つれづれに…

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日々学んだことを思いつくままに書いていきます。

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最近は新しいプロジェクトにかかりきりで、ブログの更新をまったく放っておいた私ですが、ある方から「どうなってますか?」とメッセージを頂き、「あ、そういえば書いてないな得意げ」と気がつく始末。
申し訳ございません。ガーン

もともと読んだ本の備忘録として始めたブログだったのですが、まとまったアウトプットの時間が取れないうえに、生来の面倒臭がりが頭をもたげ… 隙間時間を使って本は読むのですがねぇ…


ちなみに、8月に読んだ主な本はこんな感じ…

まず、動物行動学者であるフランス・ドゥ・ヴァール氏の「共感の時代へ」。

以前ご紹介したリチャード・ドーキンス博士の「利己的な遺伝子」と対極をなす本書の主張は「共感」。動物行動学から、私達人間は何を取り戻せばいいのか?を考えさせる良書です。ニコニコ

続いて、下條信輔さんの「サブリミナル・インパクト」。
コマーシャルなどが「情動」や「潜在認知」に与える影響から出発し、様々な客観的事実を淡々と積み重ねる労作。読後にいろいろ考えさせられる内容でした。

さらには、日経ビジネスにまで取り上げられた「もしドラ」こと 「女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら」。
この表紙は一見コミックか?と思わせる特異さで、ビジネス書の中に平積みされているところは圧巻です。結局、友人に借りて読んだのですが、お約束的な話の展開がちょっと微妙。経営学の巨人ピーター・ドラッカーの名著「マネジメント」のさわりを知りたい人にはいいかも… (薄いのでさっと読めるし)

で、この本の影響で、本家ドラッカーの「マネジメント」を久しぶりに再読。これは厚い本(3分冊合計で800ページくらい)ですが、とても読みやすい本(共感できるという意味)で、改めてその深さに感じいった次第。
もういろんなビジネス書なんか読まなくても、これを何度も読むほうがずっと役に立つなぁ、と改めて思ってしまいました。(と言いながら、やっぱりビジネス書の新刊が出ると読んでしまう私ですが…あせる

(余談ですが、ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」も、あらゆる自己啓発本のネタ本になっているので、これ一冊読んだら、もういいか、という本ですね。こちらも600ページありますが…あせる

そんななか面白かったのは、勢古 浩爾さんの「ビジネス書 大バカ辞典」。
ベストセラーになっているビジネス本や自己啓発関連の本をもうメタメタに斬っている。その書き方が徹底しているので、むしろ気持ちイイぐらい。
ただ、本書で挙げられている著者のファンの方からは相当クレームが来そうですけど…

それ以外にも、

   「不運の方程式」 ピーター・J・ベントリー
   「誰が誰に何を言ってるの」 森達也
   「バイバイ、ブラックバード」 伊坂幸太郎
   「スティーブ・ジョブズ 脅威のプレゼン」 カーマイン・ガロ
   「「生」と「死」の取り扱い説明書」 苫米地英人
   「呼吸の本」 谷川俊太郎、加藤俊朗
   「悠久の五十首」 會津八一
   「テロリスト化するクレーマーたち」 毛利元貞

等々…

あぁ、ぜんぜんアウトプット出来てないやん!プンプン
(この中では、スティーブ・ジョブズの本が興味深い。キーワードはPassion!(情熱))


まぁこんな状況の中、仕事の関係もあり、勝手ながら誕生日を前に
一旦筆を置こうと思います。
あれ、今日が誕生日か…あせる
 あと30分足らずで終わっちゃうけど)


では皆さん、しばらくご無沙汰と致しましょう!べーっだ!
(といいながら、また気が向いたら、ダラダラと書くかも…)


今日ご紹介するのは、プロ野球 巨人~大リーグ パイレーツを渡り歩いた桑田真澄投手の「心の野球」。
私は、もともと巨人が好きな訳でもなく、特別な桑田投手のファンでもありませんが、本書のまさに「武士道」を地で行くようなストイックな生き方に、ずいぶん見る目が変わりました。


本書の帯には「がむしゃらな努力は無駄だ。」という扇動的な言葉が踊っていますが、うーん、ずいぶん誤解を受けそうなコピーですねぇ。得意げ

タイトルから見ると、桑田流効率的努力術といったノウハウ本のような印象を受けそうですが、内容は桑田投手の野球人としての人生哲学が書かれた非常に深いもの。(文章は非常に読みやすく工夫されているので、どんどん読めてしまうのですが、その背景にある桑田投手の想いは熱く深い)

PL学園時代の栄光から疑惑のドラフト、野球賭博疑惑や肘のケガ、そして大リーグへの挑戦から突然の引退、清原和博氏との友情を、淡々としかし誠実に書き綴っていく本書。
読んだあとでもう一度帯のコピーを見ると、最初に見た時とは全く印象が違って見えますね。


冒頭、桑田さんはこう語ります。

   この本で僕が伝えたいことは二つある。
   一つは「努力」という言葉の解釈だ。
   僕は「超効率的努力」で自分のキャリアを形成してきた。
       ※二つめは「スポーツマンシップの大切さ」

桑田さんの言う「超効率的な努力」とは、「量」ではなく「質」に裏付けられた努力のこと。
正しい努力」をすることで、「正しい結果」がついてくる、と桑田さんは言うのです。

   よくいわれるような汗と血の結晶が
   プロ野球選手を生むわけではない。

   一番大切なのは質。超効率的に、
   そして超合理的に練習し、

   努力することで僕は生き残った。

本書の帯にある「がむしゃらな努力」というのは、むしろ「間違った方向の(もしくは裏付けのない)努力」と言い換えたほうが、本書の主張に合うかもしれませんね。(あえて、「がむしゃら」という日本語を使ったのは、「とにかく黙ってやれ!」という日本野球の指導に対する反論の意味もあるのかもしれません)

実際に、桑田さんは現役時代には、決して無茶な練習はしなかった。
よく素振り1000回とか1000本ノックとか言いますが、そんな無茶な量をこなすのではなく、23年間、毎日毎日「試合を想定した真剣な50回のシャドウピッチング」を欠かさず続けたといいます。

   人間は500回も1000回も全力では振れないもの。
   もしそんなに振るとすれば、手抜きせざるえない。
   つまり脳や身体が手抜きを覚えてしまうのだ。


そんな桑田さんが大切にしている考え方が「表の努力」と「裏の努力」。

表の努力」とは、ランニングやピッチングなど、要するに技術や体力をつける練習のこと。
そして「裏の努力」とは、挨拶だったり、トイレ掃除だったり、草むしりだったり、野球とはまったく関係のない努力。もちろん「裏の努力」をしても野球が上達したりはしません。
しかし、桑田さんは言うのです。

   それでも、人の見えないところで善い行いをするということは、
   運とツキと縁を貯金してくれると僕は信じている。
   目に見えない裏の努力も含めて、その人の実力になるのだと
   僕は思う。



桑田さんは巨人時代の1995年5月24日、ファウルボールにダイビングキャッチを試みて右肘を強打。内側側副靭帯の部分断裂により、手術を余儀なくされます。

   怖い。ピッチャーの宝である右肘にメスを入れたくない。
   もう二度と投げられなくなるのではないか。

そんな不安を払拭するように桑田さんは再起を誓います。
そして、リハビリを始めるときにこう考えたのです。

   怪我をしたときには、リハビリのプロにならなければならない。
   どんなに投げたいと思っても、そこで我慢する。
   それができる人がリハビリのプロだ。

そして単調なリハビリを続け、その中で自分なりの小さな目標をひとつづつ作っていくのです。

   小さな夢を叶えていくことが、
   大きな夢を叶えることにつながるんだ。


さらに本書では、今まで桑田さんを襲った様々な事件についても、その時の偽らない心境を吐露しています。

たとえば、高校進学の時、他の高校から「桑田くんが来てくれるなら、他の部員も全てうちで受け入れる」という申し入れがあったそうですが、桑田さんは自らが決めた「PL学園で野球をする」という意志を曲げずにこの申し入れを拒否。
その結果、担当の先生や友人から裏切り者扱いされ、学校に居場所の無くなった桑田さんは、なんと中学3年生の3学期に転向を余儀なくされるのです。

そんな辛い経験も「いい勉強をさせてもらったな」と今は受け止めている桑田さん。

   人を恨むことは無駄なんだ。
   いつかきっと、この経験は活きてくる。
   いや、活かさないといけないんだ。

そして、日本中を揺るがした運命のドラフト事件。ここでも、桑田さんは「巨人と密約があったかもしれない、友人(清原)を裏切った男」としてのレッテルを貼られてしまう。
その後も、不動産問題や登板日漏洩等のスキャンダル、2度にわたる怪我と大手術…
   
   改めて、書き並べてみると「試練」だらけの野球人生だった。
   ただ、これらの出来事は、僕の人生においてすべて必然だった。
   「目の前に起こったことはすべてパーフェクトだ」

そして、こう続けるのです。

   試練はつらく苦しいことではない。
   次の挑戦へと向かうスタートなのだ。

   現状よりいいものばかりを求めていると、
   不満のみが増殖されていく。
   完璧ばかりを追い求めなければ、
   人生はそれ自体で完璧なのだ。


そんな桑田さんが今一番力を入れているのが少年野球の指導を通じて、真の野球エリートを育成すること。ここでいうエリートとは、一般に言われる「選ばれた優秀な人」というニュアンスとは少し異なります。

   野球もうまくて、「教養」もある。
   自分を律する強い心と、チームを一つにまとめる能力を備える。
   そんな人間力のある人物こそ、真の野球エリートである。

桑田さんは、過去に金の卵が指導者の無知によって無惨につぶされていく例をたくさん見てきました。
たとえば、
  ・成長段階の身体に見合わない、無茶で過酷な練習メニュー
  ・四六時中怒鳴って選手を威嚇する監督やコーチ
  ・無意味な発声ばかりが伝統となるチーム…

桑田さんはこう語ります。

   「叱る」ことは指導になるが、「怒る」ことは
   感情に任せているにすぎない。

   今の日本の野球指導者にお願いしたいこと。
   それは厳しい言い方かもしれないけど、

   「気がついてほしい」ということ。
   選手よりも先に指導者の育成が急務なのだ。


そして、本書で桑田さんは「成長」についても言及しています。

   努力を重ねて、地道に練習して、あるときふっと克服する。
   これをボクは「成長の法則」と呼んでいる。

そして、その法則を自分のものにするために必要なことは、目の前に起きているちょっとしたことに「気づく」能力。そして、その「気づき」を意識的に練習に取り入れることで、ある時一気に開花する…

   この「気づく」というのは準備をしっかりしていれば身につく。
   その準備で一番大事なのは努力。
   努力していない人には、誰も力を貸してくれない。

   もうだめだ!もうつらい!と思っても、怠けたいという
   気持ちを抑えこむ「努力」があればこそ、成長する。
   これが「成長の法則」なのだ。

そんな桑田選手がとても大事にしているのがプロセスです。

   勝ったとしても、きちんとした
   プロセスを経てなければ価値がない。
   たとえ負けたとしても、大事なのは
   そこからどうやって起き上がるかだ。

   裏の努力を積み重ねる人生において、
   マイナスになるものは何ひとつ、ないのだ。

人間「桑田真澄」を知るのにも、とても良い本だと思いますが、それ以上に、私たちの仕事や人生に取り組む姿勢を改めて考えさせる良書だと思います。
興味のある方は、一度手にとってみてはいかがでしょうか。


   世の中には、永遠なものはない。
   だからこそ、一瞬、一瞬を、感性を研ぎ澄まして
   生きていきたい。

                    桑田真澄




さて、昨日の続きです。

効用」だけでは必ずしも「正しさ」を定義できないとき、私たちは「正しい行ない」の基準を何に求めればいいのでしょう?


!!その観点から、次に本書で紹介されるのが「リバタリアニズム(自由至上主義)」。
彼ら(リバタリアン)の中心的主張は、

   どの人間も自由への基本的権利
   - 他人が同じことをする権利を尊重するかぎり、
     みずからが所有するものを使って、みずからが望む
     いかなることも
行うことが許される権利 - を有する。

つまり、選択の自由を尊重することこそが「正しい」とするものですね。
彼らは、すべての行為は個人の意向に任せられるべきものであり、政府が法律として個人に強要するものではない、と主張します。

たとえば、ヘルメットをかぶらずにバイクに乗ることが危険であっても、第三者に危害が及ばず、かつバイクの乗り手が自分で医療費を払える(国に負担をかけない)のであれば、国がヘルメット着用を義務付ける権限はない、といった具合。ガーン

なかなか極端ですが、個人の自由を最優先するリバタリアンにとっては、当然の主張なのでしょう。
しかし、本当に第三者に危害が加わらなければ、何をやってもいいのか?
それを「自由」というのか?(著者は臓器売買や自殺幇助などの例を交えながら、リバタリアンの言う「自由」について問題提起をしていきます)

   ここで私たちは、二つの問題に向き合わざるえなくなる。
   一つは、自由市場でわれわれが下す選択はどこまで
   自由なのかという問題。

   もう一つは、市場では評価されなくても、金では買えない美徳や
   より高級なものは存在するのかという問題である。

ここで、「正しさ」を語るうえでの「自由」の定義がクローズアップされてくるのです。
私たちが「自由」と思っていることは、本当に「自由」なのだろうか?そして、その「自由」とは誰にとっての、そして何にとっての「自由」なのか?

18世紀の哲学者イマヌエル・カントは、「自由」についてこう語ります。

   大多数の人が市場の自由や消費者の選択だと
   考えているものは
真の自由ではない。
   なぜなら、そこで満たされる欲望はそもそも、
   自分自身が選んだものではないからだ。

カントに言わせると、動物と同じように快楽を求め、苦痛を避けようとしているときの人間は、本当の意味では自由に行動しておらず、単に生理的欲求と欲望の奴隷として行動しているだけだというのです。(欲望を満たそうとしているときの行動はすべて、外部から与えられたものを目的としている)えっ

たとえば、アイスクリームを注文するときに、何味にしようかと選択しているのは、実際は自分の好みに一番合った味を見つけようとしているだけ。カントに言わせれば、外部から与えられたものを選んでいるにすぎない、ということになる。(これをカントは「自律」に対し、「他律」と呼んでいる)
カントは、真の自由とは、自らが定めた目的に対する「自律的行動」の中にしかない、と主張するのです。

   自分が定めた法則に従って自律的に行動するとき、
   われわれはその行動のために、その行動を究極の目的として
   行動している。

この自律的に行動する能力こそ、人間に特別な尊厳を与えているものだ、とカントは言います。
そしてカントによれば、ある行動が道徳的(正しさ)かどうかは、その行動がもたらす結果ではなく、その行動を起こす意図で決まるというのです。

   重要なのは、何らかの不純な動機のためではなく、
   そうすることが正しいからという理由で正しい行動をとることだ。


カントの主張も、これはこれでなかなか極端で、例外は存在しない。
たとえ、結果として殺人者の悪行に手を貸すことになったとしても、「(人として正しい行動である)真実を告げる義務」があると言うのです。

   真実を述べることは、相手が誰であっても適用される
   正式の義務だ。

   たとえそれが本人や他者に対して、著しく不利な状況を
   もたらそうとも。


うーん… ガーン
(もっとも、著者はこのカントの主張に対し、「真実ではあるが誤解を招く表現を使うことで、回避できる」としている。
 例えば、犯人から「Aを知らないか?」と問われたとき、「この家の中に隠れています」と答えずに、「1時間前にここからちょっと行ったスーパーで見かけた」と答える。ちょっと詭弁っぽいけど…)


一方、米国の政治哲学者ジョン・ロールズは「正しさ」についてこう主張する。
彼は、全員が「無知のベール」をかぶったまま、つまり自分と他者の能力や立場に関する知識は全く持っていない状態で、全員が選択するものが「正しい原理」であるというのです。特定の目的、愛着、善の構想を脇において、社会的、経済的な条件を一切取り払った原初的な条件の中で選ばれる原理こそが「正しい原理」とする完全な平等思想ですね。
※ロールズは、このような状態で人は、他者に対する嫉妬や優越感を持つことなく合理的に「正しい原理」を選択するであろうと推測し、また誰しも同じ判断を下すことを期待した。

そして、得られた富の分配も、一人の勝者がすべてを得るのではなく、不平等がもっとも不遇な立場にある人の利益を最大にすることだ、と説きます。(格差原理
格差がある場合は、それを是正するような分配の仕方を行うべきだ、ということですね。

   レースの勝者が報酬を得る資格があるのは、
   全員が同じ地点からスタートした時だけだ。

したがって、天賦の才の持ち主には(すでに同じスタート地点に立っていないのだから)、その才能を訓練して伸ばすように促すとともに、その才能が市場で生み出した報酬は共同体全体のものであることを理解してもらうのだ、とロールズは言うのです。


カントとロールズに共通するのは、正しさは善に優先するという点。(カントは、“思いやり”は称賛と奨励に値するが、尊敬には値しない、とまで言っているあせる) しかし、著者はこの考え方に違和感を覚えます。

   正しさを善より優先すべきかどうかという論争は、
   究極的には人間の自由の意味を問う論争である。


うーん、どの理論も帯に身近し、タスキに長し…むっ

正義は功利性や福利を最大限にすることであるという「最大多数の最大幸福」は、①正義と権利を原理ではなく、計算の対象としていることと、②人間のあらゆる善をたった一つの統一した価値基準に当てはめ、平らにならして、個々の質的な違いを考慮しないという2つの問題をはらんでいるし、正義は選択の自由を意味するというリバタリアンロールズの自由に基づく理論は、先の一つめの問題は解決するが、二つめの問題は解決しない。
この2つの見解はいずれもが「正しい行ない」を定義するのに十分ではない、と著者は語ります。

そんな著者が支持するのが「共通善(個人の主観を越えた客観的規範)」を基盤とする第3の見解です。
これは、

   正義には美徳を涵養することと共通善について
   判断することが含まれる。


というもの。
そして、その基盤になるのが公正な社会です。

   公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したり
   するだけでは、
達成できない。
   公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれが
   ともに考え、
避けられない不一致を受け入れられる公共の文化を
   つくりださなくてはいけない。



では、著者の言う共通善に基づく政治哲学は成り立つのでしょうか?
著者は、こう語ります。

   善についての考え方があまりに多様な中で共通善の政治が
   可能だろうか。

   可能だと私は思う。我々は同意できないかもしれない。
   善同士がぶつかって
分かり合えるどころかむしろさらに相互に
   憎み合うような事になるかもしれない。


   「だがやってみなければ分からない」。

最後に著者のコミュニタリアリストとしての熱い主張が響きますね。

本書は、政治哲学というちょっと馴染みのものですが、私たちが普段よく耳にするトピックを豊富に取り入れることで、とても読みやすいものになっています。
そして、改めて自分の日常においても、様々な思い込みや視野の狭さを気づかせてくれる良書でもありました。ニコニコ