5/21付けの記事「競泳界の『スピード』をめぐる闘いに参戦した中小企業」で山本化学工業㈱を取り上げた際に、ミズノ(1906  大阪で創業)と同様に、デサント 1935  大阪で創業)、ゴールドウイン 1950 、富山で創業)が日本のスポーツ用品メーカーであることを知って驚きました。そして、今日アシックス(1949年、神戸で創業)も日本に企業であったことを知りました。


いよいよ、明日日本水泳連盟が北京オリンピックでのオフィシャルサプライヤーを決定するということですが、アシックスも水着扱っていて、「もともとはイタリアのディアナ社と提携関係にあり、競泳用もディアナブランドで出していたが、1980年代以降順次自社ブランドに切り替え」ているそうです。


社名の由来は、「古代ローマ の作家ユウェナリス が唱えた『もし神に祈るならば、心身ともに健康でありますように、と祈るべき(Man Sana in Corpore Sano)』という言葉のMan(人間)をより動的な意味を持つAnima(生命)に置き換え、その頭文字、ASICSを並べたものである」そうです。バスケットシューズといえば、今やナイキなのでしょうが、そのナイキとアシックスには次のような関係があったんですね。


ナイキ の前身であるBRS社は、アメリカ におけるオニツカタイガーの販売代理店となっていた。スタンフォード大学 で経済学を学んだ後、1963 (昭和38年)に卒業旅行で日本に立ち寄ったフィル・ナイト は、オニツカシューズの品質の高さと価格の安さに感銘を受けた。ナイトはすぐさまオニツカ社を訪ね、アメリカでのオニツカシューズの販売をやらせてほしいと依頼。オレゴン大学の陸上コーチだったビル・バウワーマンと共同でブルーリボンスポーツ(BRS)を設立し、オニツカの輸入販売代理業務を開始した。


西海岸地域を中心に販売は好調だったが、その後BRSナイキ ブランドを創設。初期のナイキシューズ(コルテッツ等)は日本製のものがほとんどだが、これらは福岡のアサヒコーポレーション で生産されたものであり、事実上ライバルメーカーへの仕入の切り替えであった。その後、オニツカ側がバウワーマンが考案したデザインやモデル名をそのまま使用し続けたためにBRS社から訴訟を提起され、和解金として1億数千万円を支払ったという。(ウィキペディア)


この記事だけを見る限り、「ナイキ、それはナイキよ」とでも言いたくなるようなBRS社の狡猾さです。


鬼塚喜八郎

鬼塚喜八郎(おにつか きはちろう 1918 大正 7年)5月29 -2007 平成 19年)9月29 )は、アシック 創業者。鳥取県 気高郡 明治村 大字松上(現在の鳥取市 松上)に農業 ・坂口伝太郎 かめの32女の末子として生まれた。喜八郎の名は、大倉財閥 を興した大倉喜八郎 にちなむという。


勤務していた商事会社はビアホール などを経営するが実際にはヤミ屋 のようなものであり、愛想を尽かして3年後に辞職。その後、どのような仕事をするかを思案している際、兵庫県教育委員会の保健体育課長であった堀公平から「青少年がスポーツに打ち込めるようないい靴を作ってほしい」との助言を受ける。その際に堀から、後にアシックスが標榜することとなる「『健全なる精神は健全なる肉体に宿る』ということばを知ってるか」と言われたという。


その後、堀の力添えで兵庫県下の小中学校や警察にズック靴や警ら用靴を納める配給問屋の資格を得て、1949 (昭和24年)3月に個人事業の「鬼塚商会」を始める。スポーツ用シューズの製造技術は素人であり、仕入れ先に見習いとして雇ってもらい、特訓を受けたという。


1949 (昭和24年)9月に資本金30万円、社員4人で「鬼塚株式会社」を設立し社長に就任。兵庫県バスケットボール協会理事長で兵庫県立神戸高等学校 バスケットボール 部監督の松本幸雄に相談し、バスケットシューズ の開発をすることに決める。「選手の足の動きをよく見ろ」との助言により暇があるとコート通いをし、選手から希望を聞き改良品を作った。


1951 (昭和26年)夏、キュウリ 酢の物 にあったタコ の足に目がとまり、タコの足の吸盤 にヒントを得た全体を吸着盤のようにした凹型の底を考案し、鬼塚式バスケットシューズとして販売。「鬼塚なんて知らない。」と言われるなか、シューズを担いで全国を営業して歩き、神戸高校バスケットボール部の優勝などもあり次第に売れ行きを伸ばした。


その後、シューズのブランドを、新鮮で印象に残り、スポーツシューズにふさわしい強さと敏捷性を表すものとして「虎印」とした。虎印の商標権はすでに他社に取得されていたため、鬼塚と組み合わせて「ONITUKA TIGER」印を横につけ、虎の絵の下にTigerの文字を入れたマークを靴底につけた。(同上)