東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・47 | 足尾鉱毒事件自由討論会

東海林・菅井の『通史足尾鉱毒事件』・47

公害防止工事にも、年月を経れば様々な不備が出てくるのは当然です。


時代が変わり、経営者が変われば、会社も変節します。歴史を振り返れば、日本の社会は政治も経済も、会社経営者も労働者も農民も、絶えず変化を繰り返しています。
一方だけが善で他方が悪だということはないはずです。どんな分野にも善と悪が混在しています。


ところが、この本の著者菅井は、古河や政府は悪で農民は善だという、現実はありえない幻想を前提にして、歴史を解釈するのです。


彼は、明治36(1903)年頃田畑が回復してその解決を見た足尾鉱毒事件を、20数年後の昭和に起こる公害問題とつなげて説明します。
引用していきましょう。


「足尾銅山の鉱毒予防施設の不備から、突然鉱毒が流下して来ることもしばしばあった。とくに被害が甚大であった年は、1925(大正15)、1934(昭和9)、1935(昭和10)、1939(昭和14)年であった」


「三栗谷水利組合では、1933年に、三栗谷用水の改良事業を行なうことを決定した。・・・この事業が県営事業としての認定を受けたのは1935年であった。しかし、1期工事33万円のうちの地元負担分が、9万9000円という多額にのぼったため、これを古河鉱業に負担させるべくねばり強く交渉し、古河に8万5000円を寄贈させることに成功したのであった。この1期工事は1936年3月に開始され、1936年に完成した」


この引用文から、古河鉱業は、1935年には農民の要求に応えて、農民が負担しなければならない金額の85%もの公害防止資金を拠出していた事実が分かります。当時の古河鉱業は何とも立派な会社ではありませんか。


ところが菅井は、古河企業グループが大正時代に形成されたことを説明する時、次のように徹底して古河を責めるのです。


「渡良瀬川の上流と下流の二つの村を滅亡させ、数万ヘクタールの森林を禿山にし、少なく見積もっても数万ヘクタールの田畑を鉱毒で侵し、さらに鉱毒・洪水合成被害の対策のために巨額の国民の税金を支出させて、古河財閥は成立したのである」


いったい、何の権利があって彼は古河をこのように非難するのでしょう。不思議です。