作陽高校サッカー部。

今、県内外で大きな注目を浴び始めている。

私は、このチームにサッカー以外の部分でも魅力を感じている。


それは、県内の強豪だからではない



「ノムラサッカーとキムラサッカー」


というものに何かを感じているからだ。





何かとは、何なのか。これがひとつの答えになるのではないかと思う。
ぜひ、読んでもらいたい。




作陽サッカー部の歴史を見ていくと、それぞれの年代で個性豊かなキャプテンがいた。




櫻内 光太 




彼もその一人だ。しかし、彼の名前を聞いた時、県内のサッカー関係者は2つのことを思い浮かべるだろう。


1つは、高校選手権ベスト8。

もう1つは、日本中のサッカー関係者のこころを揺るがした試合時のキャプテン。




『青山敏弘の豪快なシュート、誰もが2年連続の選手権だと喜んだ瞬間でした。』


第60回全国高校選手権
帝京、静学を倒し全国に作陽サッカーを知らしめた。


そして、翌年。
作陽は、西野が抜けたとはいえ青山や櫻内らベスト8のメンバーも残り誰もが期待していた。

しかし、新人戦と総体県予選、まさかの敗退。

選手権は、周りからの雑音がある中、挑んだ大会であった。



『僕ら3年生からすれば、新人戦敗退、インターハイ県予選敗退、前年度全国ベスト8を残したチームとは思えない不甲斐ない成績を跳ね除けた瞬間でした。』


そう、再びあの舞台に立つ権利を獲得した。と櫻内が確信した瞬間だった。



しかし、青山のシュートは公式記録にゴールとして載ることはなかった。



『まさに悪夢でした。
運がなかっただけ・・・・・
当時は運だけでは済まされない問題でした。』




櫻内ら3年生は、選手権敗退の結果以上に大きな傷をおった。

大人達の間で繰り広げられるやりとりやマスコミの報道、ネットに出回る憶測。

相手チームのエースの自主退部。

当時者である選手達は「皆」、犠牲者となった。



そして、櫻内らは苦しむ。



「もうサッカーしたくない………」





櫻内は、当時のことを語ってくれた。




『3年間目指して来た【国立への切符】を失っただけではなく、サッカーに対する愛情も失ってしまいました。
今考えれば子供だったと思いますが、当時高校生だった僕らから目標を実力以外の部分で失われたのは非常に大きいものでした。』




大人が事実を認めたところで、その傷は決して癒されるものではなかった。
下手をすれば、一生サッカーから離れる生き方をしていくことになったのかもしれない。

しかし、サッカーの神様は彼等に一人の指導者(おとな)を与えていた。

1人の指導者は父親が初めて子どもにボールを与えるように彼等にゆっくり語りかけた。




『そんな僕らがどうやってサッカーに対する愛情を取り戻していったのか。


野村先生の僕達に対する配慮でした。

本来なら選手権で負けた時点で新チームに切り替わります。でも、サッカーの愛情を取り戻すため、新チームに切り替えることなく、練習を続けてくれました。

練習といっても今までしてきた厳しい練習ではなく、楽しい練習ばかりでした。

多くの方が経験あると思いますが、一つのボールを無邪気に追いかけまわる楽しさ。


サッカーを始めた頃、夜遅くまでボールを蹴り続けても飽きないあの楽しさが練習には、ありました。


一つのボールを皆で追いかけ誰に指示される訳でもなく、ゴールネットを揺らす為だけに11人でボールを回す。もちろん途中で取られたりしますが取られた人から守備をする。

サッカーにおいて当たり前のプレーが出来るようになりました。

なぜ当たり前のプレーが出来るようになっていったかというと、サッカーを始めた理由を少しずつ思い出していったからだと思います。


サッカーが好きだから、サッカーが楽しいからという原点を僕達は思い出すことが出来たからこそ、ボールを追いかける事が出来たと思います。

まさに野村マジックでした。』




野村監督が言う「生涯スポーツとしてのサッカー」
その前提にはサッカーを楽しむことがある。

以前、野村監督と共に作陽を支える李コーチが練習中に叫んでいたことがある。


「お前らサッカー楽しんでいるか?」


京都パープルサンガの池松も作陽を語る中で「楽しいサッカー」をキーワードにしている。

櫻内らは、再び「楽しいサッカー」「サッカーを楽しむ」を思い出した。


櫻内は同志社に進学後、サッカーを続け先日行われた大学リーグにも出場している。


野村監督がいなかったら、彼等のその後はどうなっていたのだろうか。


私は、野村監督の凄さは采配や技術育成など以外に感じることがある。

挨拶ができない生徒には、本気で怒る。試合中に仲間への声かけができない子には、「帰りに一言も話すな」と怒る。

ある人が言っていた。

「最近の作陽の生徒は、国体でも他の学校の生徒の良き手本になっている。周りへの気配りや感謝、指導者がサッカーの中で教えなければいけないことだ。」



櫻内らの気持ちを理解するのは、不可能に近い。

良い経験という言葉にするのも、難しいぐらいのことだ。

しかし、櫻内はいつも話してくれる。サッカーの楽しさを。

当時のメンバーがサッカーを続けていること。
それは、本当に大きな意味を持っている。


一度壊してしまいそうになった宝を守った大人達がいたこと。当時のことと一緒に絶対に忘れてはいけない。








櫻内と接すると、サッカーに取り組む真摯な様子が見えてくる。

そんな櫻内だからこそ、今でも作陽や先輩後輩を心配し岡山のサッカー界も気にしている。


『今、岡山サッカー界は大きな変革の時期にあると思います。本気でプロチームを目指すチームが出来るなど、大きな波に向かって多くの人が関わって頑張っておられると思います。

それも皆サッカーが好きだからという原点があるはずです。

今後大きな壁にあたると思います、恐縮ですが、そんな時こそ原点に返り純粋にサッカーの楽しさを思い出してもらいたいです。
もちろん、母校である作陽高校には僕達が果たせなかった、ベスト4に進出し国立でプレーしてもらいたいです。その先には全国優勝もきっと見えるはずです。

僕の人生は作陽高校に入学し大きく変わったと思っています。寮生活で得た体験は今後の人生においてもかならず役に立つと思っていますし、サッカーにおいても良い指導者の人達に恵まれ僕のサッカー感は広がりました。

そんな素晴らしい体験を得ることが出来た作陽、岡山の為に少しでも恩返しが出来たならと思い今回語らせて頂きました。』







櫻内は言う。


「キャプテンとして何もできなかった。あの瞬間、あの時のみんなの顔を思い出すとやっぱり心残りですね。違うことが出来たのではないかと感じてます。」


櫻内は立派な主将であったと思う。大人達は、20歳にもなっていない青年が背負った重みを本当に理解することができていたのだろうか。


最初、櫻内から上記の内容を語られた時、実は躊躇した。しかし、岡山のサッカーの素晴らしさを語る上では、こんな素晴らしい指導者(大人)がいて、少年がいて、青年がいることを伝えなければならないと思った。
それは、いくら私が言葉を並べようと不可能なことだ。

野村監督が櫻内に次のようなことを話している。



「強いチームというのは、結果を残すチームよりも応援してくれる人が多いチームほど、強いチームなんだ」



サッカーだけでなく、普段の生活からしっかりしなさい。ということだろう。

結果だけで判断されがちな世界だが、どんなに素晴らしい実績や選手であろうと、年をとった時にサッカーから離れていれば何にもならない。

選手や審判や指導者だけでなく、子どもと共にスタジアムに応援に行ったり常にサッカーと何処かで繋がる人間。

そんな人間が増えなければ、いくら強いチームをつくり一時期の上手い選手を生んだとしても何も変わることはない。





藤井一昌(ファジアーノ)、福森慎太郎(ファジアーノ)は、いつも共通して話すことがある。

「子供たちのため」「応援してくれる人のため」「岡山のために」


彼らは、どんな時でも感謝や挨拶を忘れはしない。それは、作陽の伝統だ。


櫻内光太も作陽サッカーを受け継いだ男である。






今回のことを話す上で彼は言ってくれた。

「自分の人生大きく変わったのは岡山に行ってからです。その岡山のサッカーの為に少しでも恩返し出来るのであれば、何もいりません。このような場を設けていただき感謝したいです。ありがとうございました」


最後に記しておきたい。




櫻内という人間性に惚れてからやりとりするようになった。後輩思いであり、仲間思いであり、先輩への感謝・・・彼を見ていると素直にサッカーの素晴らしさを知ることができる。


サッカーを通して作陽を通して、櫻内と知り合えた事を感謝する。







過去があり現在がある・・・・・・そして未来がある。



何年後、いつになるかわからないが、当時の両校の選手や関係者が再び再会する日がくればいいなと思う。

その時、岡山のサッカーはどんな風に成長しているのだろうか。


きっと………。