公害発生年を早めた偽工作① | 足尾鉱毒事件自由討論会

公害発生年を早めた偽工作①

学者や研究者も公認した、正真正銘の正造の嘘が一つだけあります。
足尾銅山で公害が発生した時期は、明治17(1884)年あたりというのが今の定説ですが、長い間明治13(1890)年ごろとされていました。


田中正造が議会で何回もそう言い続けていたので、田中正造を義人と称えていた学者・研究者は、何の疑いもなくその発言をずっと信じていたからです。


彼は、帝国議会で何度となく、鉱毒は明治13年、あるいは14年、あるいは15年に発生したと発言し、その上、「栃木県知事の藤川為親は、渡良瀬川が汚染されているので、漁をすることも獲れた魚を売買することも禁止する、という布達を出した。この措置に不満を持った政府は、知事を島根県に追いやった。」という話までしていました。


しかし、両方とも全くの作り話だということが、研究者の一人である東海林吉郎によって明らかにされたわけです。
何しろ、この時期には銅の鉱脈が見つからず、生産はほとんどゼロに近い状態だったので、鉱毒汚染など起こりようがありません。


東海林が正造の捏造に気づいたのは当然ですが、彼はこの捏造を「正造の戦略的虚構」だとして、決して批判してはいません。しかし、私に言わせれば、正造の嘘は他にいくらでもあり、戦略など考えていない極めて「日常的な虚構」に過ぎません。

公害がいつから起きたかは被害民はわかっていますし、布達が出たかどうかも公文書ですから、虚偽だということはすぐばれます。
その当時正造は栃木県会の議員でしたから、「なぜあなたは反対運動をしなかったのか?」と聞かれれば、答えられないではありませんか。


こんなできの悪い嘘が、どうして戦略的といえるのでしょう。