2019年が明けました。本年もよろしくお願いいたします。

 

東洋暦では、今年は「己亥八白土氣(つちのと い はっぱくどき)」という年です。「己」というのは、十年サイクルでやってくる大衆意識のトレンドが「きちんと」ブームに向かう年で、十年前の2009年には、民主党政権が発足して「事業仕分け」がきちんと行われたりしましたね。のらりくらりとした政権も、今年はきちんと仕分けしてもらいたいものです(^^;)。

 

「亥」は、十二年サイクルでやってくる大衆行動のトレンドが「徹底分析・徹底解体」ブームに向かう年で、十二年前の2007年には、東国原宮崎県知事が「どげんかせんといかん!」と宮崎県の良さを徹底的に分析して、アピールしてましたね。いま思うと、アメリカのサブプライムローンやリーマンブラザーズの破たんも、ごまかしが通用しなくなったシステムの解体だったのですね。

 

「八白土氣」というのは、九年サイクルでやってくる社会現象のトレンドが「自立・防衛・後継」ブームに向かう年で、九年前の2010年には、尖閣諸島近海で中国の漁船が海上保安庁の船に衝突した事件があったり、金正恩さんが韓国延坪島を砲撃して、労働党中央軍事委員会副委員長として華々しく後継者デビューしたりと、何かと物騒だった年でしたね。民主党(鳩山、菅)内閣が「ねじれ国会」となって、日本どうなっちゃうんだ?という現象が続きました。欧米でも、オバマさんが中間選挙で大敗したり、ジャスミン革命なんかが続発したり、ウィキリークスのアサンジさんが逮捕されたりと、ごたごたの多い年でした。

 

そうした周期論から考えると、2019年は再び政権交代でしょうか。政治以外にも、腐敗したシステムがガラガラと音を立てて解体されていくのでしょう。そして、もうちょっときちんとしたシステムを再構築して、自立・防衛を模索する年となりそうです。僕が今、「ニッポン的自立考」をつらつらと記しているのも、こういう年になると予想してのことでもあります。皆さんの生活や仕事にも、そうした意識を取り入れると、今年は革新効果が絶大ですよ。ぜひぜひ、良い年に致しましょう!

 

日本の社会の中で自立的に生きるって難しいなと感じるのは、やっぱり「NO」と言うべき時です。どんなことに対しても、YESと言っていられるうちは「良い人」でいられるんですが、どうしても断りたいときだってあります。そこが肝腎な瞬間です。

 

これは日常的なことではないけど20年ほど前、今の場所に住み始めたころのお話。当初、うちの目の前にごみ集積所があったんです。しかも、旧いやり方で見た目も汚く、カラスはたかるし、夏場などはにおいもひどくて、これから来客のある仕事を始めたかったので、集積所を移動してほしいと思いました。これまでの慣例を「断る」ことを考えたわけです。でも、ただ「汚いし臭いから移動してくれ」と駄々をこねるわけにもいきません。これからその地域で暮らしていくのですから、今後の関係性を悪くしてはなりません。そこで、一所懸命に「代案」を考えました。

 

そこにゴミを出している人を調べると、一番多かったのがちょっと離れたところにあるアパートの人たちでした。そのアパートの前には、ゴミ出しにちょうど良い広場スペースがあり、そこに移動してもらえたら理想的だと結論しました。ただし、見た目やにおいの問題を押し付けてはなりませんから、大きめのゴミバケツ(ふた付きの)を数個置いて、かならずふたを閉めておくということを徹底すれば、カラスの問題もOKです。さらに、ごみ収集のあとの清掃などの「管理」も買って出ようと決めました。もちろん、バケツを買って用意するのもこちら持ちです。移動してもらえるならば、これくらいの「代案」はお安いものです。

 

そうした内容の「ごみ収集に関するお願い」を書いて、まずはアパートのオーナーさんに相談したところ、快く受け入れてくれました。というのも、そのかたはちょっと離れたところに住んでいて、「こちらで管理をする」という条件を喜んでくれたのです。アパートの人たちも、ゴミが出しやすくなると言ってくれる人もいて、スムーズに事は進みました。面倒だったのは清掃局で、そこにゴミを出す人たちの名簿だとか承認印だとか、収集車が周辺の家の塀などを破損したときにも責任を要求しないという覚書だとか、ずいぶんといろいろな書類を提出させられました。でもまあ、目的達成のためならお安い御用です。

 

結果として、ちょっとした出費もありましたが(これまでの集積所の撤去費用などもうちが持ちました)、表面的にはとても平和に移動は実現しました。引っ越してきたばかりの新参者があれこれとうるさいことを言ってきて、とまどった人もいたそうです(後から聞いた話^^;)が、これがきっかけで近隣の人とはすっかり顔見知りとなり、町会にも入れてもらい、晴れてこの町の住民となったのです。その後も、要求を聞いてほしいときには、「そこまでしてくれるなら」と相手が納得するような「代案」を出して、その分の汗をかくことを大事にして生活しています。自立の是非は「代案」にありです!

 

教訓……今後の関係性を重視するならば、相手が納得する代案を立てて断るべし

 

 

“何かを断るためには、それを埋めるものを与えねばならない” …… 酒井嚴貴

 

再び金言風ー(^^)。今回は、今後の関係性も良い状態にしつつ断るには「代案」が必要だっていう話です。つまり、「○○はできませんが、こういう範囲でなら、こういうやりかたなら、できます」というパターンで断るわけです。

 

比較的簡単なパターンは、日常の中でのスケジュール調整ですよね。「残業頼む」に対して、「いやでーす」は通用しません(言っちゃう人もいますが、その後の関係性は悪化します)。その時すぐに予定を確認して、「今日は8時までしかできませんが、明日の朝なら7時に来れます」という風に、出来る範囲を伝える。「今日はムリなんですが、明日なら何時まででも!」というパターンの「代案付き断り方」を、日常的に使えると達人ぽいですね。これをいつでもできるためには、常に自分の限界(時間的、体力的、精神的限界など)を明確に把握しておくことがカギです。

 

僕の日常には、「有料ならやります」のパターンが多いかな。知人との世間話が愚痴に発展して、解決策を求めるレベルの相談になると、以前の僕は自動的にカウンセリングモードに切り替わって、具体策を提示してました。でも、気づいたんです。そいつら、「タダなら聞いちゃおう」というぐらいの計算だったんですね。以来、いやらしいけど「いろいろと解決策は考えられるけど、費用が発生しちゃうなー。今話す形なら●千円、後で詳しく調べてメールする形なら●万円になるけど、どう?」みたいに伝える。最初は言いにくかったー。今は慣れたんでフツーの会話です。「じゃあ頼む」という反応は5人に1人ぐらいですね。

 

これも、プロとして生活している僕の「限界」の提示なんです。お仕事の依頼であっても、今請け負ってもどれぐらい時間がかかるか、いくらならできるかなど、全部自分で決定する以上は、自分の予定からペース配分から生活の状況から、すべてを把握していないと、明確な「限界」を提示できません。これができるようになるのが、実は「自立」の第一歩なんですね。「断りの道」は「代案の提示」すなわち「限界の把握」であると心がけましょう!

 

 

“何かを達成するためには、何かを断らねばならない” 

                    …… 酒井嚴貴

なーんちって、金言ぽく始めましたが、「自立的に生きるとは断ることなり」と言っても過言ではないほど、断ることは大事です。特に日本人としては、この修業には苦労させられます。思い出語り的に紹介させてください。

 

まずは、忘れられない失敗パターンから。アメリカに留学したての20代の若き頃、その町の不動産屋さんの紹介で、アパートメントの一室を借りていました。ところが数か月後、経済事情が苦しくなったため、より安価な学生寮へ引っ越そうと思い、不動産屋に申し出たところ、その担当の女性が予想外の激怒をしました。どうも、契約上2年間は借りてもらわないとダメだ、みたいなことを言っているようで、何度も理由を聞いてきます。「面倒だな」と思った僕は、「学校のほうから言われて…」と、ついつい「人のせい」にしてしまいました(日本ではこれが結構使えたので)。すると彼女は即座に学校の留学生オフィスに電話をかけ、「こう言っている学生がいるが、本当か。本当ならそれは違法な命令だ!」とがなり立てたのです。「やばいことになったな…」と考えているうちに、彼女は電話を切り、冷静な顔を取り戻し、こう言いました。「今問い合わせたら、そのような命令はしていないと確認できました。これで安心して今のままでいられますね。」

 

僕は覚悟を決めて、出来る限りの誠実さを込めて「ごめんなさい、ただ自分の経済的な理由で移りたいだけです。」と白状しました。すると彼女は、「やっぱりね」という顔で、「OK、じゃあ規約上、今月と来月の家賃分は引き落とされます。それと、後で部屋をチェックして、傷みが激しい場合にはクリーニング代が請求されます…」と、全く事務的に解約の手続きを進め、サインをして帰宅した次第です。

 

この体験後、僕は二度と「人のせい」「何か別の物事のせい」にして何かを断るのはしないと決心しました。体験してみて、嘘やごまかしはかえって状況を悪化させると痛感したわけです。

 

教訓……断るならば誠心誠意、自分のリスクやペナルティも潔く受け入れるべし。