「耶馬溪」という拙書を出して以来、中津地方史における
多くの希少な資料をいただいています(^∇^)
整理するだけでも、大変ですが・・・ヽ(゚◇゚ )ノ
雨天により、予定がくるったので「中津の紙生産」について
まとめてみました・・・それにしても雨が多い(ノ_・。)
中津市沖代校区、金手地区・紙生産の歴史
平安期は宇佐神宮領の耕作地でしたが江戸時代、北は蠣瀬、西は万田、東は池永までイバラが生い茂る未墾の荒野で小手田(こてだ)、深町とよばれ字名が残るぐらいの場所でした。
伝説による南北朝時代、懐良親王(後醍醐天皇の皇子が錆矢堂で自刃した戦いあらわす字名、矢抜なども残っています。江戸時代奥平藩は1752年(宝暦2年)に古博多町に銀札所を設置し、藩札の発行を本格的におこないます。(江戸時代藩で発行された紙幣。おもに諸藩が財政窮乏救済のため発行した紙幣) 藩札用紙は流通上の利便性のため、耐用年数を上げるために小型で丈夫な紙を必要とし、偽造防止のために藩札用紙の確保には注意がはらわれます。中津藩は雁皮3に対して楮(こうぞ)を7の割合で混ぜ、さらに米糊を混ぜ合わせ
楮の強さと雁皮のなめらかさと粘りをくわえて耐久性の強い紙に仕上げています。
この藩札紙の生産が武士の次男、三男の手で金手水流(みながれ)地区においておこなわれていたとの話はありますが確認はとれていません。
1843年(天保13年)ころから農民の移住をすすめ、入植者には杉の苗3本を与えたといわれ、昭和初期まで多くあったと言われていますが現在では見受ける事ができません。 一五代藩主奥平昌遭(まさゆき)は積極的に周辺八ヵ村(牛神村、一ッ松村、永添村、宮夫村、宮永村など)の農民に移住をすすめ、無償で土地を与え、開拓をすすめさせ、無税とし、当座資金として銀六百匁を与えました。そのため三軒屋といわれた初期の瀬口氏、植山氏、中尾氏から二十戸になったといわれます。
幸いにも、大井手井堰(三口井堰)からの豊かな水量に恵まれために幕末期に紙漉きが盛んになります。明治期初期には、中折紙・提灯紙・奉書・障子紙などを漉いていたといわれています。明治末期から紙生産の工業化が盛んになり、大正期には生産力・価格・品質で家内工業は消失の危機におちいります。金手の紙漉き生産は高級紙生産を中止し、漉き返しのチリ紙の生産に移行します。昭和初期には協同組合を作り、協同作業でのチリ紙の量産にはいります。1929年(昭和4年)小楠村は中津町に編入し、自動的に金手は中津に編入されます。この年に中津町は中津市になります。
当時は53戸、男子137名、女150名、計287名で53戸の内36戸が紙漉きに従事していました。
今は人気の住宅地ですがこんな歴史もあったのですなぁ( ゚ ▽ ゚ ;)