祖父の法要で福島に行ってきたときのお話です。
お坊さんの法話が始まったとき、
「何度も聞いているかもしれませんが…」という前置きがありました。
祖父は檀家さんたちの集まりで
一番面倒と言われる会計を担当していたそうです。
そして、活気づけ役みたいな存在だったとのこと。
そんななか、
1995年に阪神淡路大震災が起こりました。
瓦葺屋根の家や寺社が倒れているのを見て、
祖父はお寺の瓦葺を銅板葺きにしようと提案します。
屋根の重さが1/10になるのです。
当時の金額で200万円ほどかかったそう。
賛成する声もあるなか、
もちろん反対する声もありました。
「ここは地名に『岩の城』と書くほど
地盤が強いから地震なんて起きるはずがない!」
そんな檀家さんたちを説得し
お寺の本堂の屋根を銅板葺きにします。
完成祝いにみんなで京都旅行に行ったそうなw
そして、その数年後に祖父は他界しました。
その後に起きたのが
2011年の東日本大震災です。
大半のお寺が大きな被害を受けるなか、
銅板葺き屋根にしたこのお寺は
被害を最小に抑えることができ、
なかの仏像も倒れることがなかったそうです。
周りのお寺のお坊さんたちは
その光景を見て驚いたとのこと。
まさに先見の明。
そんな初めて聞いたんですけど!!
じいちゃんカッコよ!!
めっちゃカッコいい!!
またさ、東日本大震災のときには
もういないっていうのが
粋といいますか、カッコいいじゃないですか!
天国でドヤってくれてたらいいのにw
(そんなことする人じゃないけど)
この一連の話で
「じいちゃんには先見の明があったんだね」
と言えるのですが、
当の本人はそんなこと考えてなかったと思うんです。
ただ、阪神淡路大震災のことを見たり聞いたりして感じて
今の自分はどうしたいのかをじっくり考えて、
その時できることを粛々と行っただけ。
それが結果的に「先見の明があった」ことになった。
外側の事象、出来事はコントロールできない。
(自分に入れる情報はある程度選べるけどね)
外側の事象を見て聞いて感じて
一度自分でしっかり認識し
どうしたいのか、どう在りたいのか
自分で決める。
そしてその通りに実行する。
粛々と行うだけ。
「先見」とは、「まだ起こっていない物事を見抜くこと」「先を見通すこと」とありますが、
ようするに「まだ見えていないものを見ること」です。
「明」とは、「道理を見分ける才能や能力」だそうですが、
これって上述の「まだ見えていないものを見て」「明らかにすること」に他なりません。
輪郭をはっきりさせるとか、言葉にするとか、自分のなかから外に表現するということ。
こうしてみると
きっと
先見の明は自分のなかにありそうです。
私のなかにも、
あなたのなかにもね。