公害発生年を早めた偽工作⑦ | 足尾鉱毒事件自由討論会

公害発生年を早めた偽工作⑦

立松和平は、『恩寵の谷』のほかに足尾鉱毒事件かかわる『毒 風聞・田中正造』というもう一つの小説を書いていますが、この小説にも、田中正造の嘘に明らかにだまされた証拠が見られます。

この小説の第2章には次のような部分があります。

「マルタという魚の最盛期は、桜の花の盛りです。ハヤは、梨の花の盛りを旬(しゅん)といたします。渡良瀬川の川幅いっぱいに網を張りますと、慶応より明治12,3年の頃までは一晩に百貫以上はとれました。(中略)鉱毒被害以来、マルタもハヤもまったくとれません。」

「明治12,3年頃を境に魚がとれなくなった」とするこの記録は、まぎれもなく田中正造によって捏造された「公害の発生は明治12,3年頃」説に準拠しています。

実は、立松がこの部分のために使った資料は、庭田という農民が、田中正造に言われて明治31年に書いた「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」という作文ですが、この作文自体、よく読むと相当いい加減なものだと言うことがわかります。


上記のように、この記録は「昔は自然がこのように豊かだったが今は違う」といっているだけです。全部がこのような書き方になっていて、どの程度の自然破壊があったのかは、どこを読んでも具体的には何も述べられていないのです。こんな話なら誰だって書けるではありませんか。「実記」ではなくて、明らかな「創作」です。


しかし、立松という人は、こういうことにも何の疑いを持たずにこの記録を単純に信じ込み、研究者の誰もが、正造の言う公害発生年は虚構だと言うことを知っていたにもかかわらず、上記のように捏造資料をそのまま引用したわけです。なんと単純でおめでたい小説家であり、同時に偽善者なのでしょう。