新・ユートピア数歩手前からの便り -108ページ目

ヌーボー・グループ

「あの人たちは、やっぱり東京の文化人です。近ごろ、新聞や雑誌などによく出てくる“ヌーボー・グループ”のメンバーですよ」

「“ヌーボー・グループ”って何だい?」

今西は知らなかった。

「“新しき群れ”とでも言うのでしょうかね、進歩的な若い文化人ばかりで会を組織しているのです」

「へえ、“新しき群れ”か。ぼくらの若い時には、“新しき村”というのがあったがね」

「ああ、武者小路さんのですね。これはムラではなくてムレですよ」

「どういうムレだね?」

「いろんな人が集まっているんです。いわば進歩的な意見を持った若い世代の集まりと言った方がいいでしょうか。作曲家もいれば、学者もいるし、小説家、劇作家、音楽家、映画関係者、ジャーナリスト、詩人、いろいろですよ」

(中略)

「なんとか言ったね。ヌーボー……」

「“ヌーボー・グループ”です」

「ヌーボーというのはおもしろくて覚えやすい。連中はまさかそんなのんき者の集まりではないだろうな?」

「どうして、どうして。なかなか俊敏な連中ばかりですよ。みんな次の世代を背負っているような意識の強い人たちばかりです」

「ぼくらの小さいときにも、そんなことを叔父から聞いたな。叔父は三文小説を書いていた。いや、まだ子供の時分だったがね。さっきの、“新しき村”もそうだったが」

「ああ、“白樺”の人たちですね」

と、吉村の方が知っていた。

「あの時もそうでしたが、近ごろはもっと個性的な色彩が強いのです。白樺派は、有島さんだとか、武者小路さんだとかいった個性の強い人もいましたが、一体にそのグループは平均した色合いでしたね。今の方がそういう点では、各自の個性の強さがそのまま集団の特徴となっているのです。それに、白樺のころは人道主義などと言って、文芸活動に限られていましたが、近ごろでは、どんどん、政治の方に活発な発言をしているようですね」

「やっぱり時代の違いだね」

(松本清張「砂の器」)

私にはかつて感動した作品を折に触れて読み返すという奇妙な性癖がありますが、最近も何となく「砂の器」の世界に浸りたい気分になりました。それで久し振りに読み返し始めると、図らずも上記の箇所に遭遇し、ストーリィの傍流で色々と考える結果になったのです。それは単に新しき村とか武者小路という言葉が出てきたからだけではなく、「新しき村」から「新しき群れ」への流れに我々が当面目指すべき運動のヒントがあるように感じたからです。尤も、私は「群れ」という言葉は好きではありませんが、ムラとムレの違いを定住を軸にして理解すれば、個性的な個人の共働態は「新しき群れ」と表現した方が現実に即しているのかもしれません。

勿論、新しき村もその本来の姿は個性的な人間の集まりである筈です。しかし、現実問題として、個性的な人間が生活共同体を営むことにはやはり無理があるというのが私の偽らざる実感です。私は以前に「(主人に忠実な)犬の村」と「(主人を持たぬ自由気儘な)猫の村」という対比について述べたことがありますが、猫はムラを必要とはしないでしょう。さりとて個々バラバラの生活に終始するのも芸のない話であり、そこには共同体とは質的に異なる共働態の次元が必要になると思われます。その新しき次元を「新しき群れ」と称することには依然として抵抗があるものの、とにかく様々な関心を抱く個性的な人たちが自由な雰囲気で集まるということが重要です。そうしたムレが直ちに祝祭共働態へと発展することはあり得ないにしても、一つの出発点にはなるでしょう。何とかして、その出発点だけでも実現したいものです。

我である我々・我々である我

ユートピア運動の目的地は祝祭共働態であり、それを実現するのは「我である我々・我々である我」に他なりません。私はこれを「我々の理想」だと理解していますが、「それはお前個人の夢にすぎないじゃないか」という思いを抱く方々も少なくないでしょう。つまり、祝祭共働態としてのユートピアの実現と言っても、それは実質的に私個人のパラダイス運動にすぎない、という批判です。確かに「我々の理想」であるユートピアと「個人の夢」であるパラダイスの質的差異を明確に実感することは難しいかもしれません。しかし、その差異は厳然としてあると思います。


そもそも我々とは何か。言うまでもなく、一人称複数ですが、一人称が複数あるというのはよく考えてみれば奇妙なことです。私は一人称、あなたは二人称、彼・彼女は三人称ですが、これらは全て私を中心にした人称です。当然のこと乍ら、あなたにも彼・彼女にも一人称の次元があります。そうしたそれぞれの一人称の次元――私自身の一人称、あなた自身の一人称、彼・彼女自身の一人称――を統合する者が我々だと考えられますが、問題はその統合の意味です。


フォイエルバッハは人間の類的本質を言い、マルクスによれば人間は「社会的諸関係の綜合」です。それらは様々に解釈できますが、煎じ詰めればヘーゲルの「我である我々・我々である我」に遡れるのではないでしょうか。ただし、その概念の学問的精査は私の能力を超えるので自重しますが、私は単純に「我々は個々の我の共働態だ」と考えています。端的に、「我々の次元」が祝祭共働態だと言えるかもしれません。従って、個々の我が我々において統合されると言う時、それは決して単なる統一ではなく、言わば「同一性と差異性の同一性」、すなわち個々の差異性を孕んだ同一性だと理解できます。勿論、個々の差異性を孕んでいる以上、その同一性は不断に更なる段階の同一性へと開かれており、我々の祝祭共働態は個々の我の螺旋運動によって構成されていると言えるでしょう。そこには如何なる意味においても全体主義的な要素はあり得ません。


しかし乍ら、そのように「我である我々・我々である我」を理解したところで、例えばキルケゴールなら「真に主体的な我は決して我々に統合されはしない!」と主張するでしょう。彼によれば、精神としての自己は自己自身に関係する一つの関係であり、それは神という絶対者に透明に関係することによって真の自己になります。そこには明らかに垂直の次元が切り拓かれていますが、私としてはそのような単独者としての我(自己)が共働することを通じてこそ「我々の次元」、すなわち祝祭共働態が実現していくものと理解したいのです。尤も、こうなると堂々巡りの議論に陥る他はなく、もはや理屈で説明することは不可能でしょう。やはり「我である我々・我々である我」を核とした祝祭共働態を目指すユートピア運動のリアリティは物語の展開としてのみ実感されると思われます。

ユートピア運動(10)

「我々の問題」とは何か。沖縄で生活していない私にとって、米軍基地の集中は私「個人の問題」にはなり得ません。「個人の問題」としては私自身の利害に殆ど関係がないからです。敢えて利害を問えば、むしろ沖縄に米軍基地が一極集中していた方が好ましいと言えるでしょう。私個人にとっては私の周囲さえ安全で静かであればいいのです。しかし、このような利己主義が許される筈はありません。たとい許されたとしても、「自分にさえ害が及ばなければいい」というような醜悪な生き方を自らに臆面もなく許容できる人はそんなにはいないと思われます。では、私個人は如何にして沖縄の人々の苦しみを「我々の問題」と成し得るのでしょうか。人としての当然の感情移入を別とすれば、個人の利害を超えて日本人の地平に立つことによってでしょう。しかし、それは日本人としての利害で判断することにすぎないのではないか。結局、日本人としての「我々の問題」も実質的にはそれぞれの日本人の「個人の問題」に収斂していくのではないか。


もう一つ、同様の例について考えてみたいと思います。在日ではない私にとって、朝鮮半島の統一は私「個人の問題」にはなり得ません。のこのこ人道主義者ぶって首を突っ込んでも「当事者でもない人間が口出しするな!」と追い払われるのが関の山です。では、私は朝鮮半島の統一を「我々の問題」とすることができないのでしょうか。先と同じ論理を踏襲すれば、私でも日本人としての利害からそこに「我々の問題」を見出すことは可能です。つまり、日本人としての利害から朝鮮半島の安定を願い、当事者たちの「個人の問題」を後方支援する、ということです。しかし、それでは真の意味での「我々の問題」とは見做せません。


さて、世界には様々な問題が渦巻いており、同様の例は枚挙に遑がないでしょう。そして、遠い異国の経済危機でさえ日本経済に如実に影響を及ぼすというグローバリゼイションにおいては、世界に生じる全ての問題が「我々の問題」になると言えます。しかし、くどいようですが(また、これが最も理解しづらい点でしょうが)、日本の利害の延長線上にある世界の問題は本来の「我々の問題」ではないと思うのです。それは煎じ詰めれば「個人の問題」に他ならず、実質的には個人の夢の追求であるパラダイス運動の一環として考えるべきものです。では、真の意味での「我々の問題」とは何か。沖縄の問題にせよ、朝鮮半島の問題にせよ、あるいは今回の大雨被害で家を失った人たちの問題にせよ、私がそれをキレイゴトとしてではなく、しかも個人の利害を超越して取り組むことのできる「我々の問題」と成し得るのは如何にして可能になるのか。


残念乍ら、未だその具体的な可能性について述べることはできません。ただ抽象的な可能性の提示だけでお許し戴けるなら、真の「我々の問題」、すなわちユートピア運動としての「我々の問題」は「我である我々・我々である我の問題」だと言えるでしょう。それは「垂直の次元を切り拓く」ということと殆ど同義です。つまり、「我々の問題」を水平の次元だけで理解しようとする限り、それはどうしても「個人の問題」(我の問題)の延長線上でしか考えられない、ということです。しかし、甚だ抽象的にしか聞こえないでしょうが、垂直の次元が切り拓かれるなら、私は「我である我々・我々である我」の地平に立つことになり、理想を求める全ての人々の問題を「我々の問題」と見做し得るでしょう。言うまでもなく、ここで問われるべきは「我である我々・我々である我」の具体相ですが、多くの方はカントの世界市民を連想されるのではないかと拝察されます。それも重要な可能性として考慮すべきですが、より直接的には「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というイエスの隣人愛を無視することはできません。すなわち、垂直の次元を宗教的次元として理解することは可能であり、そこで「我である我々・我々である我」という「個即全・全即個」の理想を実現していくことこそユートピア運動の本質と言えるのです。


しかし、ここまで書いてきて思うことは、私はやはりキレイゴトしか語っていないのではないかという懸念です。「我である我々・我々である我」にせよ、「個即全・全即個」にせよ、それは余りにも抽象的すぎて、その理想を実現することがユートピア運動だと言われても、具体的にどんなことをすればいいのか、皆目見当がつかないでしょう。実際、その運動はせいぜいハンナ・アレントの言う公的領域の復権程度にしか理解されないと思われます。勿論、それも無関係ではありませんが、私の念頭にはもっと泥臭い運動があります。少なくとも、私にとって「我々の問題」は如何なる意味においても滅私奉公的なものではなく、あくまでも「個人の問題」(我の問題)が逆対応するものに他なりません。しかし、その逆対応は「個人の問題」の延長線上ということと一体どう違うのか。それは偏に「我である我々・我々である我」もしくは「個即全・全即個」のリアリティによってのみ説明されるでしょう。最後にその点について語り、この抽象的な議論に幕を閉じたいと思います。

ユートピア運動(9)

「もし作者が自分の書いていることを充分に知っていて、分かっていることを省略しても、本当のことを書いているかぎり、読者は作者が書いたのと同様、強い印象を受けるだろう。知らないからといって省略すると、作品の中に空白が生まれるだけだ」とはヘミングウェイの言葉ですが、この拙い便りに生じている空白は正に私自身がユートピアについて充分理解していないことによるものです。「なんて無責任な!」と怒られるかもしれませんが、私は当初からこの便りを自分が理解しているユートピアについての報告として書いているつもりはありません。そこにウィリアム・モリスの「ユートピア便り」(News from Nowhere)との根源的な違いがあるわけですが、「ユートピア数歩手前からの便り」とは言わば「未だないユートピアを摸索する過程での便り」(News towards Nowhere)なのです。では、何故充分理解してもいないユートピアについて書き続けるのか。それは人間の究極の理想としてはアルカディアもパラダイスも不充分だと思わざるを得ないからです。ややカッコつけて言えば、そうした否定の意志によって私は性懲りもなくユートピアを求め続けているのです。


さて、すでに述べたように、一般的に「人生はパラダイス運動だ」と言えます。つまり、個々人それぞれの夢の追求であり、それは「個人の問題」です。ただし、「個人の問題」の延長線上に「我々の問題」が現れてくることがあります。例えば(余り好い例ではありませんが)、歌手になりたいという夢を抱く人がいるとします。その夢を実現するパラダイス運動は純粋にその人「個人の問題」です。しかし、その夢の実現がその人の才能とか運以外の要因、何らかの社会的差別によって阻まれるならば、それは「我々の問題」になるでしょう。と言うのも、そうした差別は私自身の夢の障害にもなりかねないからです。ただし、こうした「我々の問題」は個々のパラダイス運動をバックアップするものにすぎず、中心はあくまでも「個人の問題」です。言い換えれば、「個人の問題」の延長線上に現れる「我々の問題」を規定しているのは結局のところ個人の利害でしかないのです。この意味において、パラダイス運動を貫いているのはやはり個人主義だと言わざるを得ず、そこには本来の「我々の問題」がないと思うわけです。


勿論、「我々の問題」などなくても一向に構わない、という人が大半なのかもしれません。しかし、もしそうなら、人間世界は個々のパラダイス運動の集積にすぎず、そこには人間の理想はあり得ないことになります。それが現実なら仕方ありませんが、私個人としてはここで理想世界の追求を断念するわけにはいきません。では、理想世界とは何か。それは「我々の問題」が展開する世界に他なりません。「個々人の夢の追求」がパラダイス運動だとすれば、ユートピア運動は「我々の理想の追求」なのです。言うまでもなく、こうした言葉にも空白が目立ちますが、そうした空白を皆さん共に徐々に埋めていければ幸いです。

ユートピア運動(8)

おそらく、私の語っていることは半分も理解されていないと思います。勿論、それは私の書き方が拙いせいであり、理解不能の責任は全て私自身にあります。しかし、私は何も問題を殊更に複雑化しようとしているわけではありません。そもそもこの便りの出発点は哲学の実践に他ならず、不可解な理屈を捏ね回すことではないのです。では、私の求める哲学の実践とは何か。それはユートピア運動です。そこにこそ「我々の問題」があると思うからです。


さて、私は昨日パラダイス運動には「我々の問題」はないと明言しました。果たして、これは理解されるでしょうか。パラダイス運動を水平の次元における個人の夢の追求と解するならば、そこに生じてくる様々な障害は基本的に「個人の問題」です。しかし、一般的には「個人の問題」の延長線上にも「我々の問題」があると考えられます。例えば、最近の豪雨の被害によって家を流されて途方に暮れている人の絶望は「個人の問題」でしょうか。あるいは、自然災害に限らず、政治や経済の理由で夢の実現が阻まれている人の苦しみは「個人の問題」でしょうか。言うまでもなく、それらも「我々の問題」と認識すべきでしょう。すなわち、それぞれのパラダイス運動が展開する水平の次元にも「我々の問題」があるのは明らかです。しかし乍ら、そうした「個人の問題」の延長線上にある「我々の問題」を決して無視するわけではありませんが、私がユートピア運動として求めているのはあくまでも「個人の問題」の次元を超える「我々の問題」なのです。ただし、その超越は「個人の問題」を否定するということとは全く異なります。私的領域よりも公的領域を重視せよ、ということでもありません。やはり問題の核心は共生の本質にあります。

ユートピア運動(7)

「他人の人生についてまであれこれ心配するには及ばない。お前は自分自身の夢だけを追求していればいいのだ。他人様(ひとさま)の人生の意味まで考えようとするのは、むしろ傲慢なことではないか。実におこがましい!」――私は自分の傍らにそのように批判し続けるもう一人の私がいることを常に意識しています。確かに、人はそれぞれ自分の夢の追求だけに集中していればいいのかもしれません。少なくとも、他人の夢にまで口出しする権利がないのは当然です。しかし、私がここで問題にしようとしているのはそういうことではなく、あくまでも自他共生という理想についてなのです。これは他人の夢について心配することとは全く次元の異なる問題です。


率直に言って、エゴイストの私には他人がその夢を成就しようがしまいが、そんなことはどうでもいいことです。先のワールドカップにおいても、サッカーに余り関心のない私は日本チームにそれほど感情移入できませんでした。ところが、熱烈なサッカーファンであれば日本チームに感情移入するのは極めて自然です。つまり、彼らにとって日本チームの勝敗は正に「我々の問題」なのです。これもまた、一つの共生のかたちだと言えますが、私の問題の対象ではありません。と言うのも、そのような水平の次元における他人への感情移入による共生は単なる同化にすぎず、真の意味での自他共生ではないからです。では、自他共生の真の意味とは何か。


例えば、或る人はAという夢を追求する。別の人はBという夢を追求する。そのように様々な夢の追求が錯綜する中で、共同できる夢もあれば、競争を余儀なくされる夢もあるでしょう。しかし、共同であれ競争であれ、そこに展開する夢の追求は基本的に「個人の問題」です。逆に言えば、そこには真の意味での「我々の問題」がありません。確かに、共同プロジェクトとか新製品の開発競争などには「我々の問題」があるように見えます。しかし、それは見かけにすぎず、「我々の問題」の本質にまで達していないのではないでしょうか。未だ言葉が足りませんが、私はパラダイス運動の次元には「我々の問題」はないと思っています。

ユートピア運動(6)

もし理想が彼岸のイデアにすぎないのなら、私はむしろ此岸での夢の実現に全人生を賭けることの方を選びます。勿論、どんなに真剣かつ情熱的に取り組んでも、夢が成就するとは限りません。むしろ、殆どの人は夢の挫折から新たに生きることを余儀なくされるでしょう。そして、大抵の場合、より小さな夢で妥協するか、さもなければ夢を自分の子どもを始めとする他人に託したりします。尤も、真面目な人であれば、全人生を賭けた夢の挫折を以て自らの人生にも終止符を打つかもしれません。しかし、殉じるに足るほどの絶対的な夢は稀であり、やはり底辺と頂点の間で夢をめぐる流転に一喜一憂しながら過ごしていくのが一般的な人生だと思われます。私はここにパラダイス運動の典型(平均的なかたち)を見出すわけですが、誤解のないように改めて断っておくならば、この運動に終始する人生を批判するのが私の目的ではありません。たとい批判を試みても、人間に欲望が尽きない限り、パラダイス運動の根絶は不可能でしょう。とは言え、歯止めのきかぬ自由競争社会をもたらすパラダイス運動には原理的な問題があります。それは人間を底辺と頂点に引き裂く競争原理をめぐる問題です。


すでに述べたように、底辺と頂点は個々人の自己責任によって決まるものと考えられます。勝者がいれば敗者もいるのは自然の理であり、その原理そのものに問題を見出す人は殆どいないでしょう。ただし、今の社会には全てを個人の自己責任に帰すことのできぬ構造もしくは制度上の欠陥があることは明白であり、その点の是正が必要になることは言うまでもありません。では、不平等な競争という欠陥が是正され、真に平等かつ正当な自由競争社会が実現するなら、それを以て「我々の問題」は消滅するのでしょうか。言い換えれば、夢の追求という「個人の問題」を超える次元に「我々の問題」を見出すことができるのでしょうか。もし見出すことができるとすれば、それは「競争の夢」に対する「共生の理想」という問題に収斂していくものと思われます。自他共生の理想こそ「我々の問題」の極北だからです。

ユートピア運動(5)

率直に言って、夢の次元から理想の次元への突破を求める人はそんなに多くはないでしょう。私は理想の次元を徒に特権化・特別視するつもりは全くありませんが、それが未だない「新しき次元」であることは厳然たる事実です。また、現時点で理想の次元に踏み込もうとすれば、その第一歩は奈落へと転落するしかないと思われます。端的に「今、敢えて理想を求めることは奈落に徹することだ」と言ってもいいでしょう。何故、そんな思いまでして奈落を味わわねばならぬのか。奈落ではなく、底辺と頂点の間で展開するパラダイス運動に一喜一憂していた方が数段マシではないのか。当然の批判です。実際、夢の次元から理想の次元への突破に普遍的な必要があるとは考えられないでしょう。ただ実存的に、人生が個人の夢の次元に終始するだけでは不十分であり、それでは人生をラディカルに極めた(その果てまで味わい尽くした)ことにはならぬと思うにすぎません。尤も、夢は個人の次元に限られるものではなく、複数の人間の共同の次元にもあり得ます。例えば、ワールドカップ優勝という夢は個々人の夢であると同時にサッカーファン全体の共同の夢でもあるでしょう。してみると、共同の夢はすでに理想への転化を果たしているのではないか。そう考える人もいるでしょうが、私は違う考えを持っています。個人幻想であろうと共同幻想であろうと、夢は夢です。理想ではありません。夢も理想も共に花に喩えることは可能ですが、理想は夢とは質的に全く異なる次元に咲く花です。ただし、二つの花は逆対応の関係にあるとは言えるかもしれません。


さて、試みに「夢は水平の次元に咲く花であり、理想は垂直の次元に咲く花だ」と表現するならば、理想は何か宗教的な幻想(理念)だと理解されるでしょう。それは強ち誤解とは言えませんが、その場合には宗教の意味が改めて問われることになります。ここで宗教の本質について思耕している余裕はありませんが、今は「垂直の次元は泥沼の現実を超越する清浄な彼岸などではない」とだけ明言しておきます。従って、理想は現実逃避のアヘンではなく、むしろ現実の泥沼にラディカルに徹し、その底を突き抜けて奈落から現実そのものの反転によって咲く蓮華だと言えるでしょう。尤も、こんな抽象的な表現では誰も理想を求める運動に連帯する気にはならないと思われます。夢を追求する生き方の方が遥かに情熱的な「感じ」がするからです。しかし、その「感じ」はおそらく表層的なものにすぎません。その点について、更に思耕を進めます。

ユートピア運動(4)

毎度のこと乍ら、なかなかユートピア運動にまで辿り着けませんが、ユートピア運動はアルカディア運動とパラダイス運動との対比においてのみ明らかにされると私は考えています。言い換えれば、ユートピア運動を「何々である」という形で実体的に語ることは不可能(もしくは、ユートピアの本質に反するもの)であり、ただ「アルカディア運動でもパラダイス運動でもないもの」として逆説的に語るしかありません。そのため、どうしても回りくどい表現になって恐縮ですが、もう暫く我慢してお読み戴ければ幸いです。


さて、我々には様々な欲望が渦巻いています。それは煩悩などの諸悪の根源であると同時にエラン・ヴィタール(生命の躍進力)でもあります。おそらく、人間に欲望が尽きない限りパラダイス運動もなくなることはあり得ませんが、それは常に奈落への絶望に瀕していることを忘れるべきではありません。勿論、奈落に陥ることなく、底辺と頂点の間で悲喜交交(こもごも)のドラマを繰り返していくパラダイス運動に終始するのも一つの生き方です。と言うより、殆どの人にとって、夢の大小の違いこそあれ、「人生はパラダイス運動だ」と言えるでしょう。かく言う私にもそれなりの夢があり、それを死ぬまで追い求めていくつもりでいます。しかし、私は自分の人生がパラダイス運動に尽きるものだとは考えていません。それはパラダイスが不完全な理想だからではなく、理想とは絶縁した(別の表現をすれば、理想の次元とは質的に異なる)夢の次元に展開するドラマだからです。


もはや誤解はないと思いますが、「自分の人生はパラダイス運動に尽きるものではない」とは言うものの、私はパラダイスを否定するつもりはありません。言うまでもなく、他人を奴隷化するようなパラダイス(例えば、帝国主義的パラダイス)は論外ですが、「個々人の自由な夢の追求」は人生の核だと言えるからです。尤も、すでに述べたように、パラダイス運動は底辺と頂点の間での流転に他ならず、実際にパラダイスを享受できるのはほんの一握りの人間でしかありません。ただし、パラダイスは相対的なものであり、己の分を知ってささやかな夢で満足しようとするなら、その身の丈に合った相応のパラダイスを享受できるでしょう。宮殿のような大邸宅だけがパラダイスではなく、狭いながらも楽しい我が家もまたパラダイスになり得るということです。とは言え、パラダイス運動に伴って少なからぬ人が底辺に蹲(うずくま)らざるを得ないのも厳然たる事実です。頂点で歓喜する人がいれば、底辺で呻吟する人もいる――これはパラダイス運動の避けられぬ運命だとして粛々と甘受するしかないのでしょうか。底辺と頂点を分けるものは自己責任だと割り切るしかないのかもしれませんが、奇特にも底辺の人間の問題に真摯に取り組む覚悟を決めるなら、「底辺-頂点」という構造そのものの克服を求めざるを得ないでしょう。繰り返しになりますが、そうした克服の試みは底辺を突き抜けて奈落の次元を切り拓くことになります。奈落こそ理想の次元の端緒ですが、それは先ずアルカディアの次元として実感されると思われます。


実際、始源の楽園であるアルカディアには底辺も頂点もないと想定されます。その意味において、アルカディアはパラダイスの夢の次元を克服した理想の次元だと言えます。しかし、夢の次元の克服とは何か。それは実質的に人間の欲望の根源的滅却に他なりません。無の境地と言ってもいいでしょう。行雲流水、大自然と一体化する無為自然の生き方です。これは梵我一如の悟りの境地に等しいものであり、一つの理想を体現していることは間違いないと思われます。事実、俗なるパラダイス運動と並行して、神聖なるアルカディア運動がなくなることはないでしょう。しかし乍ら、果たしてアルカディアに徹して生きることが現実に可能でしょうか。少なくとも私は、一握りの「最終解脱者」以外には到底不可能だと考えています。更に言えば、アルカディアには徹するべきではないというのが私自身の立場です。そもそも人間の歴史は、アルカディアという始源の楽園を喪失せざるを得なかった現実から始まっているのではないでしょうか。私は先に「アルカディアはパラダイスの夢の次元を克服した理想の次元だ」と述べましたが、厳密に言えばその逆で、「人間はアルカディアの理想に満足できなかったからこそパラダイスの夢の次元を切り拓いた」と言うべきです。端的に言えば、我々人間にとって、アルカディアからパラダイスへの移行は不可避だと思うのです。


かくして我々は一周して、再びパラダイス運動の次元に戻って来たわけですが、結局のところ社会的な運動としては個々人のパラダイス運動の自由を最大限に活かせる社会(当然、他者の自由を損なわない形で)を求めていくしかないのでしょうか。それも一つの選択肢であることは否定できませんが、私がここで皆さんに呼び掛けたい運動は違います。と言うのも、個々人の夢の追求(パラダイス運動)を社会的に保障する制度の摸索は極めて政治的なものであり、そうした試みならすでに無数にあるからです。先日の参議院選挙の立候補者たちが口々に訴えていたことも煎じ詰めればそれであり、政治の目的は「個々人の自由なパラダイス運動を可能にする社会的保障の確立」にあると言っても過言ではないでしょう。私は政治に無関心を決め込むつもりはありませんが、私の究極的関心は別にあります。それは個々人の夢の次元を突破して理想の次元を切り拓くことです。では、何故そのような突破が必要とされるのでしょうか。

ユートピア運動(3)

アルカディア運動には、今や失われているとは言え、「始源の楽園」がありました。パラダイス運動には常に「見果てぬ夢」があります。それらはそれぞれの運動の中心に他なりません。尤も、アルカディアの追求は「自然に還ろう!」という呼び掛けにおいて社会的運動になり得ますが、パラダイスの運動は基本的に個人主義の領域です。従って、個々人の自由な夢の追求であるパラダイス運動をここで問題にする必要はないでしょう。それはその夢を抱く「個人の問題」であって「我々の問題」ではないからです。


しかし乍ら、「個々人の自由な夢の追求」とは言うものの、そこには様々な不平等があり、現実には「自由な追求」とは言えません。先ず、才能の格差があります。ワールドカップで活躍できるようなサッカー選手になりたいという夢を抱いても、その才能がなければ、いくら努力を重ねても夢は叶いません。それはどうしようもない現実だとして受け容れざるを得ないとしても、才能がありながら経済的な理由で夢を断念せざるを得ない現実に関しては一つの社会的運動を起こすことが可能です。親の経済格差が子の教育格差に反映している問題がよく報じられますが、そうした醜悪な現実は何とかして克服する必要があります。言わば、個々人の夢に対して平等な機会が与えられる社会の実現です。ただし、この平等性は自由競争社会を徹底させるための前提にすぎず、格差を限りなく生み出していくことへの歯止めになるようなものではありません。実際、パラダイス運動が平等なスタートラインを求める社会的運動を要請するにせよ、それはパラダイス運動それ自体の本質とは無関係です。もし格差の発生を抑制するような平等性を求めるならば、それは「個々人の自由な夢の追求」をも抑制する結果となり、延いてはパラダイス運動そのものの否定に至るでしょう。確かに、先天的能力の格差は不平等かもしれませんが、能力の格差は別にして、勤勉な者が豊かになり、怠惰な者が貧しくなるのも不平等でしょうか。個々人の努力の量によって格差が生じるのは、むしろ平等だと言うべきです。必死に勉強して百点を取った者も遊び呆けて零点だった者も等しく合格とされるのは明らかに不平等です。では、我々は個々人の能力と努力がその夢の実現に正しく反映される社会、すなわち個人の自由なパラダイス運動を可能にする社会を求めるべきでしょうか。そこに我々の究極の理想があるのでしょうか。