マリアビートル/伊坂 幸太郎

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☆☆☆☆
元殺し屋の「木村」は、幼い息子に重傷を負わせた相手に復讐するため、東京発盛岡行きの東北新幹線“はやて”に乗り込む。狡猾な中学生「王子」。腕利きの二人組「蜜柑」&「檸檬」。ツキのない殺し屋「七尾」。彼らもそれぞれの思惑のもとに同じ新幹線に乗り込み―物騒な奴らが再びやって来た。『グラスホッパー』に続く、殺し屋たちの狂想曲。3年ぶりの書き下ろし長編。(amazonより)

伊坂の作品群の中でも私的ベスト3に入る『グラスホッパー』の続編ということで、かなり期待してよっみ始めました。案の定面白過ぎて夢中になりましたが、読み終わってみれば伊坂幸太郎の作品群の中では中の上~上の下といった程度の印象でした。

言い訳のようにはじめに書いておきますが、大前提として面白い本であることは間違いありません。
軽妙洒脱な台詞回し、魅力的な人物造詣どれをとっても1級品で初期の伊坂を彷彿とさせます。

ただ星5つを与えるにはそれ以上モノが欲しいわけです。

本作はそれなりの長さがあるにもかかわらずセンスの良い台詞回しや、次々に展開していく物語が読者を飽きさせず物語に没入させていきます。物語進行的にいうのならば、その最も大きな要因は小さなどんでん返しが次々と起こることにあります。まずその数が通常の作品と比べ非常に多いですし、質でいっても「そのレベルのものを次々使ってしまっていいの?」と思わされるレベルです。
しかしそれはエンディングにより大きなもの求めることにも繋がります。しかしながら本昨最終盤で起こるある仕掛けは複線を綺麗に回収してはいるものの、読者が腰を抜かすようなどんでん返し、あるいは圧倒的なカタルシスやストレスを与える収束や発散ではありませんでした。

また物語的な面白さではなく文学的な奥行きという意味においても物足りなさがありました。
その1番の要因は借り物の言葉を借り物のまま、作品の柱にし、かつそれを台詞としてキャラクターに喋らせてしまっていることです。これまでの作品でもそういった兆候は見られましたが本作ではそれがより顕著です。巻末に記されている参考文献の要旨がそのまま物語的な作品の肝になってしまっています。例えば本作ではドストエフスキーの台詞をそのまま作品中に引用するシーンなどがあります。これを読んだときに、「ますます村上春樹に似てきたな」と思われた方が大勢いらっしゃるでしょうが、村上春樹の素晴らしさはドストエフスキーや様々な哲学者の学説を飲み込みキャラクターに語らせた上で、最も描きたいことは誰にも語らせず物語にしみこませることにあります。

前にもどこかで書きましたが演説や論述でいいのであれば、新書や学術書で理路整然と語った方がわかりやすし手っ取り早いわけです。それをあえて小説や映画にする理由は言葉に出来ない何かを訴えるため、あるいは言葉では伝えきれない、または言葉よりも伝わりやすい形でストーリーそのものが物語たるから、なはずです。

前作『グラスホッパー』はエンタメとしての複線がきいたどんでん返し、混沌とした気持ちに落とされる発散があり、文学的な奥行きも多分に哲学的なテーマが含まれていました。(少々喋り過ぎなきらいはありましたが)ちなみにそんな理由から前作のラストをあっさりと片付けてしまう、あるキャラクターの台詞にもげんなりでした。

色々と文句はつけましたが、平均点が極めて高い伊坂幸太郎だからこそ、大傑作の続編だからこそ期待するものが大き過ぎたと言うところです。平均点が高い伊坂の作品群の中でも確実に良作の部類ですし、非常に楽しめたのは間違いのない事実です。自身を持ってお奨めできる1冊です!

グラスホッパー (角川文庫)/伊坂 幸太郎

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