その後紆余曲折をへてついにホスピスが出来る事になりました。医療者や、関心ある人たちと共に自分たちはどのようなホスピスを作るのか研究と討論を重ねました。そして方針もまとまりホスピスの開業間近になったとき、仲間の一人で法律家でもあった人が突然異議を唱えだしました。先ほどのべたように医療は請負契約で、病気や怪我を治すという事を請け負った、つまり治療を目的として患者を受け入れるのが医療機関の役目である以上、病院の一角にホスピスがあるなら、治療をしないというのは不作為にあたるというものでした。


いまさらなにを言うのかという思いでしたが、しかしそれは大問題でした。それで私はすぐに政府機関に連絡をとりました。すると担当者はそのときすでに日本において2箇所ホスピスが開業しており、その事は問題となっており、まもなく結論が出るということでした。それで仲間の危惧はあながち的外れではなかったという事です。しかし私は楽観的でした。そして法的に問題がないという結論が政府関連機関において出されました。死が間近に迫っている患者に対し、治療を施さなくても不作為にはあたらないというものです。私などは当然と思いましたが、しかしホスピスケアに法的裏づけが付与されたことは、ホスピス運動にも意義のあることでした。


そしてついに関東地域にはじめてホスピスが出来ました。私は日本で最初のホスピスを作ろうと思ったのですが、浜松の聖隷福祉事業団の三方が原病院、大阪東淀川区のキリスト教病院に先を越されていました。しかし日本で数少ないホスピスであるし、何より日本の最大の人口密集地にホスピスが出来たことは意義深いと思っていました。

そして記念すべき第1号の患者が入院してきました。その方は大学の元教授で、針が横におちても痛みで飛び上がるといような典型的な末期のガン患者でした。新聞で関東地方初のホスピスが出来たという記事を読み、遠くから入院してこられたのです。ところがその夜コーディネーター(ソーシャルワーカー)から電話がありました。院長が患者の意向を無視して延命治療を行い、患者と家族がここはホスピスではなかったのかと怒っているというものです。そして院長に申し入れしてもらいたいというものでした。それで私はさっそく院長に電話をしました。院長は我々のホスピスは患者が希望すれば治療をするという方針ではなかったかと反論してきました。それで私は「そうです。患者が希望すれば治療を行うということです。ところで先生、患者の希望を聞きましたか?」と尋ねると院長は言葉につまってしまいした。1年近くも共にホスピスについて散々議論してきたにも関わらず、患者を見たとたん、医療者、医師としての本能的な職業意識はそれらの議論を吹き飛ばし、患者に対する治療をはじめさせたのです。特に院長はガン治療をライフワークのひとつにしていましたから、がん患者をみれば自然と体が動くのでしょう。ホスピスについて散々議論してきた人がそうですから、まして一般の医療者にホスピスを理解させるのは大変なことでした。しかしそれはホスピス運動の本質でもあります。この件であらためてホスピス内の医療体制が討議され、医師団の再編が行われました。


看護士達はみずから希望し、又良く勉強もしていましたから比較的順調にホスピスになじんでいきましたが、医師たちは傍から見ていてもこっけいなくらい、ぎこちないものでした。なにしろ患者に治療を希望しますか、などと聞く質問はあり得ないことだったからです。病院に患者は治療のためいにくるわけですから、そのような質問事態、いままではまったく無意味でありました。又患者にどのような治療を望むかなど尋ねることは医師のプライドにも関わるような質問でもあるからです。しかしホスピスに理解をもつ医師が集まり始め、時がたつうちにホスピスは順調に運営されるようになり、2番目のホスピスも出来上がりました。しかし私は逆にホスピスに対し失望し、関心が薄れてゆきました。


私の頭のなかには欧米のホスピスがありました。死をやすらかに迎え、人生のしめくくりの出来るすばらし場所というイメージです。しかしそれには医療者のみならず、患者の死生感も大きく影響します。最近の米国の世論調査で人間の存在に神が関わっている(つまり神による人間の創造)と信ずる人が70%を超えるという調査がありました。それで欧米人の死生感にキリスト教の影響が多大にあります。キリスト教徒にとり死はすべての終わりではなく、細部に主張の差はあっても、ある意味で一つの始まりなのです。それでキリスト教徒にとり死も生の一部と言うことができます。それで死を受け入れる事が比較的に容易で、ホスピスへの入院にも比較的抵抗はありません。しかし日本人の大半が仏教徒とはいえそれは葬式だけの話であり、本気で死後、極楽にゆけると信じている人は多くはないでしょう。日本人の意識はむしろ儒教的なものですが、それで日本人の宗教信条は別のところにあります。日本人の宗教感については別の機会に論じるとして、日本人は容易に死を受け入れる事は出来ません。スタッフとよく日本的ホスピスという事を議論しましたが、ホスピスにいながらガンの告知を受けていない、あるいは家族の希望で告知をしないというのもめずらしくありませんでした。


ホスピスはやがて緩和ケア病棟として、診療報酬の対象となる医療の一分野となりました。

それとて政府、役人、政治家がホスピス運動に共鳴したというわけではなく、(無論運動の成果にはちがいありませんが)末期ガンに対する高額な医療費が注目され、その歯止めとしての役割の期待の方が大きい事は想像されます。事実米国のホスピスの普及は高額な医療費対策の側面があります。

最初に日本でホスピスが作られ20年近い年月が経ちましたが、いまだに欧米のように50床100床というようなホスピス専用の施設は作られていません。(小さな施設はありますが)殆んどが病院の一部として運営されています。しかしホスピスの思想とホスピスケアについては確実に医療者にも、患者にも広がりを見せました。単にがん患者だけではなく、老齢で亡くなってゆく人にもこの考えをあてはめてケアするという事が実践されるようになりました。これこそ私が当初目指したものです。


人間はいつかかならず死にますが、どれぐらい人間は生きられるものなのでしょうか。

日本人の平均寿命は男性で78歳ほど、女性で85歳ほどです。しかし最近は健康寿命ということが言われだしました。ただ生きていれば良いというのではなく、人間らしく健康でいられるのは幾つぐらいかというわけですが、日本人の場合男性で75歳、女性で80歳と言われています。

日本は世界一の長寿国といわれますが、人間は長生きできるようになったのでしょうか。


聖書のなかで“人生は70年、元気であってもせいぜい80年、ただ悲しみと苦しみを乗り越えてきたことを誇るだけだ”という一説があります。これをモーセが書いたのは3500年も前のことでした。彼はエジプトの王族として育てられ、エジプトの教養を身につけた人でした。エジプト人は人の死後、遺体をミイラにしましたので、現在何万というミイラが発見されています。そのミイラの研究によりエジプト人がどのような病気で死んだか、幾つぐらいまで生きたかということが分かってきています。それによるとエジプト人の平均寿命は50歳ぐらいであったろうと考えられています。昔日本でも人生50年と言われたものです。今でも平均寿命が50年くらいというのは開発途上国で多く見られます。エイズの蔓延している国や一部の国では30代半ばというのもめずらしい事ではありません。

でもモーセはそういう統計の話ではなく、色々な病気や事故などをくぐりぬけてきても、せいぜい人間は7,80歳位生きるのが限度であろう、いいかえれば人間の寿命は神が7、80歳と定められたのだと言っているのに等しいのです。人が人らしく生きるのは7,80歳ぐらいなのでしょう。

現在日本人で100歳を超える人は1万人を超えました。以前であれば100歳になったことは奇跡に近く、大変なよろこびでしたが、しかしそれほど生きて完全に自立できる人はわずかでしょうから、最近の論調は、老老介護(老人が老人を世話する)の問題とからめ悲観的な記事が増えました。 


人の死は事故や急激な症状の病気などを除いて序々に進行します。人間の死とは何でしょうか。何をもって死というのでしょうか。これは単純なようでむずかしい問題です。

私は以前臓器移植をめぐり思想的に臓器移植に反対する人たちと議論を戦わした事がありました。そして実際に臓器移植に携わった医師や看護師の話を聞き、それまで臓器移植に肯定的であった私の意見は変化しました。何故かというと、死んだ人間からは臓器移植が出来ないという私なりの結論からです。そして国により死の定義が違い、ある国では死んだとされてもある国では生きているとされるのです。いずれにしろ死んだ臓器は移植できないのです。死んだと診断されても、髪の毛や髭が伸びることは良く知られたことです。死亡と診断されても体のどこかの細胞はまだ生きているのです。それで絶対的な死は人間の細胞すべてが死にたえる事を意味します。それでそこに達するまで幾多の過程をたどります。


一般に安楽死は安易に認められませんが、尊厳死はだれしも認めると思います。(もっとも安楽死を安易に認める国が最近出てきましたが)この二つはどのように違うのでしょうか。安楽死は苦悶する患者に薬物などで積極的に死を早めることです。しかし尊厳死はあえて延命治療を行わず自然にまかせることです。臨終とは死の瞬間をさすのではなく、文字通り終わりに臨む、つまり死に至る過程を指す言葉です。それで機械装置による無理な延命は延命ではなく、臨終を伸ばすにすぎないという医療者もいます。

死ぬことが人間にとり必然であれば、死も生きることの一部であり、人間が人間らしく生きるためには、人間らしく死ぬこともより良く生きる事の一部ではないでしょうか。


年をとればやがて人は臨終にむかって進んでいきます。体の機能のあちらこちらが失われてゆきます。咀嚼のための歯、目の衰え、耳の衰え、足腰がたたなくなる、糖尿病などのため腎臓が機能しなくなる等々です。それらに対しその機能を補佐し、あるいは代替として色々なものが使われます。補聴器や入れ歯、あるいは透析機などが使われますが、それと延命につかわれる高度な機械と同じにするわけにはいかないでしょう。


70、80をすぎて尚若い人と同じように医療を受ける事が絶対必要だと考える必要はないのではないでしょうか。苦痛を取り除くことそれは死の瞬間まで必要なことです。しかし苦痛がなければ臨終に向かい体の機能が損なわれていくのを良しとするなら、もっと具体的にいうならば老人が医療を受けることを拒否しても容認してもよいのではないでしょうか。今日本人の大半は病院で死にます。なかには自分の死を医療者にゆだねたいと思う人もいるかも知れませんが、多くの人は愛する家族に看取られて死にたいと思うのではないでしょうか。それであれば充分な医療を受けることが出来なくても、患者が自宅にいることを望み家族がそれを良しとするならそれを受け入れるべきではないでしょうか。

もちろん患者が望むなら、どのような医療を受けるか決めること、それは患者の権利です。


では認知症の進んだ患者はどうでしょうか。脳の機能が失われ、あるいは退化した老人は自己決定能力が極度に低下します。それはまるで子供のようです。子供の医療に関する決定権はだれがもつのでしょうか。それは一般的には親です。しかし親があまりに非常識な態度をとれば法的な手続きにより司法が介入することがありますが、普通は子供の医療に関する決定権は保護者にあります。そうであれば自己決定能力の失われた、あるいは低下した老人の医療に関する決定権はその老人にかわり日常の決定を下している保護者にあるとしても違和感はないのではないでしょうか。実際のところ痴呆老人を食い物にする商売などがはびこったり、詐欺まがいのことが社会問題として増えたため、成年後見制度と言う制度が作られました。それは主に経済上の問題を本人に代わり決定します。お金の問題は法律上の制度が完備されましたが、命や人間の尊厳に関する問題は法律ですべて規定出来るものではありません。又人間の行動すべてを法律で律しきれるものでもありません。人間に与えられた良心、倫理感、自然(あるいは神)への畏敬、それらが相俟って決定されるものです。介護を受ける老人、あるいは認知症の老人にかわり決定を下す人が、老人の受ける医療につき、あるいは死に様(生き様)について、老人の望む事あるいは望んでいた事を最大限尊重しつつ、医療につき選択を行うよう誘導し、ホスピスの思想にそった介護、看護を行う事、それが我々に課された使命ではないでしょうか。



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本格的な高齢社会を向かえ、老人のお世話をするのに私はホスピスの精神は欠かせないものと思っています。

ここで改めてホスピスの歴史を概略しますと、ホスピスという言葉はもともとラテン語のホスピティウムが語源です。それは客を迎え入れ、手厚くもてなす場所を意味する言葉でしたが。この言葉を基本として、ホスピタル(病院)ホテル、ホステルという言葉が生まれ、これらはみな英語のホスピタリテイー(もてなし)という言葉に繋がりました。


ホスピスは時代によりそれぞれ違った意味をもち、その役割を果たしてきました。

中世の末期、十字軍の運動と共に聖地エルサレム巡礼が活発となりました。

しかし当時の旅行は大変な苦難で、多くの旅人が病や疲労に倒れました。エルサレムへの経路にあった修道院はこのような旅人を保護し、病や疲れが癒えるまで世話し、再び旅に出ることを援助しました。中には回復することなくそのまま息絶える人もいました。その人には安らかな死を迎える事ができるよう修道院は尽力しました。このような施設が長くホスピスと呼ばれました。


19世紀になって、イギリスで貧しく死を目前に控えた病人を収容する施設がつくられました。

産業革命は都市に住民を集めるとともに、貧富の差をひろげました。最下層の労働者は悲惨な状況にありました。劣悪な住宅に多数の家族が同居し、死の床についたとしても医療も受けられず、死んでゆく人間にも、生きている家族にも地獄のような世界がひろがっていました。そのように、貧しさのため医療を受ける事が出来ない人たちのために、せめて死ぬときぐらいは安らかに死なせようと、病院のような設備はなく、医師も数がすくないか、あるいはまったくいないという状態ですが、死の病にある病人を収容する施設が作られたのです。貧しさ故の喧騒からのがれ、多くの人々がそこで安らかな死を迎えました。それがホスピスと呼ばれました。


マザーテレサはインドにおいて、死にかけている路上生活者をつれてきて、ベッドに寝かせました。今までベッドに寝たこともない人たちが大半でしたが、死ぬときくらいは人間として尊厳ある死を迎えさえようとした活動を繰り広げました。それはイギリスのホスピスの精神を継承するものでした。


そのイギリスで世界の関係者を驚かせ、後に世界の医療界に多大な影響をあたえる事になるホスピスが シシリー・サンダースという女性により1967年にロンドンでつくられました。激痛と、苦しみに面している末期ガンの患者に治療行為を行わず、痛みと苦しみを取り除く医療行為と精神的ケアを行い、安らかに死を迎えさせようという目的をもっていました。


医療の究極の目的は延命です。人間はいつかかならず死にます。その死を出来るだけ遠くに追いやろうとするのが医療です。多くの死に至る病が医療技術の発展により克服されました。それでも克服できない病が多数あります。そのひとつがガンです。日本人も今は3人に1人はガンで亡くなります。なくなる直前、いわゆる末期ガンの苦しみは想像を絶するものがあります。激痛にのたうちまわる事に代表される肉体的な苦しみはもちろん、死期が予想される事にともなう精神的苦しみもあります。従来の医療は延命が目的ですから、1分1秒でも死を先に延ばそうとします。臨終に臨む患者に点滴、人口呼吸器などありとあらゆる装置を装着し延命を図ろうとします。その様子を形状からスパゲッテイ症候群という呼び名まであります。


しかしそのような事でいいのか。言い換へれば単に生物的には生きているとしても、それが人間として生きているといえるのか、という疑問が提起されるようになりました。

そしてクオリティ・オブ・ライフ(生命の質)という概念が高まるにつれ、すべての延命処置がかならずしも患者と家族の幸福にはつながるとはかぎらないという考えが提唱されました。それでシシリー・サンダースは末期ガンの患者に治療することは止め、痛みと苦痛を止めるために麻薬(モルヒネ)を大量に使ったブロンブトンカクテルと呼ばれる経口の痛み止めを考案し、患者の精神的ケアに重点をおいた処置をとろうとしました。しかしこれにはなかなか医療者、特に医師の理解が得られませんでした。

それで彼女は看護師でしたが、(彼女は元はケースワーカーでした)医師免許の取得に挑戦し、医師免許を得て自分の考えを実践出来る場をつくりました。それが世界初の末期ガン患者のためのホスピス、セントクリストファーホスピスです。


私がそのホスピスの事を知ったのは1970年代の半ばのことです。私はそれまで患者や老人の人権に関わる事に多少関与していました。それは主に患者が医療を選ぶ権利に関する事でした。いまでこそインフォームドコンセント(よく説明された上での同意)とかインフォームドチョイス(よく説明されたうえでの選択)といわれますが、当時は“お医者様の言われる事、なさることは絶対”で、素人が口をはさむものではないというのが一般の概念でした。それで医療者の側もすべてを医療者側でとりしきり、患者や家族には結果だけ知らせれば良いという風潮が当たり前でした。

今各地で医療事故が多く起きているように感じていますが、当時医療事故は今以上にありましたが、そのような医療の閉鎖性が、事故が表面化するのを阻止していたのでした。


医療は医療機関にとり一種の請負契約です。医療機関は患者あるいは家族から病気や怪我を治すということを請け負うわけです。建設会社が家を建てるのも請負契約です。家は屋根、壁、床でなりたっていますが、それさえあればなんでもいいという人はいません。家を建てるのにふつうはいろいろ注文を出すものです。間取りはどうするか、どんな材料を使うか、色はどうか。注文者は大抵素人ですから、技術的な事に注文をつける事は少ないにしろ、主要なことは委託者、つまり発注者が希望を述べるのは当たり前のことです。ところが医療に関しては、病気や怪我を治してほしいと患者や家族が病院や医師に委託するわけですが、家を建てるのと違い、医療者にあとはすべてを任せる、あるいは任せなさいというのが当たり前という風潮でした。

しかし私は患者にも医療に注文をつける権利はあるはずであり、病気や怪我が治ればなんでもいいとはならないはずだと思っていました。


“手術をしましたが、手術中に大出血を起こされました。それでお亡くなりになりました。”家族に対しては大抵それでおしまいでした。本当に手術は必要だったのか、何故大出血を起こしたのか、死ぬ病であったのか、色々な疑問があってもそれを言い出せない雰囲気が医療現場にはありました。いろいろ言うと“医者を信用出来ないのか”と怒鳴られるのが落ちでした。


ガンばかりではなく老齢で死ぬときにも“安らかに死にたい”という思いを多くの人はいだくはずです。日本人の多くが病院で死にますが、老齢で死を避けられないと判断されても、病院では最後まで濃厚な医療がなされ、ベッドの上で色々な装置をつけられ死んでゆきます。病院でも畳のうえで安らかに死んでゆけないか。人は生きたように死んで行けないものか。死に様をいろいろ考えても、なかなか希望はかなえられません。それで老人の死に際してはホスピスケアのみならず、老後を支える新たなシステムが必要だと考えていました。


私の老人福祉の実践の原点となったこのような出来事がありました。


ある老人を世話してほしいとキリスト教の組織から依頼がありました。その方はお父さんが日露戦争で戦死し、お母さんも病死され孤児となりました。しかしお母さんの姉妹が有名な私学の開設者で、彼はその叔母にあたる人に育てられました。そしてドイツに留学し医師となり、博士号も取得しました。1936年のベルリンオリンピックのときにJOCに関与するようになり、オリンピック終了後帰国し、東大医学部の講師になりました。ゾルゲ事件が起きた時の情報局総裁、緒方武虎(後の初代自民党総裁)から依頼されドイツにスパイ網摘発のために派遣されました。ゲシュタポと共に、ソ連スパイや連合軍のスパイを摘発していたそうです。ドイツ降伏直前Uボートにのってドイツを脱出、ミズーリ号における降伏文書の翻訳にも携わりました。戦後はGHQの医療顧問をし、その後日本に進出してきたドイツ製薬会社の日本法人の役員をしていました。JOCもミュンヘンオリンピックの時まで関与していたそうです。華々しい経歴でしたが、女性に節操がなかったのが欠点でした。ドイツでも女の人がいて、子供も出来たのですが、彼らを捨て帰国しました。帰国後名家の家族ですからそれなりの人と見合いで結婚し子供も出来ましたがそれも捨て、何人かの女性を遍歴し、最後の女の人と同棲しているとき、入院中に全財産を持ち逃げされ、帰る場所もないので、老人ホームに入る事になりました。東京には空きがないので埼玉の人里はなれた老人ホームに入居しました。そのような人を私は毎週1度訪問しお世話しました。公的な老人ホームは食うや食わずの貧しい生活を送った人には天国ですが、彼のような人には、彼の言葉を借りれば死ぬほど退屈なところでした。


もう少し町に近いところに施設が出来たので、そちらに移りたいとの希望を出しました。

しかし公的な施設から公的な施設は移れないということで、一旦私の家に引き取り、それから新しい施設に移りました。

しかしそこでもなじめませんでした。そこで私が建てた事務所の一郭に部屋を作り、そこへ彼を住まわせました。当時ホスピスや新しい老人ホームをつくろうとしていたので、活気のある事務所の中で、議論に加わりながら彼もそこで人生の最後を楽しみました。やがて彼はガンにおかされ入院することになりました。彼は生前私に安らかに死なせてほしい。延命はしないでほしい。女性や家族に関しては恥ずかしい人生を送ってきたので誰にも知らせなくてよい。葬式も墓もいらない。といっていました。末期ガンでしたから余命いくばくもありませんでしたが、私は所要で海外に行くことになり、一緒に仕事をしていた人にあとをたのみました。彼に別れをつげ、「私が帰国するまであなたが生きているかどうか分からないですね。それでこれが最後になるかも知れません。」と言うと彼はうなずき、「あとはよろしく」と私に言いました。


帰国すると彼は未だ生きていて集中治療室にいました。例のスパゲッテイ症候群というもので、若手の医師は私が身元保証人なので私に病状を説明しました。そして肝臓などが殆んど機能しておらず今生きている、つまり心臓がうごいているのが奇跡のようなものだ、言い換えると、自分がほどこしている延命治療がたいしたものだと言いたげで、この状態であとどれぐらい生きられるか見ものだ、とまるでスポーツの記録更新をするような感覚で私に話ました。しかし本人は人口呼吸器による呼吸でいかにも苦しげでした。私は本人の希望をはなし、無理な延命は止めるように言いました。すると医師は怒り出し、あなたはこの人のなんなのかと私と口論になりました。看護師が止めに入りましたが、無論力づくで医師の行為を止めさせる事も出来ません。


日本ではそのころから診療に対する保険請求はきびしくなっており、余計な治療には保険請求が却下される事が多くなりました。しかし末期がんに対する治療は無条件で認められていました。どうせ死ぬのだから余計な事はするなとはならないのです。懸命の延命のためにはなにをしても良いというわけです。それで1月の治療費が2000万円近くかかったと言うような事例もありました。それで病院にとって末期がんの患者はドル箱になっていました。特にその方が入院した病院は医師に対する給与が診療報酬にスライドしていることが医療界でも有名な病院でしたから、私にはその医師の行為が自分の給与のためとしか思えなかったのです。むろん今思えば、その医師には医学的な関心ももちろんあったでしょう。そうだとしてもそのような状態で1日2日長生きしても殆んど無意味に思えました。


そうこうしているうちに、一緒に仕事をしていた人が家族をさがそうと言い出しました。

私はそんなことは本人の意思ではないと言い、彼もそれは知っていましたが、いざ死が現実のものになると、彼も今までホスピスケアを研究し議論していた事はどこかへ飛び去り、いわゆる常識的な行動をとろうとしたのです。その人の死と、その後の事に責任は追いきれないと言うのです。当時私はまだ30代の前半で彼はすでに50を過ぎていました。私はがっかりしながらも年の功には勝てず家族を探し出しました。


本人はその妻に子供の養育費も送っていなかったということですから、多分関係ないと突っぱねると思っていました。しかし家族はやってきました。上品な気品あふれるお婆さんと息子さんでした。女手一人で子供を育てどれほど苦労したか知れませんが、そのような事はおくびにも出さず、深々と頭をさげられお世話になりましたと言われました。集中治療室に案内すると耳元に口を近づけ「ひろおさん、ひろおさん私ですよ○○ですよ、分かりますか。」と呼びかけました。その声は親愛の情のあふれたものでした。彼女にとって彼は生涯ただ一人の男性であったせいなのか、あるいは良家のお嬢さんとしての戦前の教育のせいなのか、多分両方でしょうが、私にはおどろきでした。しかし彼の息子はたいした感激もなく義務感のような立ち振る舞いで、その訪問の翌日亡くなった彼を常識的なセレモニーで葬りました。


私としては初のホスピスケア実践の場を仲間でさえ実践出来なかった事に落胆しました。実際私の仲間はともに日本初のホスピスあるいは在宅死を実践できる組織を作ろうとして、我々の事務所に全米ホスピス協会にならい日本ホスピス協会埼玉支部開設準備事務所の看板をかかげました。よく人に本部はどこですかと訪ねられましたが私は「まだありません。我々は単に先駆者としてではなく、思想としてホスピスケアを広げたいために発足したので、全国的な運動となったときに本部を作りたい。」と説明していました。

その仲間もホスピスについて研究し、職員に教育もしていました。しかしいざ実践の場になると従来の常識をこえることが出来なかったのです。そのうえ彼自身がガンに侵されました。そして彼はガンを告知されることなく、又家族も告知を拒み、見舞いは偽りの接見となり、本音を話し合うことなく亡くなりました。

共に始めたホスピス運動は絵空ごとであったという喪失感だけが残りました。



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ある書物に古代エジプトの想像画がありました。その想像画はヨセフというイスラエル人の祖先でエジプトの宰相となった人物を描いたものです。その人物の後ろに農作業を描いた壁画が飾りとして描かれていました。そのような事がエジプトにあったでしょうか。この問題を論じるまえにアートについて認識を新たにする必要があります。今我々がいだいているアートに対する感覚は古代人とは違うものであるということです。



そもそも明治にアートと言う言葉が日本に入ってきたとき、その言葉に相当する日本語がありませんでした。それでアートはしばらく美術と訳されていました。文学や、音楽も美術と呼ばれた時期がありました。しかし違和感があるということで、音楽、文学と言う言葉が考え出され、同時にアートは芸術と訳されるようになりました。それで明治以前日本人にはアートという感覚はありませんでした。



たしかに日本の浮世絵はフランス印象派に大きな影響を与えた事は事実ですが、日本においては浮世絵はあくまで芝居歌舞伎の宣伝、ブロマイド代わりで、安藤広重などの東海道53次などは、庶民にとり高値の華である旅行の案内書代わりのものでした。陶磁器、漆器、襖絵なども現代人が芸術性を見出しているだけであり、作られた当事はあくまで実用目的をもっているだけでした。

それは西洋とて同じで、アートという概念は序々に発展し、絵画、彫刻などは元々宗教的実用生の必要があり制作されたものでした。ただギリシャにおいては現代のアートに通じる概念が多少あり、ローマ人もその一部をうけつぎ、それが1000年の時をへてルネサンスに受け継がれました。


当然古代エジプトにおいても同じで、今我々が驚嘆の目をもって見るエジプトの絵画、彫刻もすべて実用の目的をもってつくられました。そのほとんどは宗教的目的をもっています。エジプトにおけるほとんどの絵画、彫刻は定型化したものですが、唯一の例外はアマルナ美術でアメンホテップⅢ世の宗教改革の時代ですが、それとて宗教目的と王の権威付けのための道具でした。神殿に描かれた絵画やレリーフなどは神々への賛美、もしくは王などの権威を高めるためのものでした。


我々がよく目にするエジプトの風俗を描いた壁画のほとんどは墓の中に描かれました。墓は死者が葬られると、永遠に閉ざされました。そしてその場所さえ秘密にされました。

それではその墓に描かれた絵画は誰が見るために描かれたのでしょうか。それは神々に見せるために描かれたのです。故人の生前の生活ぶりなどは神々に対する弁明や、説明のために描かれたのです。古代エジプトにおいて現代のように建築の装飾として風俗画が建物の飾りとして描かれることはありません。


エジプト時代、神殿以外の建造物はほとんど日干し煉瓦でつくられました。エジプトの都市における建造物の材料のほとんどは日干し煉瓦でした。イスラエルのエジプトにおける奴隷労働も日干し煉瓦作りでした。石造建築物が高価である事に加え、エジプトの暑さをしのぐためにも日干し煉瓦は最適な材料でした。宮殿でさえ日干し煉瓦で造られました。しかし日干し煉瓦は耐久性にとぼしく古代建築で日干し煉瓦の建物が建造当事の面影をのこしているのは極めて稀です。



その中で日本の早稲田大学の発掘隊が発見したマルタカ遺跡というのがあります。その遺跡は日本の発掘隊にとって初めて国際的にも評価されたものですが、私などもエジプトの遺跡でめずらしい宮殿の跡ということで大いに期待しました。


最初に出てきたのが階段のステップに描かれた外国の兵士の絵でした。住居にしてはめずらしいものが出てきたと思っていたのですが、その後の調査でそれは宮殿の中にある宗教建造物の一部である事が判明しました。敵の兵士の絵を階段のステップに描く事により、敵を踏みつけてお参りするというわけです。やはり宗教的意味をもっています。


王の寝室あともみつかり、気の遠くなるような作業で部屋の様子が復元されました。壁は植物をパターン化した単純な装飾です。天井は女神や鷲がつばさを広げたような形をやはりパターン化した飾りで覆われていました。


現代の我々が抱くような絵画にたいするアートの感覚で壁に風俗画が描かれるという事は古代エジプトにはないのです。それらはあくまで死者が自分の生前の様子を神々に知らせるために墓の内部に書かれたものです。

現代においても例えば見事に作られた墓石があったとして、いくら出来栄えがいいとしても、自分の執務室に装飾のオブジェとしてそれをおく人はよほどの悪趣味の人でないかぎりあり得ないでしょう。



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