要ですが、そのためにどうしなければならないかを、御法話『心の中の宇宙』で仰っています。



潜在意識の水底を観る



 一つ目は、自我意識。例えば湖そのものが仏であるならば、私達も本来、その湖に溶け込んで仏と一体となった、湖面の凪いだ(ないだ)湖そのものです。
そして自我意識とは、その湖面に波が立って、その波頭の一つひとつが自分だと思っていることです。本当は、あなたは湖そのものであったのに、その波頭の一個一個の大きさを競ったり、互いに嫉妬したりしている。それがこの世の現実です。
「自分が湖そのものなのだ」と気がつくためには、さざなみを鎮める必要があります。自我意識の統御、仏教的な「無我の修行」がこれにあたり、湖面が鏡のように平らかになります。
 しかし、これだけでは、「誓い」の中身を受け取るには、十分ではありません。
湖面が平らになっても、本当の潜在意識、本来の自己が思っていることは、その湖底に書いてあるのですが、それを観るにためは、湖の水の透明度が高くなければなりません。濁っていたら、水底まで見えないのです。
 この「にごり水」に当たるものは何か、これが「雑念」です。
濁る原因は、必ずしも「悪想念」だけではありません。「悪想念」だけならば、憑依現象が生じますので、先ず悪霊を取る反省行が必要となり、話としては、もう一つ前の段階となります。
ここで言う「雑念」とは、自分の心の中に飛び交っている、“腹減った”とか、“今晩のおかず何かな~”とか、“旦那は何時に帰ってくるかな~”という、無意識に心の中でつぶやいていること、このノイズのことを言います。
心の世界ではノイズとなって飛び交っているので、守護霊との交信が妨げられてくるのです。
宗務本部の人を霊査すると、守護霊と同通することがありますでしょ。例えば、先生にお茶出しをするときに、至近距離で“腹減った”とか思っていると、比喩的に言うと、「腹減った~」と大声で叫んでいるようなものです。
ですから、「雑念を出さない」という訓練が要ります。そうするとノイズが減ってきて、湖水の透明度が増し、潜在意識と同通しやすく(水底が見えやすく)なります。
つまり、「心の針が上を向いていればいい」というだけでもないのです。
湖水を透明にするためには、「無念無想」が必要です。余計なことを思わないということですね。これは、訓練によって、ある程度できるようになっていきます。
 守護指導霊の声を正確に受け止めるには、ノイズを減らしてきれいな湖水にすること、つまり、湖底に何が書いてあるか文字が観えてくるためには、湖面の波を鎮めるだけではなく、湖水の透明度を高めて雑音をなくしていく、仏教的には『無念無想』の修行が必要なのです。
 本当は、精舎修行の精度を高めるには、『無我』と『無念無想』の両方の修行が必要になります。「守護指導霊の声を聞きましょう」というのを、本当にきっちりやろうとしたら、この両方が前提になります。
そして、これをやるご法話研修があります。
『精神統一の方法』という修法がありますが、この中で『無我観』と『無念無想禅』が実修されています。
 このように、第1則~第3則で魂の自由を回復したのちに、長時間ではありませんが『無我観』と『無念無想禅』を実修して、万全に準備を整えた上で、
「自分は生前、主エル・カンターレの御前で何を誓ってきたのか」、
それを心を解放して、恐れや迷いを取り除いた状態で、かつノイズにじゃまされない状態で、ストンと受け取ったときに、多分、皆様が自分の表面意識で考えていたことと違うものを観るはずです。
もっと、もっと、ずっと大きいものを観るはずです。



感化力は"勇気"から生まれる



その「ずっと大きなもの」を観たときに、人は本来の使命に目覚めざるを得ません。
そして、それを実現するための第一歩、第二歩を踏み出すことは、とても勇気が要ることですが、その行動を踏み始めた時に、
皆様は、今まで自分が活動の制約とか限界だと思っていたこと、そして何だかんだと言ってきたことが、さーっと壁が崩れ落ちるように無くなっていくのを見ることしょう。それをするのが、最後の第五則です。
第四則で本来の自己と出会います。そして、「その本来の自己が主との約束を果たす」というのは、いわば「師弟の道」にあたります。
それを実現するためには、誓ってきたことを心の中で思っているだけでは意味がありませんので、行動にあらわす必要があります。それには「勇気」が要ります。
つまり、自分のこの世的な頭で考えて、「この程度のことだな」と思っていることを実行するには、それほど勇気は要りませんが、「この世の自分が縮み上がるくらいのこと」をやろうとすると、勇気が要ります。
「本来の中道とは、そのあたりにある」
と、主からも教えられています。

 そういうことをやろうとしたら、やっぱり『勇気』が要りますね。
そして、その『勇気』ある一歩を踏み出したときに、人間には『感化力』が出てくるんです。
『感化力』はどこから出てくるかというと、『勇気』を出した時に出てくるのです。『勇気』を振り絞ったときに、人はその姿を見て感動して、その方に『感化力』が生まれるのです。

大して勇気が要らないようなことを言ったり、やったりしても、人は別に感化されません。その一言を発し、
「"言った以上は実践する"と心に決めて、一歩踏み出したんだな、この人は」
と思える人から発されるオーラが、実は『感化力』なんです。
だから、『感化力』と『勇気』とは、一体です。
具体的に言うと、『伝道』や『植福』、もっと踏み込んで言えば、『勧進』ですね、つまり、『伝道』と『勧進』に置き換えていただければ、わかりやすいと思います。
「この人はちょっと無理かな」と思う相手に対しても、皆様に『感化力』が出てくると、違う結果が出てきます。伝道においても、勧進においても、それはそうです。
おそらく、心の中で思っておられる活動上の限界は、伝道においても、植福においても、同じところが原因なのだと思うのです。
限界は確かにあります。しかし、それは、
「今の『感化力』では、そこまでが限界なのだ」
ということをあらわしているのですね。
でも、その『感化力』に変化が出てくると、現れる結果が変わってくるのです。説得されなかった人が、説得されるようになってきます。
「この人は無理かな」と思っている人が、無理でなくなってくるという現象が起き始めるんです。
 『感化力』をもたらすものは、『勇気』で、その『勇気』はどこから出てくるかというと、「自分は本当は、エル・カンターレの御前でここまで誓ってきたんだ」
ということを、自分の中で受け入れることです。
それが腑に落ちると、『勇気』が出てきて、それが『感化力』となって現れてきます。これは断言できます。
その方の「伝道する力」や「勧進する力」の次元が、変わってくるのです。
なぜ変わるかというと、宗教の世界では、自力だけじゃないですよね。本格的に他力が及んでくるんです。
単純に2倍じゃなくて、自分の『感化力』が2倍になると、それにふさわしい光が及んでくるので、実際相手が受ける光は2倍にとどまらず、3倍4倍になってくるという、これが宗教の素晴らしいところで、この世的な事業と決定的に違うところです。
ここまで踏み込んだ『感化力』は、倍ではないのです。そこにオーバーラップしてくるものがあるので、支部や様々ところでの活動に影響をもたらしてゆきます。
いろいろな限定が外れて、今までなら及ばなかった説得ができ、相手に感動を与え、その相手の方にも本来の自己を思い出して頂けるように、その方のハート、魂にまで届くようになってくると、
前提がすべて変わってきて、「目標」だったものが、「通過点」や「プロセス」だったことが、本心でわかります。
これが、実は冒頭申し上げた、
「目的と手段の関係がわかってくる」
ということの意味なのです。
「結果としての数字が、あとからついてくる」ということですね。
「こういう活動を目指したい」というのが、今回の活動推進局の名称替えの主旨の一つであり、同時にこの研修の目指していることでもあります。
 もし、自我に囚われた心境で思い浮かべられるのものが、主と約束してきたことの内容だとしたら、残念だけれども、幸福の科学は世界宗教になれません。
しかし、世界宗教になることは、運命、天命です。
だから、皆様方の約束してきたものは、もう一段も二段も、大きいもののはずなのです。
 今日の話は、非常に重要な内容ですので、道内の支部ルートでも、レジュメで流す予定です。ぜひ全国の法友の方にもお伝えください。
本日は本当にありがとうございました。(拍手)

以上






感謝





http://amamikyo.amamin.jp/e77087.html より転載


2011月1月7日
七の日感謝祭ご講話 北海道正心館 小林早賢館長


『「存在そのものが“ミッション(使命)”である」ということ
 ~『救世の法』解説講義』


 皆様、明けましておめでとうございます。本日は本年最初の七の日感謝祭にお越しいただき、ありがとうございます。

 今日は年の初めですので、『救世の法』についてお話させていただきます。論点は一杯あります。皆さんもお気づきでしょうが、ご法話で拝見する先生の書籍には、付箋がたくさんついていますね。とても真似できませんが、論点一個を掘り下げる形でしか、弟子はできませんが、私なりに観て、最も重要な箇所と思われるところを、先ずはお話させていただきたいと思います。

 第一章『宗教のすすめ』は、2009年4月に東京正心館での説法で、全国にも中継され、一般の方向けとはいえ、熱心な信者さんにも十分ヒットする、奥の深い内容でした。
第一節p.17~18に、『私は、ここ三年ほど、毎週、説法を行っています。全国の支部や精舎を巡錫して説法を行ったり、海外へも説法をしに行ったりしています。毎週、ずっと途切れることなく続けています。これは、もう使命感としか言いようがありません。「なぜ、そのような使命感があるのか。なぜ、そういう責任感を感じるのか」ということですが、ある意味で、「自分自身が使命そのものである」という気持ちを私は持っています。私という存在が「ミッション」であると思っているのです。それが私の今回の人生あると考えています。』とあります。
 言葉としての意味合いは、当然ご理解されていると思いますが、「実感として、これがどういうことなのか」を理解することと、自分の中でエル・カンターレ信仰が立ってくることとは、密接な関係があります。つまり、「主が、かくも数多く巡錫しておられます」とは、一体どういうことなのか。これが腑に落ちてくると、自分の行動が変わってきます。結果として、伝道、植福、勧進が進み、救世運動全体が広がってゆきます。
 ご存知の通り、昨年は229回、ご説法を賜りました。最後は大晦日にサクセスの中学生向けの英文解釈のご説法が入りましたね。
 主のご巡錫日数は365日分の229日ですから、およそ一年の3分の2です。大救世主たる所以(ゆえん)です。こういう量的な観点での偉大なところだけではなく、質的な面でも一例を挙げますと、去年大変驚いたことがありました。
 昨年4月4日の日曜日の昼、日暮里の『初転法輪記念館』でご説法がありました。ご存知の通り横に3人くらいしか並べないような部屋で、ある意味劣悪な環境ですが、精舎化しているので磁場は整ってはいますけれども。そこで御説法された後、その後すぐ、その日の晩に、大悟館で地獄霊マルクスの霊言のご収録がありました。それ以降、小平、ヒトラーなどが続きましたが、その一連の地獄霊の最初の霊言です。地獄霊ですので、当然、「意識としてキツイものをご自身の中に入れる」ということを、昼間の説法のあとに為さったのを知って、とても驚きました。
 もう一つ挙げますと、5月12日の昼間、徳島の外部会場で政治・選挙がらみのお話を為さったのですが、その夜、徳島からとんぼ返りされた後に、大悟館にて、「伊藤博文の霊言」の収録がありました。その前に木戸孝允、山形有朋の厳しい霊言がありましたので、それを補って下さるかのような、ポジティブな内容でしたね。
 こういう積み重ねが、229回なのです。『私という存在が「ミッション」そのものである』ということが、理屈抜きで伝わってくるのではないかと思います。「先生ご自身の持ち時間の中に、使命以外のものはない」ということですね。
 仮に、目を覚ましている時間に物理的にそういう状況を作るのは可能だったとしても、睡眠中、潜在意識と合体したレベルで、霊界で引き続きお仕事を為さっていることを考えると、言語を絶します。
 文字通り365日24時間。こういうことが現在進行形で起きているということです。
 お正月も、4日にご収録がありました。私も御法話拝聴を溜めないように、実はこの式典の開始10分前まで、DVDで拝聴していました。皆さんの前でお話する上で、前提として知っておかねばならないと思いましたので。『欲と生霊』というタイトルです。(どういう内容か、おわかりですね。)
 ですから、今年も「使命そのもの」が始まっているのです。まさに一分一秒が惜しいという感じです。
 十数年前、「ザ・リバティ」の編集長をしていた時、除夜の鐘を聴きながら、御教示を受け取るということがありました。「ほんのちょっと前まで、これをされていたのか」と、びっくりしました。こういう時間にお仕事なさっているのだと。
 御教示の内容は、レジメの方には書けませんが、それからこちらも正月三が日返上で、大車輪になって取り掛かり、滑り込み入稿のあと、発売日の三日前まで、ある意味での「攻防戦」をしたことを、今でも懐かしく思い出します。
 こういったことは、宗務の経験があると、もっとリアルです。私も宗務本部の経験が二度ほどありますが、情報としては10年前のことで古いので、今はもっと進んでいると思いますけれども、先生の回りでは、時間の速度が尋常ではないのですね。重要な事柄が、15分ごとに決められていくような感じでした。「重要案件を1時間に4つこなす」、そんな感じです。
 どういう感じかと言うと、朝8時半くらいから夜7時くらいまでを、例えば、一日のまとまった時間として捉えるとすると、その中で、「15分ごとに場面がどんどん変わっていく」のを経験するとしますでしょ。そうすると、その日の夕方になって、「その日の朝一番で、何を決めたのかな」と、朝のことを思い出そうとすると、それがまるで、1ヶ月前のことのように感じるのです。「これが仏の絶対時間なのか」と、時間密度の濃さにとても驚きました。
 主は、そういう中でお仕事をされて、この救世運動を引っ張っていらっしゃるのだということを、是非、知っておいてください。「存在そのものが使命である」というのが、どういうことなのか、また、「主エル・カンターレがどれくらい偉大な存在であるのか」ということが、わかると思います。
 最近のドラッカー絡みのご法話で、何度か仰っていますが、「経営的には、複数の仕事を同時進行でやっているように、経営者は見えるが、より厳密に言うと、一つひとつの仕事を、瞬間瞬間に、極めて凝縮した時間の中で、一つひとつ、早く片付けていくことが大事なのだ」と仰っています。(そのスピードが上がってくると、同時に複数の仕事をやっているように見える、或いは、千手観音の仕事のように見える、ということが起きてくるわけです。)
 仕事の本質は、「エネルギーを集中して、瞬間瞬間にかたづけていくことだ」と仰っています。最近のご法話ですが、実は、ずっと前から、先生はこれを為されていたのですね。
 『ミッションそのものである』というお言葉を、"映画を観るように"描写すると、こういう感じだということです。


信じると、真似したくなる


 さて弟子の立場の話に移りますが、昨年12月4日の横浜アリーナの御講演で、最後に、とても大切なことをおっしゃいました。昨日の支部長向けの『信仰を深めるためには』のプレ研修にも出てきましたが、「日本人には苦手なことだけれども、あなた方の主を愛しなさい」と。「なぜならば、それが、実は、あなたがたが主と一体となることだからです」。禅の公案のように聞こえますが、「主と一体となるにはどうしたらいいかというと、日本人には苦手なことですが、「主を愛すること」だというのです。なぜかというと、「主を愛するということは、自分を愛することと同じことだから」だと。つまり、「主を愛する」ということは、「自分の魂の中で、主と同じ属性を持った部分、つまり仏性が活性化してくる一番美しい部分を愛する」ことに他ならないからです。自分の中の一番尊くて、美しいところを愛することと同じなのだと。それが「主を愛する」ことなのだから、主を愛すると、「主と同じものが、自分の中に湧き上がってくる」。だから、「主を愛すると、主と一体となることができるのだ」と教えていただいているのです。
 ある御法話の中で、生前の幸之助氏の言葉を引用されながら、「信仰とは何か、それは、恋愛感情にも似たところがある」と仰ったことがありましたが、
「好きになる」とはどういうことかというと、「真似したくなる」ということですね。
 これは、女性には分かりやすい考え方だと思いますし、ある意味で、"やわらかい"表現ですが、これを求道者風の表現に置き換えると、「主を目指して歩んでいく」ということです。
 「信仰を立てるということは、主を自らの理想像として、一歩一歩、近づいていくことである」、これなら論文試験で「優」が取れますね(笑)。これを"やまと言葉"に崩して言うと、「真似したくなる、少しでもいいから、"主と同じようになりたい"と思う」ようになるわけで、これが全てではありませんが、『信仰を深めるためには』研修第5則の「師弟の道」では、そういう自分を自覚すると、第4則で出会った「真実の自己」が、「力強く行動に転化する」のを経験することができます。
 「信じる」というのは、「真似したくなる」ということ。「一体になりたい」というのは、「同じ属性を持ちたい」ということです。主のダイヤモンドの側面の中の、一部分でもいいので、信仰者はそこを真似していくことで、現状より一歩でも二歩でも、向上していくことができるわけです。


私の場合


 具体的に話した方がわかりやすいので、自分の話をしますけれども。館長というのも、基本的にはプライベートな時間というのはありませんので。というのは、「個人として何をやっているのか」というのは、その個人が組織(精舎)の責任者・代表者である場合、「その組織が何をやろうとしているのか」ということと、ほぼイコールになってくるからです。ですから、「何を考えているのか」というのを理解していただくことと、北海道正心館のPRも兼ねて、個人の具体的な話を少ししたいと思います。
 やっぱり、「先生の真似をしたい」と思っていると、やりたいことが、段々増えてくるんですね。
 例えば館長としては、もちろん、色々な仕事スタイルがあると思いますが、そう思っていると、例えば、祈願導師も、段々やりたくなってくるんですね。露出度はかなり増えたと思います。また、そう思っていると、講師もやはり、やりたくなってきます。経営者研修とかは、もちろんですけれども、年末のイエス・キリスト特別霊指導の『心の傷を癒す』研修なども、やりたくなるわけです。それは、やはり、「もし先生がここの館長をされたら、どうされるだろうか」というのを想像してしまいますからね。それで、講師をやると、今度は研修ソフトも作りたくなるわけです。こうして、際限なく広がっていってしまいます。そして、ソフトを一度つくると、今度は、それの二次使用を考えたくなるわけです。それで、「悟後の修行」を始めることになる。今は『社長学入門』特別研修でやっています。解説の仕方は、何通りかありますから、本番研修とは違った解説を、どうせならと、「ドラッカー全集」から引っぱり出してきて、それをペーパーにして、「悟後の修行」をやっています。
 11月から月に一度のペースで始めて、先月は人数が増えたので、礼拝堂開催にして、約70人でやりました。そうすると、首都圏でも声があがってきて、来る1月29日(土)(13:00~15:00)に、渋谷支部の礼拝室を借りて、出張型で、首都圏の第1回をやります。北海道の皆さんは、今月第3回ですから、先行してますよ(笑)。
 また、先生の支部巡錫のお姿など見ますと、「やっぱり支部をまわらないといけないなあ」となります。今月は道内の支部をローラーするつもりで(『信仰を深めるためには』公案研修のお勧め)、スケジュールは、ほぼ埋まりました。
 こうなってくると、仕事のベースとして、当然、情報収集が必要になってきますから、兵站(へいたん)部分として、"吸収"の時間が要ります。もちろん、七の日講話はメインの武器ですが、これも、やり始めると、そこだけでは収まり切らなくなってきて、“ヘラトリ・トピックス”として、今は、「メル友北海道」に乗せて、流しています。(新年というのは、新しい研修のスタートとか、新年大祭で忙しくてね、もうネタが5本溜まっているのですが、これも早く流さないと、2~3週間で古くなって、使えなくなってしまいます。)
 また、「ヘラトリ」を出し始めると、どうしても、オリジナリティーと内容の濃さを売りモノにしたくなるものですから、なかなか重厚になって、小回りが効かないことがあるのですね。そうすると、小さいネタでも、「スピード優先」で付加価値を出したいときに、短時間でさっと書き上げられる媒体が欲しくなって、「ヘラトリ・ショート」という別バージョンも出しています。ですから、「ヘラトリ」は、2種類発信しています。
 こうなると、海外から、「伝道に使いたい」という声が出てきまして、こちらはサイトを立ち上げて、"Heratri- Topics"(英語版)というのを出しています。vol.2までアップして、現在、vol.3として、"The Contact of the Chinese Government with Some Kind of Aliens"(仮題)という、12/17の七の日講話の前半部分を加筆修正したものが、現在、翻訳中です。また、さすがに「メル友北海道」の入力機能が、ややマヒしかねない
状況になってきましたので、近々「ヘラトリ・トピックス」の日本語版サイトを一部復活させて、そちらからもアクセスしていただける受け皿を作ろうかと思っています。


ロシア(RDN)と中国(CDN)


 また、北海道にいますと、「ロシア伝道」をやりたくなりますよね。RDN(ロシア伝道ネットワーク)も、12月17日に正式発足しまして、「ロシア語経典代」のお布施も、新刊発刊可能ラインを一つの目安目標にして、走ってきたのですが、お陰様で、道内外からの多大なる御協力を頂きまして、400mトラックで言えば、第4コーナーを回りました!(拍手)。今春、是非、ロシア語の新経典が発刊されるように、頑張りたいと思いますので、皆様のもう一段のご協力を、重ねてお願い申し上げます!!
 元々ロシアとの関係は、上手くいっていたはずなのですが、メドヴェージェフ大統領が北方領土を訪問したりしましたよね。これをもう一度巻き直して、日露協商による「中国包囲網」の方にもってこなければなりません。
 不思議なんですが、伝道をやっていると、こういうのは上手く進むんです。オーストラリアでは、これがこの世的にも繋がるルートで展開して、一昨年の3月、先生がオーストラリアのホテルで講演された時に、その場で主のお話を聴かれた方の中に、首相官邸につながっている人がいて、ずっと中国寄りだった路線が、「これでは危ない」ということで、日豪関係重視の方に舵が切られることがありました。これは、この世的につながった例ですが、伝道をしていると、不思議に(霊的に)繋がっていくのですね。
 福岡正心館で、去年12月に仰っていましたが、ロシアも考え方が変わってきました。ロシアがここにきて北朝鮮や中国を非難するように変わったのは、「中国と組んで領土を日本から取るよりも、日本と組んでシベリア開発した方が得だ」と、ロシア側が判断したからです。今朝の読売新聞1面にも、「中部シベリアの世界最大の天然ガス田開発を、三菱商事と三井物産と組んで、ロシアが行う」という記事が出ていました。極東シベリアでは、伊藤忠とのジョイント・ベンチャーの話が、先週は報じられています。こういう風に、流れが出来てくるのですね。
 2010年代の後半は、ロシアですよ。今から手をつけて、「先行投資」していくことです。ビジネスや観光でロシアと組んでいくこと、歴史は必ずそちらに動きます。何人もそれは変えられません。
 なぜなら、中国との対立構図は、少なく見積もっても、あと10年は続くからです。それが続く限り、誰が総理大臣になろうと、どの政党が政権を取ろうと、「ロシアと組んで中国を牽制する」のは、歴史の必然です。これ以外の道はありません。今後、色々なプロジェクトが出てくるでしょうが、人が手をつける前に取り組んでいくことが大事です。ここから北海道の経済は、「復活」が可能です。
 日露経済の交流と共に、主の教えを広げていきましょう。ロシア語版経典が『太陽の法』一冊だけでは、寂しいです。「ロシア伝道ネットワーク」(RDN)を早く離陸させると同時に、2012年の習近平国家主席就任前に、今年は、中国についても、「更にワンプッシュしていかなければ」と思っています。


情報収集のミソ


 こういう状況ですので、どうしても、情報収集がキーになります。これもやはり、先生のお話を聴くと、真似したくなる(笑)。
「情報」そのものを仕事にしていた時は、(リバティ編集長、幸福の科学大学学長など)は、全国紙は6紙全部目を通していましたが、精舎の館長をしていると、左翼系の毎日や朝日は読む気がしない(笑)。取りこぼしが当然出ますが、「今の立場なら致命傷にならないだろう」と、日本の新聞は、読売、日経、産経の3紙、さらに英字紙は、ウォールストリート・ジャーナル(有料版サイトで全記事閲覧可)とヘラルド・トリビューン(=NYタイムズ,こちらは無料版サイトしかないので主要記事のみ)のインターネット版を朝チェックして、詳細は夜に配達されるヘラトリ紙で確認しています。この他に、絶対に新聞等に出てこない情報を拾うために、海外(英語)の専門系ニュース・サイトを二つチェックしていますが、これは企業秘密です(大笑)。昨日のプレ研修をやった後に、「館長はどうやって勉強しているのですか」という質問が出ていたみたいなので、今日はお話しました。
 本は、買うと大変なので、最近は図書館を利用することが多いですが、「札幌中央図書館」は、結構充実していますね。蔵書の量も多く、質も高いです。こういうところが、日本の良いところですね。
 今は亡き佐々木英信さんのエピソードを紹介すると、彼はいつも重たいカバン持っていたんです。中がチラリと覗けて見えたりすると、常時、読みかけの本が、5~10冊入っているんです。同時に読んでるんですね。お仕事柄、いろんな方と会ったりすることが多く、そのための移動時間に、ちょっとした空き時間ができたりするんですね。例えば飛行機の着陸が30分遅れるとか、アポイントの相手方から、「15分だけ待ってほしい」と言われるとか、そういう細切れの時間のために本を何冊か持っていて、その後会う相手の顔を想定して、「この相手なら、面会の前にこの本を読んでも、仕事に影響を与えない」という本を選んで、読んでいたそうです。時間というのは、そうやって作り出すんですね。
 プレ研修のあとに、「館長は、いつ勉強してるんですか」という質問が出たらしいのですが、私も最近は、移動中の飛行機の中が、一番まとまった勉強時間が取れます。疲れて思わず寝たくなるのですが、昨年10月17日の支部巡錫のために、先生が飛行機で北海道に来られた時のご法話の中で、先生の前に座っていた「民主党の前原外務大臣は、ずっと寝ていて、私の存在に気がつかなかったが、(タクー、次の総理大臣候補でしょ!)その間に、私は重厚な本(ex.江戸時代の儒学系?の本)を2冊読みました」、と先生が仰っておられましたね。いつもそれを思い出して、「ここで寝ると前原さんで終わるが、起きて本を読んだら、主エル・カンターレに一歩近づけるのだ」(爆笑)と言い聞かせて、歯を食いしばって、本を開くようにしています。

 北海道の方に申し上げると、図書館の蔵書の質・量は、東京の上のクラスの区立図書館とほぼ同等です。紀伊国屋の札幌駅前店も健闘していますが、但、先日久しぶりに、東京の八重洲ブックセンターや丸善オアゾ店という本店クラスを覗いてきて、ちょっとショックを受けました。「最上階から1階まで、さっと目を通してくる」というのは、よくやっていたのですが、札幌の紀伊国屋ですと、どうでしょう、東京の本店の六掛けくらいの感じでしょうか。
 情報ギャップは、やはりあります。「ヘラトリ」の記事を書いていると、「どの出版社が、どの知識人に、何を書かせているのか」というのは、とても重要な情報です。
 (「それを知った上で、その一歩先の記事を書く」というのが、ポリシーになるので。)そのためには、欠けた4割を補う必要があります。しかしこれは、今のように、「最低月に一度は、首都圏や関西に出る」ことが出来れば、補うことは可能です。ですから、道内の皆さんも、情報・知識で仕事をするのであれば、他のどこかでこの4割を補う努力が必要かと思います。
 (勿論、「取次ぎ」が発行している「新刊全案内」みたいなものに目を通せば、書店回りは要りませんが、私は、そこまでマネできないので…。)

 あと、手が回っていないのは、英会話ですね。「話す」ことや「書く」ことはできても、「ヒアリング」は、訓練し続けていないと、すぐに落ちてしまいます。(少なくとも私の場合。)ですから、今、一番恐れていることは、外人の方を連れて来られて、「館長、伝道してください」と言われることなんですね(笑)。予め一週間くらいインターバルを空けて、アポの予約を入れてください(笑)。


三つのポイント


 最後に、「使命そのものとなる自分を目指す」ためには、どうしたらよいか、ということについて、3点申し上げます。
 まず一点目。「志を立てる」ことです。主を信仰して、「主と一体となりたい」、「その一端なりとも、主のようになりたい」と、自分の中に願いを持ったならば、「それを実現するのだ」という、強い志を立てる必要があります。
 『人間の本質は心だ』。これは、『信仰を深めるためには』公案研修の第一則です。また、釧路支部精舎御説法でも仰っていましたが、「人間の存在とは、その人の意志のことなのだ」と。「こうしたい!」という意志がなければ、あなたは存在していないのと同じなのです。これは冗談ではないのです。
 以前、教えていただきましたが、遠く離れたところから、先生が私達のことを霊査されたとします。例えば、この礼拝堂を霊査されたとしますね。「こうしたい」という「意志」と「念い」を持っていない人は、主から観ると、透明人間と同じなのですよ。肉体はあるけれども、明確な意志を持っていないと、念いが存在していないと、透明に映ってしまうのです。居ないのと同じなのです。「念い」があれば、離れていて肉体が見えなくとも、念いは観える。存在していることがわかる。念いがなければ、肉体がそこにあったとしても、「私にとっては、存在しないのと同じだ」と伺ったことがあります。なぜ、「志」を持たねばならないのか。持っていなければ、存在しないのと同じことなんですね。仏弟子であるならば、なんらかの志を持つ必要があります。
 二つ目は、先般も仰っていましたが、川口支部精舎でのご法話だったと思いますが、「志が定まったら、その実現のために、毎日なんらかの具体的な実践をしていること」。本当に「志がある」と証明されるためには、何らかの行動にあらわれていることが大事です。その一手が大事です。
 これは「反省行」にていても、言えることです。「何か間違ったことをしなかったか」という「作為の罪」を問うだけでは不十分なのです。つまり、「こういうミスをしました」ということを、消しゴムで消すだけでは、現代では不十分なのですね。反省を真面目にやっている方で、こういう誤解をされている方を、時々お見かけします。会社で言えば、管理部門型(チェック型)の仕事で終わっている感じでしょうか。「自分は何かプラスになることをしたのか?」、「価値の創造をしたのか?」という積極的な反省が、特に現代では必要です。「今日、何か有益な、新たな価値を産む一手を打ったのか」、「不作為の罪」が自分にはなかったか、という積極的な反省です。「ラ・ムーの三正道」に少し近い感じでしょうか。
これは、真面目な仏道修行者の結構落とし穴になっているように思います。
 三つ目は、そういう積極的な毎日を創り出していくためには、「朝の祈りがとても大切だ」ということです。祈りの中で、「自分がなぜここに存在しているのか。何をするためにここに存在しているのか」を、毎朝、毎朝、明確にして、24時間を一歩でも二歩でも、今日も一日、コイン一枚分の時間を投資するとして、何のために使うのかを毎朝自分に問うこと。そのとき、その心の一番奥から出てくる念いが、「生まれてくる前に、主の御前で誓ってきたこと」なのです。「何を主に誓って生まれてきたのか」が、志の根源に在る部分で、それが『信仰を深めるためには』の第4則(ハイライト)に当たります。
 この研修で掴んだものを参考にして、「自分がここに存在する理由」という意志の柱を立てていくと、波長同通の法則によって、このポジティブな波動に合う人が集まってきます。そういう流れを自分で創り出して仕事をするのか、マイナスの思いで一日を始めて、つまらないトラブルを引き寄せて、「午前中はその処理で終わってしまいました」という一日を過ごしてしまうのか。
 この繰り返しが、皆様を限界突破させます。皆さんは、「エル・カンターレの御前にて、何を誓ってきたか」。これは、日常生活にまみれた意識では思い出せません。それを思い出すために、本研修では、入念な準備をして、臨みます。守護霊があなたから預かっている「本当の自己」を受け取ります。皆様の参加を心よりお待ちしています。

 本日は本当にありがとうございました。(以上)

以上





感謝

http://blog.goo.ne.jp/sakurasakuya7/e/3560f1b16ae5ee76f07b8fa0ee12cc44 より転載



御法話「エル・カンターレ信仰とは何か」要点
2010.12.3

1)エル・カンターレ信仰とは、「地球神」の存在を認める信仰

・幸福の科学は、一宗教の枠を越えて、ワールド・ティーチャーの立場として、情報を発信し始めている。
信仰の段階が進化しつつある。二十四年間、会の規模、教え相応に、信仰の内容も変化を遂げてきた。

・最近では、霊言集もずいぶん出ているが、これは霊言現象などを知らない方々に、霊的存在や霊界について教えるというニーズがあるから。
新しい信者層に、霊界に関心を持たせ、心の探究をしてもらうために霊言集を出し一種の遠心力を働かせている。

・こうした遠心力が働いている時だからこそ、求心力もなければ教団としての方向性を保てない。

・エル・カンターレを信仰の中心に置いて、釈尊、ヘルメス、オフェアリス、トス、ラ・ムー、リエント・アール・クラウドと、魂の兄弟があるという説明をしているが、信仰はまだ絞り切れていない。

・方便的には、わかりやすいので、「再誕の仏陀」という言い方をしているが、信仰を立てるには、もう一段踏み込まなければいけない時期。

・エル・カンターレ信仰は、別の言葉で言えば"地球神の存在を認める信仰"。

・今、地上に降りている大川隆法を通じて、あなたがたが感じているエル・カンターレは、人間の属性を持つエル・カンターレ。

後世の方が見ているエル・カンターレ像が、本当のエル・カンターレに近いだろう。なぜならこの世ではいろんな迷わし等の三次元的束縛が数多くあり、同じ生きている人間として自分の眼を通して見たものを信じてしまうため。

・だから、同時代の人達には、本当のエル・カンターレ像の百分の一ぐらいの姿にしか見えないことが多い。

・日本よりも、ブラジル、インド、アフリカの信者さんたちのエル・カンターレ像のほうが正しいかもしれないことを知っておいたほうがよい。




2)エル・カンターレ本体の下生の歴史~地球的真理の確立



・エル・カンターレ本体の下生は、今回が三回目。

・第一回目の下生は、今から三億年以上前。

今のアフリカに近い地域に生まれた。その時の名は「アルファ」。
アルファの説いた法が「アルファの法」、つまり「始原の法」。
当時は、新しい文明実験の頃で、他の惑星から第一段の移住者が飛来し、新しい地球人を創ろうとしていた。

・最初に来ていたのは、マゼラン星雲のゼータ(ベータ)星の人たち。
しかし、地球で創られた魂たちとの間で、人種的対立世界戦争の危機が起きたため、アルファが地上に降りて統一した。
・混乱が起きないよう、いろんな星の人に、何が正しい真理なのか、地球的真理を方向付けたのが「アルファの法」。

地球神としての立場から、
「この教えに帰依することが、地球人になるための条件である」
として、
地球人類と宇宙から来た人たちを一つの法の下にまとめ上げた。
・第二回目の下生は、今から一億五千万年ほど前。

今の中近東に近いところに生まれた。

そのときの名は「エ ローヒム」
(一般的には「エル」)。

・この頃は、地獄のもとになる低霊界ができ始めていた。
天上界の指導霊団の中でも、実績や意見の差が出てき始めていた。
また、数多く地上に転生を繰り返している者の起こした宗教の影響がかなり強くなり、それがアルファの法と食い違ってきた。

そのままでは、地球霊界に大きな分断の予兆が現れていた。
天上界に上がれない者も出始めていた。

そこで、エロヒムが地に降りて、地球的な意味における善悪とは何かを智慧として教えた。単なる善悪二元論ではなく、「それぞれの中に光は宿っているが、地球的真理から見た善と悪、光と闇はある。だからあなた方は光を選び取りなさい」と。

・宇宙人種も地球に相当来ており、価値観が複雑になっていたため、統治の原理として、現代の民主主義のもとになる考え方が現れていた。

すなわち自由な意見を出して十分に議論してよいが、その結果、合意を得たことには従うということ。
また、人間で判断がつかないことは、「天上界に祈って神の声を聴きなさい。大いなるものに帰依する気持ちを忘れては相成らない。」ということを主として説いていた。

・ただ、民族神が、この至高神の教えの一部分を取って、自分の信仰にすり替えることがあった。また、バール信仰のように、自由からの繁栄の教えを利用して、この世的な欲望で人々を信仰心や霊的覚醒から遠ざける方向に引っ張るなど、宗教の堕落が数多く起きた。
そのため、何度も何度もエル・カンターレの魂の分身たちが地上に出て、新しい宗教運動を起こした。





3)エル・カンターレ信仰は、大宇宙の創世にまでかかわる、壮大な信仰




・今、地球レベルで、次なる、価値観の対立が起きそうな気配がある。
それは、唯物論、無神論の国家が、再び力を持ち、民主主義、繁栄主義の国家のほうが、衰退していく可能性があるということ。

・私は、神を認めない唯物論や過てる信仰の下における国家経営、世界経営は、断じて許さない。

・軍事力を背景にした、世界皇帝的なものが出てくる可能1生が高い。
そこに悪魔が宿った場合には、悲惨な時代が生まれる。
光が闇に沈まないように、高く掲げなければならない時期がきている。
・同時に、宇宙から地球への干渉が起きるかもしれない。

地球において、エル・カンターレ文明が勝利を収めたなら、宇宙からの干渉は、従来通り最小限に留まる。
しかし蜃気楼に終わった場合は、宇宙から新たな介入が入る。

・私の法の射程は、次の宇宙時代も含まれる。
宇宙人が本格的に介入するのは、私が地上を去ってから後。

そのときに、人類が頼りにするものは、私が説いている法しかない。

・つまり、魂の兄弟よりもっと大きな射程を収めた教えであり
地球の大きな方向性を決める運動である。

・今、私がやろうとしているのは、この地球と宇宙の創世にかかわる部分。そして、地球と宇宙の今後のあり方の決定。
同時に、地獄領域の拡大を阻止して、天上界領域の力を強めること。

・アルファ、エローヒム、エル・カンターレは、一なるものであり、初めなるものであり、根源的なるものであり、光であり、地球である。
この地球における最終責任を背負っている。

・これが、エル・カンターレ信仰の拠って立っところ。
かつての様々な教えを乗り越えたものである。
・様々な国の、様々な宗教の存在は、エル・カンターレ信仰の下、天上界の拡大に寄与する方向において許されている。
これは、地球神信仰が一本中心にあり、他の様々な教えがあるということ。
「エル・カンターレ信仰」とは、唯一正統なる「始原の法」であり、地球神への信仰に基づくものである。
そのエル・カンターレの教えは地球に始まったものではない。
その前に金星の統治者である「エル・ミオーレ」として、金星での人類の文明実験をした。

・他の惑星から数多くの宇宙人類を地球に呼び込んだが、人類に似た思考を持った宇宙人の魂の創世にも、
エル・カンターレがかかわっている。
その一千億年の歴史が、いずれ明らかにされる。

4)今世のエル・カンターレの弟子の重大な使命

・今回は「エル・カンターレ信仰とは何か」の輪郭について話した。
・現在の地球の政治、経済、法律、宗教の枠組みにとらわれることなく、こちらが始原、アルファであるということを、どうか御理解の上、「エル・カンターレ信仰とは何か」を押さえていただきたい。

・エル・カンターレ信仰があって、様々な霊言集も成り立っており、それぞれの高級神霊の言葉が意味を持ってくる。

また、エル・カンターレ信仰は、仏陀、ヘルメス、ラ・ムー、トス等の魂の分身による教えにも、拘束されるものではないということを知っていただきたい。

・今、新しい地球創世記が始まろうとしている。
それを強く自覚していただきたい。

・「法を弘げるは弟子にあり」

皆様がたが今後、この信仰をどのように、空間的、時間的に、広く、永く伝えていくかによって、信仰の本当の姿が、後の世の人々に知られる。

あなたがたが見ているのは、同時代人としてのエル・カンターレ像の一部であり、何百年、何千年経って、現れてくるエル・カンターレ像が、

本当のエル・カンターレ像に近いということを知っていただきたい。

転載終わり











どうもありがとう。

http://blog.goo.ne.jp/ziyuunakaze/e/31e2f1703796b8c08d6c3526c942b258 より転載


「愛と天使の働き」ブラジル・クレジカードホールにて

大講演会(日本時間2010.11.15.AM1:30より)

一週間前の今日、日曜日にブラジルに参りまして、これで5回目の説法をすることができるようになりました。これは日本を出る時は3回の予定だったけど、ブラジルの皆様方の信仰のたまものであると心より感謝しております。ありがとうございます。
さて、5回連続の説法の今日は・・・外部の大きな会場で愛・・・話をさせていただくことになりました。
ブラジルという国は80%ほどキリスト教、カトリックの信仰を持ってる方がいらっしゃるということでメインテーマとしては愛を最終回に話すのは良いのではないかと考えた次第です。

さて、今日皆様方に話をしようと思っていることは簡単に言えば「神の心とは何であるか」「天使の心とは何であるか」ということです。それをこの世の目で見るのではなくて天上界の目でもって神の心、天使の心が何であるか、その一端でも理解していただければ幸いであると考えております。
今日ここに来る前に、今から23年ほど前に私が話をしました、1987年第二回目の講演会「愛の原理」
お話したものがあるので見ていたんですけど、その中ですでに「10年後、20年後にユートピア活動は海を越え、世界各地に広がっていくでしょう。必ずそうなるでしょう。宗教、思想を越えて、それ以外のものも含め、大きなものになるでしょう」と、当時32歳でありましたけど、東京の七千人ほどの会場でお話しした映像を見ておりました。何十年前の話ですけど、将来起きることをきちんと話をしてると思いまして、こうやって海を越えてブラジルまで来ております。地球の反対側にあたります。

弟子たちには「地の果てまでも伝道せよ」と言っておりますけど、私自身も世界の果てまで伝道するつもりでやっております。日本語では不惜身命と言って、死んでもいい覚悟でやり続けております。
少々大げさな言い方になることをご容赦いただきたいと思うんですけど、ブラジルに来るにあたっても、死んでもかまわないと思ってやってきました。

先週到着当日から説法を開始しました。これが私の気持ちです。
私は天上界のすべての光と智慧と愛を代弁している存在です。この地上に降りることが出来るのは数千年に一回です。ですからその機会を逃したくないんです。一人でも多くの人たちに真理の言葉を伝えたいんです。今から二千年、三千年、四千年前であるなら交通機関が発達してなかったので、伝道に苦労しました。今はたとえ時間は丸一日かかるとしても地球の裏まで来ることが出来るようになりました。とてもとてもありがたい時代になりました。直接ブラジルの人に話す機会を得たのは光栄なことでございます。皆さま方は日本という世界地図のはしの方で見えない島だと思いますけど、そこで説かれている教えを信じることは、大変大変難しいことと思います。それを思うにつけ、頭が下がる気持ちでいっぱいです。まだ本も10冊程度しかないでしょう・・・今年一年、11か月しかたってませんけど、日本で出た本は50冊を超えています。言葉の壁があって皆様方の所に届くには時間がかかります。

わずかな教えの中から本質をつかみ取って、一早く信仰に入ってくださった皆様に感謝したいと思います。全世界で信仰を持っている国は70数カ国。ブラジルは傑出した活動をなされてます。
リーダーが優れた魂の持主と信ずるとこであると同時に、この国にはまだ宗教をよきものとして理解できる心清き人たちが、数多く住んでいると確信させていただきました。
日本という国はこの世的には大いに発展しており、科学技術、経済、そのほか、マスコミや政治は進んでおりますけど、残念ながら宗教、信仰ではかなり衰退し、遅れを取っております。
皆さま方の純粋な信仰心を日本に持って帰って是非伝えたいと思います。
しかし宗教家としてサンパウロの地に来て一週間で感じたことを申し上げます。宗教を尊重する国であるけど、その宗教は完全なものではないと思います。信仰の中に人々を本当に幸福に出来るものは少ないと強く感じています。
今日の演題と関係するけど、愛の問題。このことについて深く話をしてみたいと考えてます。
皆さま方は、愛の対極にあるものは何だとお思いでしょうか。普通愛の対極というと憎しみだと言われる事が多いと思います。しかしながら愛の対極にあるのは「嫉妬」であるという風に感じています。
たとえば家庭崩壊するのを見ても憎しみでなく、嫉妬において崩壊するのが多いです。人間関係を見ても憎しみでなく、嫉妬で壊れる人が多い。ブラジルも都市部は大いなる発展をしてると思えますが、まだ貧富の差が激しく貧しい人をどう救うかが政治の課題になってると聞いてます。
大変な仕事でありましょう。

しかしながら皆様方に申し上げたいことがあります。根本にかかわることなんです。
愛の対極にあるのは嫉妬です。嫉妬の最も危険な面、もっとも褒められない面は何であるかと述べておきたいと思います。この話をするのは何箇所か、支部で説法をして、嫉妬で苦しんでる人がいるのを知ったからです。
誰にでも嫉妬するということはない。他の人に嫉妬を感じる時、嫉妬心を持つ時、皆さんが最も関心を持っている、強い関心を持っている方面に嫉妬心を感じるんです。
皆さまがサッカーの選手になりたいと強く思ってれば、自分よりうまい人に嫉妬を感じます。サッカーの選手が、柔道の選手に嫉妬をすることはないんです。お金が欲しいと思っていると、お金持ちは嫉妬の対象になるとおもいます。異性に愛されたいと思っていると、異性から愛されている人を見ると嫉妬の心が湧いてくると思います。

第一段階として愛の対極に、自分がそうなりたいという理想像、自分が願う理想像を打ち壊そうとする心の作用があると知らなければなりません。自分の表面意識の下に、願ってることがあるにも関わらず、目標になるべき方向にいる人に嫉妬することで、そちらに進むことが出来なくなる。
嫉妬の対象を必ず批判し悪口を言い、その人の欠点を指摘する傾向になるからです。大事なところです。嫉妬が、なりたい姿、なりたいと思う人であると素直に認めることが出来たなら、逆に嫉妬の心を押さえてまず祝福の心を持っていただきたいんです。
祝福の心は肯定の心。
祝福の心は、かくありたいと願う心。
祝福の心は、他の人の幸福を願う心、なんです。
その心を持っていれば、皆様方が祝福している人の方へ歩んでいくようになるんです。

皆さまが勉強熱心だとして、勉強できる人に嫉妬するとしても、露骨に悪く言うのでなく、「良く頑張ったね」と言えるようになる時、一歩、二歩と歩んでいけるようになる。嫉妬が理想像を否定してるのではないかと思ってほしい。
集まりやすいのがお金の所。裕福な人を見れば嫉妬が出ます。それが憎しみになって、憎しみが増幅されると攻撃性になり、犯罪がはびこるようになります。しかしながら自己実現がなされないことを反社会活動、破壊活動によって、自分の夢を打ち砕いているということを知らないといけない。
お金持ちになりたければ祝福することです。そうすることで裕福な人も心を開いてくれ、貧しい人の友達になってくれるでしょう。どうすれば豊かになるか教えてくれることでしょう。
人は自分を祝福してくれる人と友達になりたいと思うんです。
不幸な人を増やすことでなく、幸福な人を増やす・・・。まず知ってください。
はるか昔に七大天使の一人、ルシフェルという天使がいて、知天使、夜明けの子とも言われた子が地獄に落ちてサタンになりました。それは、神への嫉妬が原因だと言われています。知恵あふれる美しい天使だったけど、自らが神になれない。嫉妬を抑えることが出来ず地上に生まれた時サタンという人生を送りましたが、権力欲、物質欲、支配欲、他の人への攻撃によって心を真っ黒にし、再び天上界に還ることが出来なくなりました。
最初に天使が落ちた原因が嫉妬であったんです。神に嫉妬するのでなく、神は理想であったはずなんです。そうであるなら神が持っている様々な性質、願い、活動、こういうものを学び、真似をし、その方向に理想像を描かなければならなかったんです。
嫉妬で地獄に落ちました。単に自分が苦しんだだけでなく、当時、悪をなした者が浅い地獄をつくり始めましたけど、ルシフェルはサタンとして地獄に落ちた時天上界と戦いを始めました。
天上界にいる間は、人間の霊に手を出すことは出来ないけど、地上に生きている間は地獄の方が地上と似た波長を出していると気づいたからなんです。

地上で、地獄界の波長を持って生きている人に次々と悪霊に取りつかせ、破滅的人生をおくらせることで、地獄に引き入れていく。そうやって地獄の人口を増やしていったんです。
地獄は苦しい、暗いところです。楽しい明るい世界ではないんです。その苦しみから逃れ、楽をするために地上に出てきて、自分と同じような傾向、憎悪、怒り、嫉妬を持っている人に取りついている間、人間として生きていることを味わうことが出来る。それで憑依するようになる。それで狂わせていく。

皆様方にもたとえ少しであろうとも、他の人の不幸を見て喜ぶ気持ちがあるでしょう。
ゼロとは言わせません。他の人の不幸を喜ぶ気持ち。ホッとする気持ち。それが地獄霊との接点なんです。その気持ちの所に地獄から縄梯子で這いあがってくる。
ある時は様々な病気を起こし、ある時は人間関係を不調和にし、ある時には会社を破滅に落とし込み、ある時には詐欺師を信じさせ、身の破滅を起こすようになる。ある時には家庭不和が起きてくるようになる。出発点は他の人に対する嫉妬心。不幸を喜ぶ心です。それで自分の不幸が減ったように思う心です。それが地獄霊を呼びこんでいる。

縄梯子を切って、外すのは難しくない。他の人の失敗を見て悲しみ、助けたいという慈悲の心を持つこと。他の人の幸福を見たら祝福しようという気持ちを持つこと。そういう気持ちを持つことで悪霊が取りつくことが出来なくなるんです。
悪霊が取りつくと、体が重く、気分がすぐれなくなり、常時取りつかれるとウツ状態になり人生が暗く見えます。未来は真っ黒、先行きいろんなことが起きますけど、悪いことに激しく反応し、いいことには少ししか反応しなくなる。

どうにかして悪循環を断ち切らねばなりません。心を地獄に落ちた悪魔に合わせず、神の方に向けていただきたい。心を天使たちに向けることが大事です。
信仰者の人口が多いブラジルであっても、神の姿、天使の姿を実際に見た人は少ないと思います。
しかし天使たちは日夜活動しています。多くの人を助けようと活動しています。
悪霊がついた人にも、善なる心を教えようとしている。正しい信仰に入れるように・・・。
休むことなく、そういう努力を日々やっている。しかし、その天使の姿を目に見ることは出来ないでしょう。
見ることが出来ないということは、天使たちは多くの人を救う活動をやっていても、感謝をされてはいないということです。目に見えない善意が、ある方をくるみ、救おうとしているけど、気がついてもらえるのは数少ない。たまに夢で天使を見たり、たまに声が聞こえることがあります。
宗教修行の中にはありますけど、99%気づかれることはありません。信仰という言葉によって神、天使に、感謝の心を持っていただきたいです。
地獄ができ、神に戦いを挑んでますけど、地上にまでしかきていないんです。

太陽の法、永遠の法にありますけど、この世はともすると天上界と地獄界、神と悪魔というように、拮抗する勢力のように考えがちだけど、実際はそうなっていないんです。
圧倒的に天上界が大きな世界なんです。地獄は地上に関係した世界なんです。大きな川の下流で塩水と真水が混ざってるとこが地獄であって、上流は天上界。圧倒的なんです。
神に対抗できる悪魔はいないんです。それを強く信じ、知っていただきたい。
対等ではないんです。天上界と地獄界は対等な世界ではないんです。
ほんの地上にかかわる一部分の世界の悪と接する部分が地獄なんです。

いかなる悪魔も神に勝つことは出来ないんです。
なぜなら神は光だからです。圧倒的光。
光に勝てる闇はないんです。闇は光がささないとこのみに存在するんです。
闇は実在ではないんです。光がさせば消えるんです。闇が実在と思うのは間違いです。
光を妨げるものがあるなら取り去ることが重要なんです。
取り去る修行こそ信仰であり、皆様方の宗教修行であるんです。精進であるんです。
あらゆる悪は光に勝てないんです。光に勝てる悪はこの世に存在しないんです。

太陽の光は凄く強いです。でもそのような太陽の光であっても影を作ることは出来るんです。
手をかざしただけでも、薄いボール紙でも光をさえぎることが出来るんです。
できた闇は太陽と互角に戦えるものではないんです。それが信仰における勇気です。
神に戦いを挑んで勝てる悪魔など地球に存在しないと知っていただきたい。
神は地球の60億人、70億人の人を救うために多くの天使たちに毎日働くことを望んでいます。
天使たちは昼も夜も休みなく働いています。

昼と夜がわかれているのは地上だけなんです。天使は24時間寝ることはありません。
365日働き続けています。多くの天使が神のしもべとなって日々努力して、悲しみにある人を慰めようとしています。
闇に連れ去ろうとしている人に厳しく指導をしています。愛は甘い愛だけではありません。
優しい愛はありますが、間違ったものには間違っていると正すもの、正義も愛の一部であります。
神の愛が地上に実現されていくときに正義と呼ばれる時もあります。
適切な指導者は厳しく指導されることもあるでしょう。皆さま方に悪の道、悲しみの道から遠ざかり、善の道へ導きたいからなんです。厳しさを含んだ指導者、智慧を含んだ愛もあると知っていただきたいと思うんです。
最初に愛の対極にあるのは嫉妬であると言いました。それが七大天使ルシフェルが地獄に落ちた理由と言いました。地獄が拡大したのは嫉妬。しかし、嫉妬の現れる中には憎しみ、憎悪もあると思います。憎しみ、憎悪は他に対する破壊的活動行為として現れること、ありましょう。
イエスが言ったように、弟子に「先生何度許せばいいのですか。7回ですか」と言われた時に「7の70度許せ」と行ったはずです。490回です。にくい人、嫌いな人いるかもしれません。490回許したことありますか。
私はそれ以上のことを言います。
愛で接せよ。愛の大河で押し流していけ。
善念で、愛で、ささやかな嫉妬、怒りを押し流していただきたいんです。

それがこの国が希望に満ちる未来を持つための条件でも、おそらくあると思うんです。
真なる愛は希望をもたらします。
真なる希望は繁栄をもたらします。
真なる繁栄は真なる自由をもたらします。
真なる自由はあなた方に真理とは何かということを100%教えるようになるでしょう。
真理の子であってほしいんです。
希望の子であってほしいんです。
繁栄の子であってほしいんです。
善の子であってほしいんです。
何よりもあなた方は神の子であってほしいと強く強く願うものであります。
神の子を目指す道。
天使の一人としてこの地上を浄化するために、ユートピア化するために、日々の努力を惜しまないで欲しいんです。

2万キロを超えて空の旅を終え、ブラジルの地で5度の説法をしました。
これが最終回の説法です。
ここに来たのはあなた方に天使になってもらいたいからです。
天使の働きをあなた方に地上でなしてほしいからです。
地上でなしたことは天上界での10倍です。神の姿を見ることが出来ず、地獄を見ることが出来ない世界で、信仰のみで神の道を目指す。あなた方は天使になっていただきたい存在です。
日々知恵を磨き、努力精進されることを願ってやみません。
・・・オブリガード・・・  
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この度のご説法はメモでは伝わらない、大変な感動を与えてくださいます。
是非支部でのビデオ拝聴をお勧めいたします

以上






感謝

http://amamikyo.amamin.jp/e66167.html より転載


表面意識と潜在意識(佐竹館長)2010/11/17

2010.11.17 湯布院正心館七の日感謝奉納式典
佐竹館長講話

 ☆★表面意識と潜在意識☆★


 皆様、こんにちは。ようこそ、湯布院正心館においで頂きました。本日は11月度の2度目の七の日でございます。この尊い日を、ここ湯布院正心館にて相集うことができましたことを、主に心より感謝申し上げます。


 私たちは、この地上に転生する前は、霊天上界におりました。そして、この霊天上界では、霊として自由自在な生活をしていたわけでございます。そこでは、どこからエネルギーを供給していたかと申しますと、それは霊太陽からエネルギーを得ていたということでございます。この地上でも、日中は太陽が輝いておりますが、このような光を受けて生きていたということです。そして、この霊太陽でございますけれども、今明かされている真実は、この霊界における霊太陽にエネルギーを供給しているご存在がおられると。その名をエル・カンターレと言うと、このようにお教えを頂いております。


このあらゆるエネルギーの供給源、源となっているご存在を、エル・カンターレと言うのだということでございます。
 そして、その主の光を受けて、私たちは自由な生活をしていたわけですけれども、この地上に転生致しますと、それが全く逆さまになって参ります。本来の霊界世界があの世の世界と呼ばれ、また潜在意識という世界の中に入っているということで、まあ潜在するわけですから、普通は気づかない世界になってしまうというのが、この世の生活でございます。


 そしてまた、釈尊はこのようにも言われました。人生は苦であると。この苦というのは、この地上世界に私たちが生きている上におきましては、あらゆる苦しみというのが現れてくる。何故かというと、これは天上界ではない世界に来たからです。そこで、この苦しみの正体を見るとですね、それは悩みというものだと。さらに、悩みというものの正体を大きく分類すると二つある。


一つはその原因となるものが、自己憐憫、自己中心の思いと言いますか、自分可愛いという考え方、或いは自己保存というのがあります。自分可愛さ、或いは自分を哀れむというような心が一つでございます。


もう一つは、恐れであると。何とは言われぬ心の不安・恐れ、未来に対する不安・恐れですね。こういったものが、一つの悩みの原因であると。


 では、何故そのような悩みができるのかというと、天上界と引き比べてみると分かって参ります。それは、この世は全く逆の世界で、この地上にいますと霊界のことを忘れております。そのために、無明とも言われる心の暗さ・智慧がないとこういった状況で、この地上の苦しみ・悩みというものが出てくる。こういったマイナスの思いですね、自分に対する否定的な思いというものが、オギャアと生まれて子供時代から大人になってくる間に、どんどんどんどん出て参ります。


その思いはどこに出るかというと、表面意識に出て参ります。潜在しているから分からないんですけれども、毎日日常生活をしていると出てくるこの思い、これを表面意識と言います。この表面意識の中で、マイナスの思いがどんどんどんどん出てくるとですね、知らないうちに潜在意識の方にマイナスの思いが沈殿していくのであると。溜まっていくわけですね。気がつかないんですが、少しずつ少しずつ溜まっていく。


この溜まってきたマイナスの思いが、ある一定量になってくると生き物のような動きをし出すと。この潜在意識が。例えばですね、自分を否定するような思いがどんどんどんどん溜まってくると、勝手に自分を否定するような思いが生き物のように動き出すんだと。これが更に不幸を加速度化して参ります。これが表面意識と潜在意識というものでございます。


 そして、よく反省をしなさいと言われるわけですけれども、この反省は想念帯の曇りを晴らすのだと言われています。この想念帯の曇り自身が、実は先ほど申し上げたマイナスの想念の沈殿を起こしていくわけです。沈殿してきますとそこに堆積してきますから、本来仏の霊太陽の光が、仏性の光が射して来ているにも関わらず、それを遮ることになって参ります。これで影を作ってくると。ですから、想念帯の曇りというのは、潜在意識に沈殿してきたマイナスの思いがそこに溜まってくるので、本来の仏性の輝きをそこで止めてしまう。これがですね、人生を暗くしていくことになります。


 そこでですね、この想念の曇り、或いはマイナスの想念が溜まるとどうなるかというと、こういうことが起きるわけです。表面意識では健康を願っているにも関わらず、病気になるんです。或いは、表面意識では豊かな生活を望んでいるにもかかわらず、貧乏になるんです。表面意識ではもっと自由に生きようとしているにもかかわらず、潜在意識的には悪霊を呼び込むということが起きてくるわけです。何故呼び込むか。潜在意識がマイナスの想念を持っているので、その波長に同通したものを呼び込む。それによって憑依というのが起きてくる。そして、人生が暗転していくと、運勢が暗転していくという状況が起きるということでございます。


 それでは幸福の道を目指すにはどのようにすればよいのかというと、この逆をやればいいということになります。今までのプロセスの逆をやろうではないかと。まず、想念帯の曇りを晴らしていこうではないかということです。その順序は、よく潜在意識を変えよと言われるんですけれども、潜在意識の変え方のことを言うんですね。どうすればいいかというと、逆をやればいいんです。


ですから、もう一度思い出すとですね、自分の表面意識にマイナスの思いや愚痴・不平不満が、毎日毎日繰り返すんですよ。こういったことを知らないうちにぼやいているんですね、愚痴っている。これが溜まってくるわけです。だから、潜在意識が重くなって病気になったと。では、この病気を治したいのであれば、表面意識から変えなければいけないわけです。表面意識を今度は逆のものにすると。


それは主を信じるという行いが、まずあります。偉大なる主をまず信じる。そして、この偉大なる主を信じる時に、想念帯を光明化するにあたっては、まずエル・カンターレというご存在をよく認識してほしい。あの世の霊太陽にエネルギーを供給されている方である。即ち、すべてのすべての方である。すべてのすべての方を信じることを、絶対の信仰と言います。


すべての方を信じるわけですから、これは絶対の世界です。ですから、絶対の信仰を持ちましょうとこのように言われるわけです。では、具体的に言うとどういうことかと言うと、主に対して信仰に対して、従順な心、或いは敬虔な心、服従の心、こういった主を受け入れる心を持ってほしいと。これがまず信仰です。
そうしますと、霊太陽に雲がかかっておりましても、その上に青空が輝いている。そこに太陽が輝いている、この太陽というものを思い起こしてほしいと。表面意識で思い起こす。これを自分が愚痴った分だけ、常に念ってほしいということですね。念っていますと、今度は逆に想念帯に太陽が照ってくることになる。これが曇りを晴らしていくんだと。


 それを更に具体的に言うとどうなるかというとですね、正心法語の読踊というものがあります。日々この正心法語を読踊する。何故ならば、正心法語は光だからです。偉大なる主より、エル・カンターレより降ろされているこの正心法語は光です。光ですから、この光を、光の言葉を読踊するということは、表面意識にこれをまずぶち込んでいますね。これを何度も何度も繰り返していますと、これが潜在意識に落ちてくるんだと。


そして、次に何をするかというと、四正道、愛・知・反省・発展というものを、ぜひ実践をして頂きたいと。この実践もですね、時々やる人もいるんですよ。或いは、たまにやる人もいらっしゃるわけですけれども、これが日常的なものになってきて、毎日毎日この四正道に基づいて生活するということが起きてきますと、またこれも潜在意識に降りていきます。それによって、今まで曇りを作ってきた想念帯を晴らしていくことになると。


 晴らしていきますと、私たちの想念帯が透明になりますと、潜在意識と表面意識が一致するという状況が起きてくるんだと。表面意識で考えていることと潜在意識で考えていることが一緒なんだということなんですよ。これを何と言うかというと、奇跡の瞬間と言うのだ。今この奇跡というものが、数多く語られる時代になってきております。主は信仰により奇跡が起きると言われておりますが、如何にして奇跡が起きるかというと、表面意識と潜在意識が一致するということによって起きるわけです。


これは逆のことも起きているわけです。表面意識も病気の意識、潜在意識も病気の意識、あっという間に病気になります。表面意識も健康、潜在意識も健康、あっという間に健康になっていく。これがですね、私たちがお教え頂いている真理でございます。


 そして、主はこのように私たちにお教えを頂いております。信じる心が奇跡を起こすと。で、まず信じるのは、表面意識で信じる。信じ続けることによって、潜在意識に降りる。そうすると、奇跡を求めなくても起きてくると。それは心の底が光で満ちている以上、主の御心と同通して参りますから。ある方がですね、この方に健康になってほしいと思ったら、光が臨むということが起きます。何故かというと、光が通過するからです。或いは、自分自身がこうして行かなければいけないと思ったら、そちらの方に行くわけです。発展しなければいけないと思ったら発展するし、健康になるべきだと思ったら健康になっていく。或いは、何か不都合なことが起きた時に、こうあるべきだと思ったらなる。何故かというと、天上界と同通しておりますので、私利私欲ではないからです。無我の心に基づいて愛を実践されるということは、実現していく。これが、今から始まる奇跡の時代ではないかとこのように思います。


 そこには主を信じる絶対の心があって、ただ一瞬信じるものではなくて、信じ続けるという精進があって初めて表面意識と潜在意識が同通していく。そして、今まで不幸であったならば、信仰に基づいて正心法語と四正道を実践するならば、自分の人生は変えられるということになるわけです。ですから、幸福の道に入ることができるのである。今、私たちが求められているのは、主を信じるということを中心とした生活、或いは人生ということであろうとこのように思います。


そうしますと、偉大な奇跡が今から起きてくる。それによって、今までなかなか伝道が不可能であった方々、或いは人生の問題が突破できなかった問題が解決する、或いはなかなか治らなかった病気が治る。或いは、霊障の方を救うことができる、こういった偉大な力が巻き起こってくることによって、主の信仰の実証というものが為されるということではないかと思います。これによって、この日本の国の国難というものを救い、また全人類救済をするという、一つの道筋というものが見えてくるのではないかと思います。これが基本中の基本でございます。


 ですから、主が言われる信仰による奇跡というものは、この信仰を日常的なものにすると。習慣化することによって、表面意識と潜在意識、この世とあの世が通じると。それによって、あの世の原理がこの地上においても実現すると、あの世の法則通りになっていくということを言っているのではないかと、このように思います。


今その実践を私たちは求められておりますので、日々こういった信仰による奇跡というものを実践していかなければならないと思います。そのためには、まず日々そのような念いを続けるということと、時々心を澄ます瞬間も必要である。こういった精舎にお越しになって、心を澄ます瞬間も必要である。こういった精舎にお越しになって、心静かに保った時に、また非常にクリアな心が出る。そうするとそこでまた、潜在意識に光が入って参ります。この二つによって、精進することによって、主の御手足となれるということではないかと思いますので、共に精進して参りたいと思います。ありがとうございました。


転載終わり



感謝

来世幸福への旅立ち 幸福の科学の葬儀・納骨について
http://www.youtube.com/watch?v=s4spgq51JEA&feature=share

書き起こし



死とは何か?



死とは何か、この問いは人生の一大事です。
死ねば何もかもなくなってしまうと考える人にとっては、できれば考えたくもない恐ろしいものでしょう。しかし、「死とはこの世を去って本来の世界へと帰ることだ」と考える人にとっては、死は、まったく違ったものに見えてくるはずです。






大川隆法総裁『いい人生とは何か』より



「はっきり申し上げまして、いま、天国に送れる宗教、死んだ方を間違いなく天国に送れる宗教というのは、幸福の科学しかありません。間違いないです、ほかの宗教ではわかっていない、悟りというものの中身がわかっていなければ、天国に送ることはできないです。」





来世幸福への旅立ち  幸福の科学の葬儀・納骨について



葬儀本来の目的は、亡くなった方の魂に導きを与え、この世からあの世へと旅立ってもらうことです。
しかし、あの世が迷信として扱われる現代では、お寺のお坊さんであっても、あの世の存在を否定する人が多いようです。
幸福の科学の葬儀は、霊界についての明確な知識に裏付けられています。
だからこそ、亡くなった方の魂を速やかにあの世へ、旅立たせることができるのです。

では、死後多くの人は、どのような経験をするのでしょうか。



死を契機に、私たちの魂は、肉体を抜け出します。

たとえば、魂となった自分が、上空から自分の肉体を見るという経験をします。相手に触れようとしても、体をすりぬけてしまいます。

ほかの人が、自分の存在にまったく気づいてくれないという経験をします。
人は通常、3週間程度、この世にとどまることを許されているそうです。


やがて、亡くなった方の前に、導きの霊が現れ、あの世に旅立つように説得をはじめます。多くの方はこの導きによって、この世を去っていくのです。
この世とあの世の境目にあるのが、有名な三途の川です。
向こう岸には、先に亡くなった家族や昔の友人知人が迎えに来ています。
三途の川を渡った先は、多くの人は生まれてから死ぬまでの自分の一生をすべて見せられます。
自分が思ったこと、行ったことを、すべて振り返り、最もふさわしい世界がどこかを悟ります。


そして、その世界に、自ら赴くのです。



幸福の科学の葬儀や法要は、亡くなった魂があの世に向かう過程を正しく理解した上で、その旅立ちを速やかにするために行われます。

通夜式では、経文を読誦し、死に関するわかりやすい導師法話や知人からの送別の言葉を通じて、なくなった方に霊的自覚を促します。
幸福の科学の葬儀、帰天式では、仏の直説金句の経文『総本山・先祖供養経』や『仏説・正心法語』を読経し、亡くなった魂に、自らの死を自覚させ、導きを与えます。






「この地上を去りたる諸霊よ
 仏性こそ
 人間の本体である
 本来 仏の子である
 そなたらの
 生きていく寄る辺である」


『総本山・先祖供養経』より






これらの経文は、永遠の仏陀エルカンターレの直説金句によって説かれた尊い経文です。
全編が、光の言霊でつづられており、有名なお経である法華経や般若心経の一万倍の功徳をもっています。経文は、現代語で誰にもわかりやすい、やまと言葉でつづられており、亡くなった方にも理解することができます。
あの世について深く理解した導師が、この経文を読経することで、魂を光の世界へいざなう尊い導きとなるのです。


さらに、帰天式を終え、荼毘に付されたあとも、魂の供養を行うことができます。


それが、幸福の科学の霊園、来世幸福園です。
現代では、散骨などもはやっておりますが、お墓に納骨することには、形を通して、供養の心を明確にするという意味があります。
亡くなった方に、感謝の心を確かに伝えることが大切で、納骨檀は、そのためのよすがなのです。
納骨檀は、霊界へのアンテナのようなものであり、ここを縁として、感謝の思いは、あの世へと伝わっていきます。
また、生前、三帰誓願をすることができなかった方には、死後三帰誓願を通して、仏弟子となることが許されています。

幸福の科学の葬儀、それは、亡くなった魂への大きな導きであり、仏の慈悲の表れです。

確かな来世の幸福をあなたに約束します。



以上

http://blog.goo.ne.jp/sakurasakuya7/e/adcb5dd467eef3af95f39a4b83854b07 より転載


ジュンジャイ支部精舎「幸福への道」御法話



ジュンジャイ支部精舎「幸福への道」御法話



ジュンジャイ支部精舎の皆さん、お会いできてうれしく思います。

ブラジルで3回目の説法になりますが、皆さんに会えてうれしく思います。 今日は「幸福への道」と言う演題を選びました。高速道路に乗ってきたが、でこぼこがやや多く、その時、私自身幸福への道そのものだと感じた。

道の気分になって、私の背中の上を何台もの車が通っているんだなと思います。道にごみが捨てられることもあり、トラックを走らせたりと尊敬されない扱いを受けたりするんだと。

11月と言う月は、20数年前、数十名の人を集めて第1階の説法をした。

今、ブラジル正心館や各支部、地球の裏側にまで来た。

私の使命は最初から書籍に書いたように、全世界に人のために説く事にあると言うことを再確認しました。

幸福へのヒントになること、その一つは、人生の幸不幸を決めるのは皆さん自身です。

他の人じゃないんだと言うことを知っていただきたい。

他の人が「あなたは幸福です、不幸です」と決めるのではなく、あくまでも自分自身。これを最初に言っておきたい。

言葉を変えれば、毎日毎朝、起きたら「自分は幸福な一日を送るか不幸の一日を送るかを、自分で決めなければいけない。

決めるのは他の人ではなく あなた方自身であるのです。

あるいは雨が降るかもしれません。雷が鳴るかもしれない。

だから不幸だと考える人もいれば、雨や雷の中大川隆法が日本から来たと喜べる人もいる。

外部の環境ではなく、自分の人生を自分で支配できるのだと言うこと。

この一つを握っていれば、大部分忘れたとしても、大きく外れることはありません。

幸不幸を決める主体はあなた自身であることを忘れないでください。

日本人の子孫の人もいる。日本語でわかる人もいる。

日本からはるばるブラジルに来て幸福になった、不幸になったと考えるでしょうが、日系人のある人は幸福を、ある人は不幸をつかんだ。

環境のせいにすることは簡単です。

人に低い評価を与えられ、悪口言われたら元気がなくなることもあるでしょう。 しかしそれをどうとらえるかは自分自身。

従来言われる宗教に比べ、はるかに強い人間像がそこにある。

あなた方はもともと学ばれた宗教はいろいろあるかもしれませんが、いずれの宗教にも、神が人間を作られたと言っているでしょう。

神の一部が人間に宿っている事実。神とは光そのものです。

その光の一部が宿っているのなら、もっと自信を持たねばならないんです。 もっともっと可能性に満ち、自分自身を変えていく力を持っているんです。自分自身を変え、神を目指して成長していこうとするならば、この地上を去った霊界においても、あなた方を見ている神近き天使たち、如来や菩薩と言う指導霊が常に見守っている。

「とうとう自分の値打ちに目覚めたか。使命に目覚めたか」と喜んでいる存在があると言うことを知っていただきたい。

私も天上界から地上に生まれたものです。そして大きな運命を持って2万キロを飛んで皆さんに真理を伝えに来ているんです。

自分自身、私の人生は神の計画そのものだと思っています。

この地上を照らす光そのものであると信じています。

ですから、私の通った後に幸福への道が開けると信じています。

私自身困難な中を生きていますが、私が通った後に多くの人の人生が開けると思っています。 皆さんも同じなんです。

自分自身が幸福になろうと思ったら幸福になれない。

世の人々を幸福にしようと言う願いを持って、愛を与えんと生きる時に、あなた方の幸福が開けるのです。

安易に自分を幸福にしようと思う人は、他の人から与えられることを願います。

そして自分が持っていないと考えると、世を恨んだり、グチを言ったり、 中には攻撃性が強く犯罪者になる人もいる。

こういう人たちは愛とは与えられるもの人から奪うものだ、もらうものだ、他の人が自分を幸福にする義務があると考える。

そうじゃないんです。他の人を幸福にする、他の人を愛する等、義務があるんです。

それこそが、幸福になる義務を持っているということです。

この世に生きておりながら、他の人への幸福を考えて職業を選ぶ人。

その人こそ光であるんです。なぜなら世を照らしているからです。

それが神が光であるという意味であり、人間を作った際に神の光が宿ったということです。

ブラジルは犯罪貧困が多い、しかしこの国は未来が約束されているんです。 アメリカが、日本が、そして中国が、次にインドが大国になると言われています。

その次に大国になるのはブラジルです。

そうであるなら皆さんの子供孫の時代に世界の中心になるかもしれないということを意味しているんです。

だから現に生きている皆さんのためだけでなく、お子さんお孫さんの時代に世界の光になるために私は教えを説いている。

未来の大国に生まれ合わせると言う幸福を持って生まれてきたのです。未来の人々の福音になるんです。

のちに続く人々のために、皆さん自身が幸福の実践者になって下さい。



そのために必要なこととして、2番目に申し上げるのは、天国地獄と言うあの世の存在は100%存在します。

日本では600数十冊書いてきました。説法も1千数100回説いてきました。数多くの人に。

本当の人生は肉体そのものではなくて、魂、霊体としての皆さんが本当の自分です。

死んであの世に持って帰れるのは皆さんの心しかないんです。

家も持って帰れない。財産も、服であろうと学歴であろうと地位であろうと持って帰れない。

持って帰れるのは心ひとつなんです。

心が清らかであるかどうか、美しいかどうか、それだけを問われるんです。 だからこの世で経験する事柄は、皆さんの心を磨くための材料にしか過ぎないということを知って下さい。

それが人生の目的。いかなる困難苦難、挫折、悲しみ、人間関係の失敗に遭遇しない人はいないでしょうけれど、その中でどうやって美しく輝かせるかということです。

他の人に害されて復讐の人生を設計する人もいますが、それは誤りだと言うことです。この世でいかに丸い心を作るかということです。



第3に、この世は誘惑も多く迷うこともあるでしょう。

しかし最後は信仰を選んでください。信仰を選ぶとはあなたが勇気のある人間であることを示している。

目に見えないものを信じる勇気があると言うこと。だから神に選ばれた人であるということ。最後は信仰を取る。

真理の探究の道に入り、30年になろうとしている。

天上界の数百人の指導霊から教えを聞いてきたが一貫していることはこういうことです。

一貫している。 そしてこれが本当の意味での科学なんです。

幸福の科学であり、霊界の科学であり、未来科学である。

科学とは未知なるものを追い求めること。

未来の科学であるということである。

この国が繁栄することを願って私の説法とさせていただきます









「幸福への道」質疑応答

                   

質問1

大川総裁先生まことにありがとうございます。
感謝の言葉もありません。元市長が質問したいと言うことなので。



●マスター大川、本日は大変ありがとうございます。
私は政治家として、市民に幸福を与えるためどのような
貢献ができるでしょうか?


お答え

政治家と言うのは創造的な仕事なのです。すでにある手本を真似すればできる仕事ではない。

政治家と言うのはこの世にある材料を使っていかなる可能性の芸術を作り上げるかということが大事。

あなたの手に入るものを使って何を作れるか。
心に描いたビジョン、強く描いたものが実現できる仕事です。
国会議員なら、この国の姿を将来どう描くかを仕事として与えられている。仕事としては難しい。結果で判定される。
ですから未来のビジョンを描くことが第1。



第2には今与えられている材料、財産、国民のレベル、産業、資源、こうしたものを使って何を作り上げるかということ。政治家は神に近いところにある職業だと言うことを忘れないでください。
日本も唯物論に染まっているが、政治家は神仏に代わって仕事をしなければならなくなっている。そういう中で、沈黙の中に、神仏の与えるビジョンを見る修行をして下さい。

神近い人でなければ言えない。言葉を変えれば徳のある人でなければならない。

徳のある人と言うのは、一人でも多くの人を愛する人と言うこと。
宗教を信じる大部分の政治家は、信者が多いので票が取れると考えている。
しかし一握りの方は神仏の教えを知らねばならないと考えている。
あなたのような人が来られたのは光栄です。
次回は大統領となられてお会いしたい。
次回は大統領官邸にお呼び下さい。


今日の御法話で、中国、ブラジル、インドとおっしゃいました。
幸福の科学の信者がいるのがブラジルとインド。25%。
このメリットを生かして信者を増やすにはどうしたらいいのですか?


まもなくインドでは百万人を突破。ブラジルの方々は遅くとも10年以内に百万人を突破するつもりなので、できるだけのことを支援する。
いま78カ国。目標は200カ国。
ただ、今見るところ、インド、ブラジル、アフリカがすごい勢いで増えています。
ウガンダから始まって、外交官夫妻が伝道し始めて、まず100人作って核になって、他の国に。アフリカ各地に支部ができて来ている。
広島、長崎でした講演がウガンダで一番好かれている説法。
戦争も経験し、戦争のない平和な国を求めている。

ウガンダで毎週英語説法がながれ、映画仏陀再誕が流れた。
あちこちで広がるのはうれしい。
航空機が今の何倍かの速度で飛んでほしい。
今言ったところだけでなく、可能性は海外は広いと思います。
日本語の素地があるブラジルに広がり、日本人に反省を与えるようになってほしい。

経済的発展と引き換えに、信仰心を失っている。
信仰心豊かな方が経済的にも豊かになり国を発展させるべき。
本来は神を信じる人々が民主主義を作ったんです。
経済的な豊かさと宗教的発展が一致するようになってほしい。

今私が種まきに来ているが、次には皆様方が豊かに実らせ、私に「ブラジルの人々を見なさい。
一回しか言っていないのに、あんなに発展しているではないですか」と言わせて下さい。






質問2

本日は感謝の思いでいっぱいです
。感動がこみ上げ、本当なんだろうかとわが胸を疑いました。

欝(うつ)はブラジルだけでなく世界中に増えています。
欝の霊的原因と、克服方法を教えて下さい。


お答え

説法の感想を書いてくれた中に、ソロカバ支部でも
欝に関するお話をしてほしいというのがありました。

日本から見てブラジルの方が欝だなんて信じられないという感覚。

カーニバルがあるから。
しかし事実はそうではないのでしょう。

欝の原因は様々にあるでしょう。
都市部においては自己実現ができない。

失敗して。
また出世して鬱になる人もいる。
昇進欝。あちこちに見られます。
それをごまかすためにアルコールに浸ったり、麻薬にのめりこむ方も多いと聞いています。
理性を麻痺させて自我を守りたいのでしょう。
欝が三カ月続くようでしたら悪霊の憑依があると考えていいでしょう。

心の針はどこにでも向くようになっている。
欝はちょうど地獄の一点をさして止まっている状態。
そうすると地獄界の住人が寄ってくる。

その人にとりつく事が可能になる。
欝で自殺した人が、生きているよく似た人間を探してとりつき、
もう一回同じことを起こそうとする。



この対策は宗教そのもの。
医学は精神を安定させる薬を出すしかできない。
根本的な治療は、自家発電。
その人自身の心の中で発電機を回すこと。
どうやって回すか。
どうやって明るい気持ちにさせるか。
これがポイント。



このやり方は、欝の方は他の人への感謝の心がないんです。
まず自分が他の人のお世話を受けていること、
それで今の人生があることに感謝の心を持つことで、
自分は恵まれていた時がつける。



第2点は、反省を進めたいが、
もっと自分をいじめるようになるので、
自分が神の子であるという気持ちをもっと強く持つこと。

光の子供であるのだという強い自覚を持ち、
自分自身の重要感を持つこと。

キリスト教には「罪の子」という考えが強いために、
明るい面が見れないことがある。しかし世界は美しい。
落ちているごみを見るか、きれいなところを見るか・・でも違う。

心の方向性を変えるだけで見られる。

何一つ取り柄のない自分だと見る人がいる。
しかしそんなことはない。
他の人に聞いてみると5つも6つも上げてくれる。

小さな成功を積み重ねていき、自信をつけていくこと。
自身がついたら自分の悪かったところに光を当てて反省すること。
欝は世界に広がっているが、感謝をすること。

人間に生まれたことは本当にありがたい。

動物は言葉もしゃべれなければ銀行預金も持てない。
働いても給料さえもらえない。
安くても給料がもらえる。
実にありがたいこと。

自分に与えられていることの多さを気がつくこと。

麻薬でごまかさず、また、他の人との比較にこだわらないこと。
他人が素晴らしいから自分がだめなんだという傾向性があれば、
それはやめること。

自分より成功している人がいれば祝福すること。
ああいう人になりたいと思うことでその人に近付ける。

他の人は恵まれているのに
自分は不幸だと言う気持ちは不幸になる。

祝福をすることで幸福に近づいていきます。




質問3

先生のジュンジャイご訪問いただいたことに誇りに思っています。
運命で不幸な人生が定まっているという考えについてコメント下さい。

また悪霊の憑依についても。

そして、主エル・カンターレとはどういうご存在でしょうか?



お答え

運命につていは、キリスト教では肉体に宿る前の話がないのですが、アバウトな人生計画は描いてきます。

親、土地、職業、人間関係、自分自身の才能が何かあるから、ある程度こういう人生であろうという予想はつく。
しかし決定論ではありません。決まっていることであれば、神様は意地悪な存在であると思うのです。

努力しようがしまいが結果が決まっていると言うなら、人間は堕落する方向しかないですから。

1/4は大枠の傾向性はありますが、その中で自分の人生は、まあ半分は決められる。

残りの1/4は憑依、霊的存在。
悪霊だけでなく天使との出会いもある。
高級霊の指導も宗教修行で75%自分で決められる。


エル・カンターレの意味は地球の光と言う意味です。
この地球を輝かせるということです。
生きとし生けるものを幸福にする存在であり、私は中心部分に近い位置部分です。
地上に出ている私だけではなく、
天上界の霊的存在も含めてエル・カンターレです。

大きな宗教のほとんどに関係している存在です。
そこから先は学んでいただくしかありません。

以上



以上










感謝。