「みなさん、おばんです。」
突然ですが。
ぼくは、母さんを、自死(使いたくない言葉でいうなら、自殺)で亡くしました。
来月、6月22日で満8年たちます。
世間では、自死は、自分で望み自分で選びとった死である、と思われがちです。
でも、その大部分は"追いこまれて"たどり着いてしまったものが多いです。ヘンな薬を医者にあてがわれ、良かれと思って飲んでいた結果、副作用にやられたというケースが多い。
ぼくの母さんを自死へ追いこんだもの──それは、ぼくの生きざまであり、父さんのそれでもあり兄貴のそれでもあります。
精神科に通い全然治ろうとしなかったぼく。
母さんに、ぼくの育ち方が悪いのはお前のせいだ、と枕元で言った父さん。
急性心筋梗塞で死にかけたのに身体のことを気にかけず未だにタバコを吸っている兄貴。
四人家族の男衆三人の生きざまをみて、母さんは日に日に気が弱って行き、ぼくと同じ精神科の病院へ通ったのに元気になれず、そのまま逝ってしまいました。
悲しい、という思いもありますが、薬でヘロヘロになっていたぼくは呆然としておりました。
ぼくと関わりを持った人の中、自死で逝ってしまった四人目の人…。
そんな母さんにぼくができること──それは、母さんの生きた証をたて、反省し生きざまを変えて行く──いや、忘れずにいること、母さんを語り継いで行くことなのではないか。
そう、考えたのです。
やがて悲しみが心と身体にざぶんと波のように押し寄せたころ、ぼくは自死で"愛する人"を亡くした人のための会、という集まりに通いはじめました──が、ぼくは元気になれず、悲しみが重く叩きつけてくるばかりで、世間を立ち回ることができませんでした。
しまいには、ぼくも逝ってしまおう。4年前の仙台七夕間近にコトを起こしました。
しかし、ご近所さんと兄貴と東北大学の救命救急のおかげで、ぼくは今もこうして生きております。
コトを起こし目覚めたぼくはそのあと2年間、精神病院でおとなしくしておりました。
当時通っていた集まりから拒否され、行き場を失っていたぼくに、ある日の夕刊が道を示してくれたのです。
「藍の会」。
ぼくは今、藍の会に関わりを持つことで、生きてかまわないのだと、生きて母さんを、自死で亡くなった人々を語り継ぎ、忘れず、悲しい思いをする方々とともにゆこう。そう決めております。
人形劇をやる人、としての自分。
自死遺族、としての自分。
2つのぼくの、生きる芯、です。
生前の、母さんの"作品"です。
ぼくは、今も、生きております。
〈つ・づ・く〉
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