ゴヤ




1746年~1828年 ロマン主義
フランシスコ・デ・ゴヤ (Francisco Jose de Goya y Lucientes)

<年表>
1746年 スペイン北東部サラゴーサ近郊のフエンデトードスに誕生
1760年 14歳のゴヤは一家でサラゴーサに移住。ここで絵画修業を開始する
1770年 イタリアへ留学
1773年 バイユーの妹ホセーファと結婚するものの、その後離婚している。
1774年 マドリードへ移住。バイユーの工房で働き、タピスリーの下絵描きの仕事に従事。
1774年 初めて王室のタピスリーの下絵を描く
1780年 サン・フェルナンド王立美術アカデミーへの入会が認められる
1786年 40歳で国王カルロス3世付き画家となる
1789年 宮廷画家となる
1792年 不治の病に侵され、聴力を失う(この頃より作風に変化が出る)
1799年 首席宮廷画家の地位にまでのぼりつめる
1815年 40歳以上も年下のレオカディアという家政婦と同棲
1819年 マドリード郊外に通称「聾者の家」という別荘を購入
1820年~1823年 「黒い絵」制作
1824年 78歳の時にフランスに亡命。
1826年 宮廷画家を引退
1828年 亡命先のボルドーで死去。82歳。


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スペインの巨匠、近代絵画の創始者とも言われる、フランシスコ・デ・ゴヤ。

1746年、スペイン北東部サラゴーサ近郊のフエンデトードスに生まれた。

1760年、14歳のゴヤは一家でサラゴーサに移住し、そこで地元の画家に師事して絵画の修行をする。

この修行は4年間続き、ここで、のちに義兄となる、兄弟子・フランシスコ・バイユーに出会う。

それまで工房で働いていたゴヤは一念発起し、1770年イタリアへ留学する。

そこではいくつかの賞を受賞している。

イタリア留学から帰ってきたあとも、タピスリーの下絵を描く仕事は続いた。

1774年、バイユーの手引きによりマドリードに移住した。そこでゴヤは、

バイユーの工房で働き、タピスリーの下絵描きの仕事をした。

長年タピスリーの下絵を描く仕事をしていたゴヤにチャンスが訪れたのは1774年。

このとき初めて王室のタピスリーの下絵を描いた。

1780年サン・フェルナンド王立美術アカデミーへの入会が認められた。

ゴヤが下絵描きの仕に従事していた期間は長く、1775年から始め、結局1792年頃まで続いた。

その間1773年、27歳の時、バイユーの妹ホセーファと結婚するものの、その後離婚している。

これまで長年下絵描きとして修業していたゴヤは1786年に40歳で国王カルロス3世付き画家となり、

その後1789年には念願だった宮廷画家となった。

そして10年後の1799年には、首席宮廷画家の地位にまでのぼりつめた。

しかし、苦労の末ようやく念願の宮廷画家となったゴヤに災難が起こった。

1792年、不治の病に侵され聴力を失ってしまったのだ。

このときから、ゴヤの作風は変わってしまい。暗めの色彩を多く用いるようになった。

実は今日ゴヤの代表作として知られる作品の多くはいずれも、

ゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたものである。

1815年、ゴヤは40歳以上も年下のレオカディアという家政婦と同棲していた。

当時ゴヤは69歳だった。

1819年にはマドリード郊外に通称「聾者の家」という別荘を購入した。

かの有名な14枚の壁画群「黒い絵」と言われるゴヤの代表作は、1820年から1823年にかけて、

この「聾者の家」のサロンや食堂を飾るために描かれたものである。

当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて1824年、78歳の時にフランスに亡命。

1826年、宮廷画家を引退する。

1828年、亡命先のボルドーで死去。82歳だった。

ゴヤの作品の特徴としては、初期の頃は、比較的明るい色で穏やかな雰囲気の絵画を残している。

この頃はタピスリーや肖像画を描いていた。

しかし、病気で聴覚を失ってからは暗い色を使うようになり、人間の苦悩などを表現するようになった。

また、版画家としても活躍しており、300点近く制作している。


<作品一覧>

裸のマハ

着衣のマハ

自画像

我が子を喰らうサトゥルヌス

黒衣のアルバ女公爵

日傘

ボルドーのミルク売り娘


キリストの磔刑

ラ・ソラーナ女侯爵


チンチョン女伯爵


イザベル・デ・ポルセール



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