
当時のドイツ製最高級車メルセデス・ベンツ「300SE(W111)」を購入、
専属運転手の乗務により吉田の足として用いられていた。

吉田没後は麻生太賀吉に引き継がれてのち
日本国内の自動車愛好家に譲られ、
2000年代に至っても自走可能なコンディションで保管されている。
吉田 茂の逸話
終戦直後のまだ国民が飢えと戦っていたころ、
吉田はマッカーサーに
「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えたが、
アメリカからは結局その6分の1以下の70万トンしか輸入できなかった。
しかしそれでも餓死者はでなかった。
マッカーサーが「私は70万トンしか出さなかったが、
餓死者は出なかったではないか。日本の統計はいい加減で困る」と難癖をつけた。
それに対して吉田は「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったら
むちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら日本の勝ち戦だったはずです」
と返した。
これにはマッカーサーも大笑いだったという

1964年(昭和39年)11月の宮中園遊会で、
昭和天皇が「大磯はあたたかいだろうね」と吉田に呼びかけた。
吉田は「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」
と答えてその場を笑わせている。
又、
吉田は米寿をすぎてもまだかくしゃくとしていたが、
ある日、大磯を訪れたある財界人がそんな吉田に感心して
「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。
なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、
「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」
と吉田は答えた。
そういった食べ物があるのならぜひ聞きたいと
財界人が身を乗り出すと、
「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑った。
これが吉田がこの世に残した最後のジョークとなった

吉田邸
「吉田御殿」と呼ばれた豪壮数奇屋敷風総檜造りの建物は
戦後、建築家吉田五十八氏の設計のもと
京都より呼ばれた宮大工により建築されました。
吉田茂元首相自らこの邸宅を「海千山千の家」と公言し、
多くの政財界人や諸外国からの来賓が訪れました。
残念ながら2009年春、全焼してしまいました。
吉田茂のお孫さんの誰かが、
こんな回想をされたことがありました。
とあるエピソードの抜粋
ある日、彼は孫たちを前にこんなことを言ったのだそうです。
「これから日本中の人たちが、おじいちゃんの悪口を言うことになるだろう。
みんなが、おじいちゃんのことを悪い人だと言うようになるだろう。
おまえたちも、みんなから悪口を言われるかもしれない。
それでつらいめに合うかもしれない。
でも、わたしは、日本のためによいことを一所懸命にやるんだ。
誰もがそれをわからなくてもいい。
でも、おまえたちだけは、おじいちゃんを信じておくれ。
お前たちだけでも、おじいちゃんを信じてくれれば、
それでおじいちゃんはがんばることができる」
彼の政策の是非については、ここでは論じるつもりはありません。
それに、私は、彼を礼賛するものでもありません。
ただ、吉田茂という人が、それだけの覚悟をもって、
あらゆる非難や中傷をその身に受ける覚悟をきめて、
彼なりの信念にもとづいて
「戦後」という政局にあたったのだということだけはわかります。

突然の死だったためその場には医師と看護婦三人しか居合わせず、
身内は一人もいなかった。
臨終の言葉もなかったが、
「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったという。
前日に「富士山が見たい」と病床で呟き、
三女の和子に起こしてもらい、
椅子に座り一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、
これが記録に残る吉田の最期の言葉である。
大磯の自邸にて死去した。
1967年10月20日没 享年89。
前後復興に命をかけた政治家であった。