いわゆる「精神世界」と

私たちのヒーリングは何が違うのか?


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ニシカワの家は商売をしていたので、お寺さんや神主や占い師など
いろいろ遭遇してきた。新興宗教もサイキッカーもいた。

でも、どれもすごい人はいたけど
「参りました」とは思わなかった。

えらっそうだからだ。

見えないものが見えるだけで、上から目線の人とか。

自分は見えないのに、組織がでかいから上から目線の幹部とか。

「この家はお化け屋敷じゃないか」と言って脅す人とか。

そう思っていたら、大先生のコラムには

「能力は能力ってだけで、偉くもなんともない。
 オーラが見えたからって、その人が偉いわけでもなく
 見えたものだって、その人のフィルターを通してみた世界に
すぎないから、真実であるとも限らない。」

というようなことが書いてあって、この人かっけ~~って思った。



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大先生の視点は「当たり前の日常」に注がれていた。


風呂が気持ちいいこと。

お茶が美味しいこと。

触ったらうれしいこと。


普通のことだけど、心も体も健康じゃないと
普通の感覚はわからない。

宇宙と交信できることより
オーラが見えることより
玉露をおいしく淹れて、それを味わえる日常と感性が大事。

そういうメッセージだと思った。

今ある生活がもっと豊かで鮮やかになっていくことが大事。

いない人や過去世じゃなく、今いる人たちとどんだけ遊べるかが大事。

特殊能力がほしくて感覚を開くのではない、というコンセプトが
私には「まいりました」だった。


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だから、えらっそうな人は一人もいない。

といって、ストイックに自分を閉じたり固めたりするのも違う。

あふれる感情を押さえこめ、というのでもない。

正直な自分を認め、そこから志に向かって、なりたい自分になっていこう。
自分の人生を満喫して、肉体を満喫して、交流を満喫して
地球人を満喫していこう。


そんなふうに思える。

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ニシカワの母は、苦労人だった。働きものだった。
夫のために、親のために、子供のために、会社のために・・・
そうやって何十年も生きてきたけど、それはいつしか大きな怒りと被害者意識にも
つながっていた。

被害者意識は体に大きなダメージを与え、激痛を繰り返した。
それを脱するには悟るしかない、と言われた。

「西川さんにはわかっているでしょう?ちゃんとお母さんに伝えなさい」
と言われた。実はそんな気がしていたけど、あまりにも重労働だから逃げていた。
でも、死にそうになっている母に、それしか方法がないと言われればやるしかなかった。


「苦労してきてくれたお母さんに、失礼は承知で言いますが、
『**のため』というのは『**のせいで』と同じだと思う。
自分のために自分がやったことなんだよ。」

「15歳から働いて、苦労して苦労して(中略)そんな全部を、自分が選んでいたというの?!」

それは、3日間の死闘だった。私も全力で毎日話した。聞いた。
夫に対する怒り、貧乏時代の忍耐、親に対する恨み・・・噴出祭り。

救急車まで出るほどの激痛。病院では原因不明。


自分を見つめ、認めるというのは易しいことではない。
そんな状況の母がお茶の味がわかったとは思えない。

母は満身創痍で越えた。
そして「自分のために、自分がやりたいように、家族を支える」というスタンスを理解した。

激痛はおさまっていった。


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神様がなんとかできた話ではない。

口当たりのいい精神世界の領域で悟れるようなことではない。

真剣に生きて、命がけで己の人生を楽しもうとする世界。

その結果が、心から発する


「ああ、お茶おいしい♪」


なんだと思う。




自分という人間を心も体も味わいつくすにはもってこいのツール。

それがヒーリングだと、私は思っている。