今回は平成28年3月12日(土)~3月13日(日)に
法政大学 小金井キャンパスにて行われました
日本樹木医会と法政大学植物医科学センター共催の
「樹木医実践技術講座」での内容を
3回のシリーズに分けてお届けいたします。

1)屋敷林・里山の歴史と音
2)屋敷林・里山で発生する音の特性(そよぎ音・せせらぎ音)
3)音が人に与える影響ー優しい音の原点・ゆらぎ特性ー

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「樹々とそよぎ -樹木、庭園、里山、ひとと、風・音とのかかわり-」
     法政大学生命科学部 福原博篤(㈱エーアール)
第1シリーズ:屋敷林・里山の歴史と音

1.概要

 私たちが住んでいる環境の要素を音感覚から眺めたとき、自然の音と人工の音がある。自然音の音には人工音と異なり、親しみやすさや癒しという親近感を覚えることを福原は確認している。1)ここでは私たちを取り巻く環境で身近な場所にある屋敷林や里山(里海)を構成している樹木、竹、草などが風によりそよぎ発生する音、水の流れや波により発生する音と、人のかかわりについて述べる。

 

 樹木がそよぐことにより発する音は樹種によりある程度異なるが、総じて広葉樹で発生する音はやさしさや親近感を覚え、針葉樹で発生する音には恐怖心を抱く傾向がある。水音についても、流量による音の大小のみでなく、流れの形態、波の大小により音の印象は異なる。これらを周波数特性という概念と、ゆらぎ特性という概念で検討すると、やさしい音と恐さを抱く音ではその特性が異なることがわかった。2これらのあり方、位置づけ、環境との調和を含めた聴覚、触覚からの音風景(サウンドスケープ)も加えたより広いランドスケープデザインが必要である。


2.視聴感覚から見た人と屋敷林・里山の関係

2-1.屋敷林の生い立ち

 農業が派生・発展するにつれ、人々は農耕に適した特定の地域に居を構え、定住化が進んだ。定住化に伴い住居の維持管理、保全が不可欠なものとなり、気象環境条件から住居等の保護のため、江戸初期には屋敷林に相当するものが発生していたようである。屋敷林は敷地内の周囲や内部に多種の樹木群を植林したもので、屋敷内という私たちの生活の場に隣接している植物で構成された空間である。屋敷林は日本各地の平野や台地における農村集落の景観的な要素を持っており、その地域の気象環境条件に合わせて育成されてきた。三浦修氏によると、屋敷林は五つの類型があるとしている3)。その中で自然樹形の針葉樹や広葉樹を用い、個体数の多い自然地形の高木群により森の相観を持つ屋敷林は植栽された樹木や竹林がそよぐことにより音が発生する。その音は樹種や樹林の濃さにより音の大小、音色の違いがある。そのため視覚のみでなく音の側面からも豊富な環境資質を持っているといえる。


2-2.関東地方における屋敷林の例

 写真1は東京・多摩地区旧街道に接した農家の屋敷林の例である。この地域は江戸初期の用水整備が為される以前は崖線や里山からの湧水が利用できる地域以外は水が乏しく、水田がなかった。そのため農家は街道に面した住居の北および西側に森林の様相を呈した屋敷林を造り、日常生活を円滑に営むため、屋敷林の背後に広い耕作地である畑を配している。屋敷林は多くの樹種と樹木で構成されており、防風や土埃を防ぐことと、日照の調整を行ってきた。また林内には果樹も植樹し、椎茸栽培の榾木を置くなどし、生活に密着した林となっている。なお、多摩地区の屋敷林は隣接地との境界にほとんどの家が欅を植えており、その内部に広葉樹と針葉樹を混植し竹も配していることが多い。写真1~4に示すごとく欅は20mを超える大木になっており、少なくともこのような形態の屋敷が江戸時代より以前からあったものと思われる(農家によっては15代以上続いている家もある)。

写真1

写真2

写真3A

写真3B

写真4A

写真4B

写真4C

2-3.東北地方の屋敷林

宮城、福島地方で「いぐね」と呼ばれる屋敷林。この地方独特の風「やませ(山背)」に対応するため、主として杉と竹で風の当たる方向に林を配置している(写真5)。

写真5

農業を営んでいるほとんどの家が古くから屋敷林を持っていた。しかし、東日本大震災で発生した津波により海岸に接した平野部の屋敷林はほとんど失われてしまっている(写真6)。

写真6

行政と住民が一体となり復興計画を進めているが、消失した屋敷林がその地域の復興のシンボルとして近い将来また見えるような風景が再現されることを期待したい。

2-4.里山の生い立ち

 1759年6月に尾張藩の作成した文書「木曽御材木方」4)に「村里家居近き山をさして里山と申候」という文があり、初めて「里山」という言葉が現れたとされている。

里山とは集落や人里に隣接した樹林帯で、人間の営みの影響を受けた生態系が混在する領域である。

つまり里山は地域の人々が日常の生活に必要な場所として大切に保管されてきた。日常生活に無くてはならない里山は燃料としていた薪を確保する場所でもあった。食用のための果実やタケノコなどの収穫、椎茸栽培やキノコの収穫も可能なように落葉広葉樹、常緑樹、杉、ヒノキや松などの針葉樹、更には竹などが混在したり、樹種ごとにある程度分離して生育していることが多い。季節によっては防風林になったり、西日の影響を避ける役割も果たしていた。また飲料水や洗濯の用水としての湧き水もある。

我が国においては縄文時代にはすでに人の手が継続的に入る森が出現していたようで、同時代の人が近隣の森に栗や漆の木を植えていたことも明らかにされている。

 しかしながら、天武天皇の時代(670年代)から800年代までに乱伐により畿内の森林破壊が進行し、同地域の相当部分の森林が失われ、1000年頃までには四国の森林も失われ、さらに500年を経た時には日本列島全体で約25%の森林が失われたといわれている。このような森林破壊は木材供給の逼迫と、山林火災の増加、台風時の被害の激甚化、河川氾濫の増加等をもたらした。

このような危機的状況から脱却するために1666年以降徳川幕府は森林保護政策を施し、森林の回復、伐採規制、流通規制を行った。その結果我が国の森林資源は回復の方向に、里山の持続可能な利用が実現に向かった。

里山には人々が日常出入りし、下草刈り、道の整備、倒木の片付け、落ち葉を肥料として用いる腐葉土化のための収集などの活動の場でもあった。そのため人の気配や匂いを感じる場所でもあり、鹿や猪、猿、兎など人にとっての害獣との緩衝エリアとしての役目も果たし、最近大きな問題となっている田畑を荒らす動物による食害も起きることはほとんどなかった。

また屋敷に近いことから風や雨に打たれて発生する音が聞こえ、気候や気象状況も把握することが出来る情報源にもなった。

ところが近代明治維新前後に木材の盗伐、乱伐が横行、その後社会の安定により一時期森林の回復傾向が見られたものの、太平洋戦争で物資の不足による大木の供出で再び禿山が出現した。

 1950年頃から始まった家庭用燃料も化石燃料化により薪、木炭はほぼ姿を消した。また化学肥料の普及、使役家畜の急激な減少、消滅で里山の経済価値が失われた。そのため、近年里山が活用されず、管理が行き届かなくなり次第に荒れつつある。

1960年代になると経済価値の無くなった里山は多摩ニュータウン、千里ニュータウン等に代表されるように次々と宅地化され、消滅した。


3.里山の原点 大分・国東・田染荘(たしぶのしょう)

 八幡宮の総社である宇佐神宮の支配下にあった国東半島は六郷満山文化として神仏混交の場所であり、平安時代の地形、田園開墾風景がそのまま残っている日本でも稀な地域である。江戸時代に描かれた「豊後國田染組小崎村繪圖」(豊後高田市教育委員会所蔵)には溜池を含めた灌漑システム、田んぼや集落の名前等、現在に続く空間の記録が残されている。この村は周辺の山々に豊富にあるクヌギを主体とした広葉樹林の利用、その一部を循環的にシイタケ栽培に利用しており、森とリンクさせた限られた水を効率よく中世から活用してきた。このように田染荘は人と里山、開墾した水田が一体になり700年の時を経て現在に至っている。この荘園を含む国東半島宇佐地域(宇佐市、豊後高田市、姫島村、国東市、杵築市、日出町)一帯は20135月に国際連合食料農業機関(FAO)より世界農業遺産に認定された5。山間部尾根付近に広がる原木シイタケ栽培用クヌギ林が、少ない降水を涵養することが出来る保水力豊かな土壌を生み出し、地域全体の農林水産業の要になっており、人と物理的、生理的、心理的に強い絆で結ばれていることが世界に認められたものである。

図1


参考資料

1)福原博篤「ゆらぎ音刺激に対する生理及び心理的反応」騒音制御工学会誌 Vo.13 P42-46 1989

2)福原博篤「ゆらぎ感覚と音環境デザイン」環境管理 Vo.33 P35-45 1997

3)三浦修「二次植生の保護と保全」季刊地理学 Vol.47 p216-220 Quarterly Journal of Geography 1995

4)「木曽御材木方」徳川林政史研究所蔵

5)林浩昭「世界農業遺産に認定された農林業システムの価値」環境と測定技術 Vol.42 No.6 2015