山川出版社の「日本史A」③
この教科書は、最後に次のように書いています。
「そこで(鉱毒被害が止まなかったので)、1901(明治34)年に田中は議員を辞職し、その年末の議会開院式から帰る天皇の行列に直訴を試みたが、果たせなかった。」
「政府は1907(明治40)年、被害と洪水を緩和するために、渡良瀬川と利根川の合流点の近い栃木県下の谷中村を廃村として住民を集団移転させ、遊水池にした。」
「しかし、田中はこれを不服とする住民とともに谷中村に残り、1903(大正2)年に亡くなるまでそこに住んで政府に抗議し続けた。」
「鉱毒被害が止まなかったので直訴を試みた」は、これまで何度も述べたように事実ではありません。
明治34年10月6日付の朝日新聞で明らかなように、すでに豊作になった田畑もあるからです。
谷中村の遊水池化の目的は、鉱毒被害の緩和ではなく洪水防止ですから、これも嘘です。
政府は、鉱毒被害がなくなったことを確認したうえで、この計画を推進しています。資料をよく調べてください。
田中正造の政府への抗議は、あくまでも個人的な行動であって、日本国民の立場から言って、この抗議が正当であるという根拠は何もありません。谷中村より上流の農民は、すべてこの政府案に賛成しているのです。
にもかかわらず、正造のほうが上流の農民より正しいと生徒に説得できるはずはないではありませんか。
問題点を指摘した私の手紙に対して、本年5月10日付で山川出版社の編集部から返事がありました。
それには、「ご指摘の点については、著者に照会して検討したい。」とありましたが、著者は反論するに決まっています。相談して正しい答えが出るものでしょうか。
「少々時間を頂きたい」とも書いてありましたが、いまだ音沙汰なしです。