「橋の下のアルカディア」の

備忘録を兼ねた
私的感想の続編です。


今回のブログは、
ちょっと論理の飛躍が
著しいとも思い、
掲載を迷いましたが、

せっかく、飛び立て~♬と
歌ってもらっていることですし、
(↑そういう意味ちゃうと思うで~)

もしかすると、みゆきさんが
一番言いたかったことに
繋がっているのかもしれないとの思いから
公開させて頂くことにいたしました。

よく言われることですが、
みゆきさんの作品を観て何を感じるかは

人それぞれでよいと思っていますので、
どうか、あまたある見解の一つとして

お読みいただければと思います。


 

※ 前世の話が出てきますので、
行き掛かり上、スピリチュアル的な
話題にも及びますが、スピリチュアル診断とか

前世鑑定とか、私は、大丈夫ですので、

誘わないでくださいね。
(↑誰も誘わへんと思うで~)

 

 

 

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2/20に劇場版を見た後、再び、
突き動かされるようにDVDを見た。


付属のブックレットで、
登場人物名を再確認、
歌詞もじっくり読むにつけ、
中島みゆきさんの生み出すものは、

見事なほど複層的に様々な意図、

意味を重ねているとの思いを強くした。


まるで、噛めば噛むほど深い味わいがでる

するめのようである(笑)。


例えば、前回も述べたが、

「公羊」⇒「高橋九曜」は、


公羊≒公の羊(犠牲)、

高橋≒人柱を必要としない堅牢な橋、

九曜≒神なるもの、陽の極まり+高く羽ばたく

更に、「くよう」という読みから「供養」
など、複層的な意味をひも解いていくと、

犠牲(≒捨てられること)から救済への転換

を意味していると考えられる。

さて、一昨年のインタビューで
みゆきさんは、こう語っている。
「今回(夜会VOL.18)の
テーマは〝捨てる〟なんです。
〝捨てる〟〝捨てられる〟
その両方ですね。」
(参考URL:https://miyuki-yakai.jp/interview.asp


第一幕の最初
「なぜか橋の下」でも歌われているが、

私も子供の頃、言われた記憶がある。
お前はうちの子じゃない
橋の下で拾った子だと…、
なぜか、捨て子は橋の下だった(笑)

つまり「橋の下」は、
単なる〝場所〟ではなく、

捨てられた者(≒犠牲になったもの)の

象徴であり、捨てられた者の想いが

吹き溜まっているところなのだろう。


さて、捨てる、捨てられるを
テーマとして考えたとき、
「九曜」の祖父「一曜」と
その子「忠」について

触れなければならないと考えた。


前世、
捨てられた(=橋を守る人柱となった)のは、
「人身(ひとみ)」とそれを追って入水した
「公羊(くよう)」だった。

時代は変わり近代となって

捨てたのは、

九曜の祖父「一曜」だった。

一曜が捨てたものはなんと国!

個が集団を捨てた。


〝ただの裏切りと記録は示すだろう
 国を捨てながら逃げた臆病者〟

と、歌われているが、
これはただの裏切りではないし、
一曜は、臆病者でもない。

当時は、国家総動員法が発令され、
国家のために個を犠牲にするのは当然で、
それに、抗えないのが、時流だった。

まさに、
毎時200ミリの雨のように
逆らっても呑み尽くされるだけの
怒涛のような時代の流れだった。

この流れに敢然と逆らったのが
一曜である。そして、
その子の名前は、(ただし)。

「忠」は、忠臣蔵、忠魂碑など、
国や主君、公のために自らを犠牲する
大義名分の徳目として用いられ、
犠牲は、美徳とされてきた。

しかし、それは本当だろうか。

ブリタニカ大百科事典によれば
「忠」の元々の意味は、
中と心の2字を結合して作られた文字で、
内省して自らを欺かず、

良心の命じるままに従うこと
とある。

つまり、
自分の内なる良心に背かないことだ。
一曜の内なる良心は、
〝私の願いは空を飛び 人を殺す道具ではなく
 私の願いは空を飛び 幸せにする翼だった〟

と歌われているとおりだ。

そもそも自分の大切な子供に、

忠(ただし)とつけた一曜が、

「忠」を軽んずるとは思えない。


つまり、一曜こそ、
忠の人だったと言える。

前回のブログでも触れたが
「一」とは太極で、道の始まり、

一曜は、自らが犠牲になること、
人を殺めることの両方を拒否した。
その行いこそが、
正しい道の始まりだと、暗に
言いたかったのではないだろうか。

そして、一曜という
風変わりな名前を聞いたとき
私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、
一陽来復だった。


冬至のことを指す用語でもあるが、
夜が最も長くなるということは、
以降は、次第に昼が長くなっていく
つまり、
陰が極まって陽転することだ。

特攻は究極の自己犠牲である。
これを陰の極みとするなら、
一曜が特攻を拒否したことが、
陽の始まりであったのだろう。


※「陽」ではなく、「曜」の字を
使ったのにも深い意図を感じるが、
それは、最後に説明したい。


とはいえ、高い志をもって、
(あるいは、時流に逆らえず、)
特攻で散華した方々に対して、
私は深い敬意と哀悼の意を表したい。

一方、自身の良心に従って
特攻隊を脱走した一曜にも
同じく敬意を表したい。

どちらも必要なことだったと信じているし、
誰ひとり無駄に死んでなどいない。


一曜(祖父)⇒忠(父)⇒九曜(子)、

道の始まりの「一」と陽の極まりの「九」
の間に「忠」が挟まっている。

捨てられた者たちの象徴であり、

その想いが溜まっている橋の下で、
九曜は、忠(ただし)を供養していた。


忠(ただし)は、
「忠」の大義名分のもと
犠牲になった(捨てられた)
幾多の魂の象徴で、
九曜に供養してもらう必要が
あったのだろう。

さて、みゆきさんを評して
「神的言霊使い」と表現していた
ファンの方がいたが、

私も、中島みゆきという人には、
言葉のニュアンス、音、
歴史の中でしみついた印象など、
常人の私などには思いも及ばない
言霊が表現しているものの世界が
見えているのではないかと感じている。

本来の「忠」が、

心の中にある道徳心や真心

だというのであれば、

日本古来の人の内なる神の思想や、
(スピリチュアル系の用語なら)
真我とか、
ハイヤーセルフなどとも通ずる。

言霊使いで
言葉を大切にしているのなら、
「忠」という言葉が
元の意味から乖離し、
犠牲を賛美する思想の
道具となってしまったのが、
みゆきさんには、
いたたまれなかったのかもしれない。


さらに、みゆきさんは、

人がないがしろにされること、

個が全体の犠牲になることが

とにかく、嫌なのだろう。

 

例えば、
2015-2016
の「一会」で歌われた
「ベッドルーム」の冒頭も


〝粗略に扱って構わない人間が、

ないがしろに扱って構わない人間が、

あなたの国には まさか いないですね
名誉の傾きを取り繕うために
庇護なき人を選び踏み石にする技が
あなたの国には まさか いないですね〟

とある。

話が飛ぶが、P.F.ドラッカーも、
個が全体の犠牲になることを
嫌悪していた。

ファシズム全体主義がまだ萌芽の頃
いち早くその危険性に気づいた。
ドラッカーは、組織が健全に機能することが
全体主義から人類を守る手段だと考え
「マネジメント」を初め幾多の著作を著した。

ドラッカーは、個それぞれが、
強みを生かして組織を作れと教えてくれている。
個を封殺しない組織である。

さらに、知識社会においては、
組織よりも、知識を持った個に
主導権が移ると述べている。

つまり、国を捨てた一曜のように、
個人に組織が合わなければ
組織のほうが捨てられるということだ。

もちろん、ドラッカーは、
自己中心的たれと
言っているわけではない。

 

『「私は」ではなく「我々は」を考えよ』

との名言を当てはめるなら、
私だけが助かる方法ではなく、
私以外の、誰かが助かる方法でもなく
私を含めた「我々」が
助かる方法を考えろということだ。


「我々」という概念は、
広くとらえれば

地球全体にまで広がるだろう。

これは、クライマックスの
すべてを助けて
飛び立つ特攻機の姿ともかぶる。

もしかすると、
みゆきさんとドラッカーの
立ち位置は近いところに
あるのかもしれない。


さて、最後に
「陽」ではなく
「曜」の字を使った理由だが、

陽ならば極まれば、また陰に戻る。
再び振り出しに戻って、
因果は廻り、歴史は繰り返す。

前回のブログにも書いたが、
「曜」には高く羽ばたいて
目立つという意味がある

おそらく、
みゆきさんは、
次元ごと一段上に
上昇させようとしているのでは
ないだろうか。

もう、愚かな因果や歴史を
繰り返させないために…

もう二度と、
人が人を捨てることのないように…

そんな願いが
込められているのかもしれないと
私の妄想は高く高く峰を

超えていったのであった(笑)。

 


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こんな手間味噌なブログを
最後までお読み頂きましたことに

心から、感謝いたします。

どうぞ、あなたに良いことが
たくさん、訪れますように。

なお、良いことは
悪いことの仮面を被って
現れることが多いので
どうか、何があっても
安心していてくださいね😉