さて、昨日の続きです。
「
効用」だけでは必ずしも「正しさ」を定義できないとき、私たちは「正しい行ない」の基準を何に求めればいいのでしょう?
その観点から、次に本書で紹介されるのが「
リバタリアニズム(自由至上主義)」。
彼ら(リバタリアン)の中心的主張は、
どの人間も自由への基本的権利
- 他人が同じことをする権利を尊重するかぎり、
みずからが所有するものを使って、みずからが望む
いかなることも行うことが許される権利 - を有する。
つまり、選択の自由を尊重することこそが「正しい」とするものですね。
彼らは、すべての行為は個人の意向に任せられるべきものであり、政府が法律として個人に強要するものではない、と主張します。
たとえば、ヘルメットをかぶらずにバイクに乗ることが危険であっても、第三者に危害が及ばず、かつバイクの乗り手が自分で医療費を払える(国に負担をかけない)のであれば、国がヘルメット着用を義務付ける権限はない、といった具合。
なかなか極端ですが、個人の自由を最優先するリバタリアンにとっては、当然の主張なのでしょう。
しかし、本当に第三者に危害が加わらなければ、何をやってもいいのか?
それを「
自由」というのか?(著者は臓器売買や自殺幇助などの例を交えながら、リバタリアンの言う「
自由」について問題提起をしていきます)
ここで私たちは、二つの問題に向き合わざるえなくなる。
一つは、自由市場でわれわれが下す選択はどこまで
自由なのかという問題。
もう一つは、市場では評価されなくても、金では買えない美徳や
より高級なものは存在するのかという問題である。
ここで、「正しさ」を語るうえでの「
自由」の定義がクローズアップされてくるのです。
私たちが「自由」と思っていることは、本当に「自由」なのだろうか?そして、その「自由」とは誰にとっての、そして何にとっての「自由」なのか?
18世紀の哲学者
イマヌエル・カントは、「
自由」についてこう語ります。
大多数の人が市場の自由や消費者の選択だと
考えているものは真の自由ではない。
なぜなら、そこで満たされる欲望はそもそも、
自分自身が選んだものではないからだ。
カントに言わせると、動物と同じように快楽を求め、苦痛を避けようとしているときの人間は、本当の意味では自由に行動しておらず、単に生理的欲求と欲望の奴隷として行動しているだけだというのです。(欲望を満たそうとしているときの行動はすべて、外部から与えられたものを目的としている)
たとえば、アイスクリームを注文するときに、何味にしようかと選択しているのは、実際は自分の好みに一番合った味を見つけようとしているだけ。カントに言わせれば、外部から与えられたものを選んでいるにすぎない、ということになる。(これをカントは「自律」に対し、「他律」と呼んでいる)
カントは、真の自由とは、自らが定めた目的に対する「
自律的行動」の中にしかない、と主張するのです。
自分が定めた法則に従って自律的に行動するとき、
われわれはその行動のために、その行動を究極の目的として
行動している。
この自律的に行動する能力こそ、人間に特別な尊厳を与えているものだ、とカントは言います。
そしてカントによれば、ある行動が道徳的(正しさ)かどうかは、その行動がもたらす結果ではなく、その行動を起こす意図で決まるというのです。
重要なのは、何らかの不純な動機のためではなく、
そうすることが正しいからという理由で正しい行動をとることだ。
カントの主張も、これはこれでなかなか極端で、例外は存在しない。
たとえ、結果として殺人者の悪行に手を貸すことになったとしても、「(人として正しい行動である)
真実を告げる義務」があると言うのです。
真実を述べることは、相手が誰であっても適用される
正式の義務だ。
たとえそれが本人や他者に対して、著しく不利な状況を
もたらそうとも。
うーん…
(もっとも、著者はこのカントの主張に対し、「真実ではあるが誤解を招く表現を使うことで、回避できる」としている。
例えば、犯人から「Aを知らないか?」と問われたとき、「この家の中に隠れています」と答えずに、「1時間前にここからちょっと行ったスーパーで見かけた」と答える。ちょっと詭弁っぽいけど…)
一方、米国の政治哲学者
ジョン・ロールズは「正しさ」についてこう主張する。
彼は、全員が「
無知のベール」をかぶったまま、つまり自分と他者の能力や立場に関する知識は全く持っていない状態で、全員が選択するものが「正しい原理」である
※というのです。特定の目的、愛着、善の構想を脇において、社会的、経済的な条件を一切取り払った原初的な条件の中で選ばれる原理こそが「正しい原理」とする完全な平等思想ですね。
※ロールズは、このような状態で人は、他者に対する嫉妬や優越感を持つことなく合理的に「正しい原理」を選択するであろうと推測し、また誰しも同じ判断を下すことを期待した。
そして、得られた富の分配も、一人の勝者がすべてを得るのではなく、不平等がもっとも不遇な立場にある人の利益を最大にすることだ、と説きます。(
格差原理)
格差がある場合は、それを是正するような分配の仕方を行うべきだ、ということですね。
レースの勝者が報酬を得る資格があるのは、
全員が同じ地点からスタートした時だけだ。
したがって、天賦の才の持ち主には(すでに同じスタート地点に立っていないのだから)、その才能を訓練して伸ばすように促すとともに、その才能が市場で生み出した報酬は共同体全体のものであることを理解してもらうのだ、とロールズは言うのです。
カントとロールズに共通するのは、正しさは善に優先するという点。(カントは、
“思いやり”は称賛と奨励に値するが、尊敬には値しない、とまで言っている
) しかし、著者はこの考え方に違和感を覚えます。
正しさを善より優先すべきかどうかという論争は、
究極的には人間の自由の意味を問う論争である。
うーん、どの理論も帯に身近し、タスキに長し…
正義は功利性や福利を最大限にすることであるという「
最大多数の最大幸福」は、①
正義と権利を原理ではなく、計算の対象としていることと、②
人間のあらゆる善をたった一つの統一した価値基準に当てはめ、平らにならして、個々の質的な違いを考慮しないという2つの問題をはらんでいるし、正義は選択の自由を意味するという
リバタリアンや
ロールズの自由に基づく理論は、先の一つめの問題は解決するが、二つめの問題は解決しない。
この2つの見解はいずれもが「正しい行ない」を定義するのに十分ではない、と著者は語ります。
そんな著者が支持するのが「
共通善(個人の主観を越えた客観的規範)」を基盤とする第3の見解です。
これは、
正義には美徳を涵養することと共通善について
判断することが含まれる。
というもの。
そして、その基盤になるのが公正な社会です。
公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したり
するだけでは、達成できない。
公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれが
ともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化を
つくりださなくてはいけない。
では、著者の言う共通善に基づく政治哲学は成り立つのでしょうか?
著者は、こう語ります。
善についての考え方があまりに多様な中で共通善の政治が
可能だろうか。
可能だと私は思う。我々は同意できないかもしれない。
善同士がぶつかって分かり合えるどころかむしろさらに相互に
憎み合うような事になるかもしれない。
「だがやってみなければ分からない」。
最後に著者のコミュニタリアリストとしての熱い主張が響きますね。
本書は、政治哲学というちょっと馴染みのものですが、私たちが普段よく耳にするトピックを豊富に取り入れることで、とても読みやすいものになっています。
そして、改めて自分の日常においても、様々な思い込みや視野の狭さを気づかせてくれる良書でもありました。
マイケル・サンデル Michael J. Sandel
早川書房