この度の創作の軌跡として、ここにひとつの記録を残そうと思う。
この連休の殆どを私は高熱の中で過ごした。
本来ならば完成している頃であり、急務であるにも関わらず、私はこの体験を記録することを優先するのである。

何が私にそうさせるのか。
にんじんが、しみじみと美しかったのだ。
それをこれから書き留めようと思う。
(体力温存のため丁寧文を避けます。少し読みにくいかもしれませんが、ご理解いただけると幸いです)


この高熱によって身体はたいそう辛かったのであるが、心は幸せに満ち溢れていた。
どこまでも広がる確かな安心感の上に寝そべり、すべてはそれで充分であると囁いているかのような空気に包まれて、私はどこまでもどこまでも柔らかくなり、いつしか熱と痛みに疼く身体は身体として感じながらも、それにとらわれない自由と融合したような心具合であった。
私はいつもとは身体の感覚が違うことに気がついた。
もっと正確に言うならば、知覚の鮮度が違っていた。
シーツに触れる指先の感覚やその音、呼吸によって空気に触れる感覚、音、呼吸に伴う身体の動きとその感覚等が新鮮かつ鮮明であった。
そしてそれらの奥には穏やかな喜びが横たわっていた。

昨日、ようやく高熱が翳りを見せ始めた。
私は台所の籠の中にあるにんじんを蒸して食べようと思った。
にんじんを洗っていると、それを初めて触ったもののように不思議に感じ、水とにんじんと私の手の距離が変わりながらも連続する様をまた不思議で面白いものに感じた。
こんなふうににんじんの最外皮のみを削ってくれた人(どのような機械を使ってか)がいる、その方法を考えた人がいる、その機械を作った人がいる……なんという恩恵であろうか。
私は次に包丁を握り、その質感と重みと温度の違いに面白さを感じ、切る手応えに新鮮な驚きを覚えた。
蒸す準備をして火にかけ、音に注意しつつ傍らに座って待った。
なんと面白い音であろう。
驚きながらも笑みがこぼれた。
火を止めると安心して少し寝てしまったようだった。
目覚めた私は器ににんじんをとり、いただきます、と手を合わせた。
私はしばらくの間、にんじんに手をつけられなかった。

あまりにも美しかった。

どのように美しかったのかを私は言葉で表現できない。
美しいという言葉があって本当によかったと思う。
私はしみじみと見つめていたくなり、実際、そうしていた。
見ることに満足したので口に入れた。
味も匂いも熱のせいかよくわからなかった。
しかし、舌の上で柔らかく蒸されたにんじんが皮側の部分とそれ以外に分かれたのを感じ、注意深くその違いを楽しんだ。
この違うものが同じものであるということにも驚いた。
そして、にんじんに関わるこれらの一連の驚きや面白さには常に穏やかな喜びが伴った。

それから今迄、私はこのにんじんの美について考えていた。
これまでの人生で、私は何度もにんじんを見、料理し、食べてきた。
しかし、こんなふうにしみじみとした美を感じたのは初めてのことである。

一体、何がかようににんじんを美しくしたのか。
あるいは、なぜ、あのにんじんだけが、そうもしみじみとした美しさを湛えていたのか。

眠る寸前、起きた直後にも、このにんじんの美が共にあったのであるから、寝ている間もそうであったのだろうと思う。
先程、私はその答えをみつけたと思う。
これもまた同じく穏やかな喜びを伴って心に浮かんできたものである。

いのちの共鳴

これではあるまいか。
そこにはひとつの輝くにんじんのいのちがあり、もう一つの輝くいのちとして私(普段、「私」と呼んでいる知覚する主体)があった、ということだ。
にんじんの方は今迄もおそらく同じようにいのちを輝かせていたのであろうが、この知覚する主体の方に、いのちの輝きを遮るものが靄のように覆っており、輝くいのちといのちの出会いと共鳴を鈍いものにしていたと思われる。
この靄の割合が急激に減ったことで、より鮮明に知覚したと考えると滑らかである。
そうであるならば、この、幸せに満ち溢れていると知覚した主体の穏やかな喜びは、今迄も常にあったものであるといえるわけであるが、しかしそれは「自分の受け取り方云々、周りは自分の鏡云々」などという言葉で表現されるものともまた少し違うような気がする。
違う気がするのだけれども、更にこれを進めていくと、同じものにも思われ、言語化することが難しい。
よって、これに関する言語的表現はここで打ち切ることとする。

ところで、ここで、今の私にとって、愛とは何か、ということも書いておきたい。
なぜならそれは私が、作品、ひいては人生の主軸に据えているものだからである。
愛は、とうてい、それこそ言語化するには無理があることは承知であるが、ここでそれを試みてみる。
今の私にとって、大部分を占めている切り口から捉えたものを言語化すると、

今迄もあり、これからもあり続けるであろう普遍的なもの、ということができると思う。
少なくとも私は願いを込めてそう呼ぶ。

ここで先程の穏やかな喜びを再び俎上に載せてみよう。
そうして、上記に従い、私はこれを愛と呼ぶこととする。

また少し熱が出てきたのか文章にすることにおいての精彩を欠いてきたように思われるので、このあたりで突然になることを承知で締めようと思う。

皮とそれ以外のもの全体でにんじんであったように、
靄のようなものと、それ以外のもの全体で人間であることは、
そうであっても美しくなりえるのかもしれない。
確かなのは、どのようであってもそれは愛と切り離すことはできない、ということだ


ほか、大切なこと
にんじんと知覚の主体が出会い共鳴するときのいのちの輝きを光に喩えるならば、靄が晴れれば晴れるほど光は強くなり、そこでの知覚度合いも鮮烈になるのではあるまいか。
にんじんをアートに置き換えた時、アートの光量によって靄の増減があるのかも興味深い。要研究。

また生きることの目的によってのみ動きを進める中では、人は肉体を継続させてはいても、そのいのちを満ち満ちさせる存在には至っていないと推測できる
とすると、ここでは何が起こっているのか。何が起こって/起こらなくて、そこに至らないのか。
要研究。

いのちの共鳴の場面ではもっと詳しくみると何が起こっているのか。
お互いが違うように思われていても同じであることの発見をしている、とも言えるか
その時、知覚の主体はどこにあるのか
そもそも、それは主体として残り得るか
にんじんではなく同じように靄をもついのちとの場合ではどうか


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完成まで残ってたらいいなと思う現時点でのお気に入り部分