もの言いたげな霊人 (1) | 癒し 天使たちのことば

癒し 天使たちのことば

日々降ろされる霊天上界からのメッセージと共に、
心癒される言葉や、励まされる言葉をお届け致します。


 いつも私達のブログを読んで頂き、誠にありがとうございます。
ここでは天使達の言葉と、神々の物語を中心にお伝えしていますが、今日は少しだけ毛色の違う方を数名紹介します。
私達が言霊を降ろすとき、結界を張って行うのですが、もの言いたげな霊人が来られていますので、致し方なく、結界を張らずに聞いてみました。

 その一連の流れを、皆様に紹介致します。
普段は、ブログにて紹介することはありませんが、世間が少々騒がしいので、特別に紹介いたします。
なお、一気に二部構成で紹介します。
文章が長くなりますので、よろしくお願い致します。
最初の方は、名前を言われない方でした。


名前を言われない方

 大体がそもそも、気に入るわけがないんだ。
なぜなら、そんな神がかり的なことが、あんた達が出来るはずがないと言うふうに思っているし、出来てたまるか。
だから仏法真理とやらで斬ってやったんだ。
こんなもの幾らでも斬りようがある。
誰も踏み込んでいない世界のことを、あんた達は平気でやっている。
そんなものを信じる奴らはいねーだろ。
だから、これはいじめがいがあるので早く反論しろ。

 言葉を変えて言うならば、この、この宗教に関わっている者達のいい加減さ、それが鼻につく、どれ程わかっているかしらんが、それを鼻にかけ、高いところから見下ろすかの様にしている事への嫌悪感がある。
だからできるだけ早く、こちらが透明なことを言ってる間に、お前らが、お前らが反論をして、その反論できなくなるようになってくれることを望む。

 要するに、その霊言とやらをやって、突出したことをしている連中を叩きのめす快感、これを味わっている。仏法真理と言う絶対的なるお守りをもって、その内容でもって斬っていくことをすれば、私自身も皆から注目される。
それは嬉しいことだ。
もっともっと、皆の興味を引くタイトルをつけて、記事を出し続けてやる。

Q:あなたは、会員さんですか

会員では無い、それ以上

Q:「仏法真理とやら」と表現されましたが、ご自身では真理と思っておられますか

真理と思っている。
思っているが、いやあ思っていないかもしれない。
いや思っている。
私の中に、その両方がある。

Q:職員ですか、それとも元職員ですか

元職員

Q:他にありませんか、せっかく出て来られましたので、お話されませんか。

いやいや、その手には食わん。
その手には乗らんぞ。 ん、乗らん。
わかっている、私は見抜いている。
このくらいにしておくのがベストだ。

Q:それではブログを見てる方に、何かありませんか。

ああー、皆に大いに見てもらいたい。
そして応援をしてもらいたい。
私の味方になって応援をしてほしい。
決して、その霊言下ろしの連中の、思うツボになってはいけない。

Q:あなたはアンチではないんですよねぇ

私自身はそのアンチとして活動しようとしているのではなくて、幸福の科学に反対しているわけでもない。なので別にアンチでは無い。

はい、ありがとうございました。

では、次の方をお呼び致します。(未だ数名の方が来ておられます。)


 名前は言われませんでしたが (スターダスト??)的な方

 あなたが、国家転覆を図ろうとしていると言うところに私は反応した。
そう言うことをする者が、この日本にいると言う事を、皆さんにお知らせしなければならない。

 今は、さほど、さほどその転覆の意思は表には出ていないかもしれないが、いずれこれを放置すると、転覆させられる。その様に見た。
これは今のうちになんとかして於かねばならないと、そのために一番効果のある方法を探した。
そーゆーいきさつで、今ここにいる。

 主の方向と言う言い方を持ってするのは、いかにも正しいことであるかのように聞こえるけれども、その内容をじっくりと見たとき、いやこれは言葉に惑わされしてはならぬと言う危険性をはらんでると、言う事に気づいたのであります。

KU:そのような危険な言葉を、またその様に匂わせることをどこかでか書いてましたかね。どのような危険を感じたのですか。

いや突出したもの、これは不安定さを意味する。

KU:え! 内容をじっくり見たときに危険である。と言われましたが、そうではなくて、突出したものは不安定であるから、と言うことに変わったんですか。
要するに何を言いたいんですか。
もう少し正直なところを、お話ししていただけませんか

 主の方向に向かって活躍しているのは私も同じであって、その私が出来てもいないことを、出来るとさもまことしやかに語る存在がある事は、いたって面白くない。
そこで、その危険性等について詳しく説明することをもって、・・・・・

 要するに、単純に面白くないと言うことで、また、間違いを指摘することによって、自分が上であると、お前らのやってる事は間違っていると、それはブログを読んだりして影響を黙って受けている人達に対しても、罪な事であるから、早いうちに芽は摘まなければならない。そーゆー突出したものは、頭を打つ。
そういうことです。

解りました。
ご意見を頂き誠にありがとうございました。

では、次の方をお呼び致します。


「リルケ」 と言われた

 今、話を聞いてたが、あまりにもスマートでなさすぎる。
今のコメント、話は非常に低次元すぎて恥ずかしい。
もう少し、仏法真理を学んでいるのであれば、スマートに議論をしてもらいたいと思う。
その言葉遣いや、言ってることからして、あまり高級な霊でなさそうであるし、しかし、私自身も、その中にも、よく似たことがあるということを否定はできない。
そう思うと、この人に於いても、やはり同じことであって、言い回しや表現があまりふさわしくない、適切でないと言う事はあると思うが、しかし内容としては、要は何を言いたいかと言う所まで絞り込んだとき、わからなくもないと言うことになる。

KU:私に対する批判があるようですが、その事に対してどの様に思われますか。

 そうですね、その人は、少し前であれば、それが非常にもてはやされたであろう、言い回し、表現、解釈の仕方と云うものをもっている方では無いかと思います。

KU:私に対する要望は何か有りますか

はい、もう少し分かり易く、話をしてもらいたいと思います。
言葉が難しいと言う事は、既にそれだけで、総ての事が完結しているので、本来、それが総て調和されている所まで来ています。
しかし、その調和は、おそらく誰からしても調和以外の何ものにも成らないが、彼の世界では理解出来ないだろう。

KU:はい、ありがとうございました。

では、次の方


「まなべ」と名乗られた方

私は元職員です。
今の話をうかがっていました。
それで感ずることがあるのでやってきました。

 私が元職員と言うことになったのは、やはりこの教義に対して私自身が、ある種の疑いを持ったことが原因だったと今は思っています。その時はそういうつもりではなかったのですけれども、要するに疑いを持っていたのだということが後になって分かりました。そして還俗し暫く会員としての活動をしながらやっておりましたけれども、段々に離れていきました。そしていつしか、その遥か外からこの幸福の科学を見るようになっていました。

 そうした時に、私の心の中に去来したものは何かと言うと、かつて同じ部屋で机を並べて仕事をしていたところの仲間、法友、同じ職員の人達のことであります。彼らは今だにその職員の立場でいると思った時に、遥か離れてしまった自分と比較をして、ま、彼らのやっていることに対して批判的に見ている自分がいたのであります。
あの様なことなどを出来よう筈がないとか、あの信仰心などと不惜身命などと言う事、言葉では言っているが、実際は違うのであるとか、そういったことが次から次に頭の中をよぎりました。

 そう思い始めるともうきりがなく、片っ端から総てを疑う思いに至ってしまい、言葉も何もかもマイナスの事を出すようになりました。当然法友のことも、実は大した事は無いんだと思うようになり、自分の信仰心さえも下がっていったと思います。

 それは一つの疑いを持ったところから始まり、果てはそのように成り下がっていくのだと言うことを体験しました。
そうしたときに、その当時はまた霊言などする職員がいなかったのですが、要するに悟りを高めている人達のことをあれこれと揶揄したものであります。私自身の中に非常に彼らを否定する心が出てきたのを思い出しました。
あの様なことなど、よく何時までもやっているものだと言うような思いが、湧いてきました。

 今現在も、私はもう既に会の外にいる者でありますけれども、そうした自分の心の中の「魔」を見せてもらったと、それに気付かせてもらったんだと言う風にして解釈しています。
そしてまた淡々と自分の心を見つめることをやっております。
少しそれに似たような波動を感じたので、やって参りました。

Q:さきほど来られた方に似ているということですか

そうです

Q:先ほどの方も、元職員なのでしょうか

その様に感じます。

Q:少し学びが古い様に感じますが

そうですね、私がいたときと同じ頃の方だと思います。

はい、ありがとう御座いました。
今後も正しき心の探究と利他行を続けられ、信仰心を磨いて行かれることを祈念いたしております。

次にお待たせしている方をお呼び致します。


ツクマルと言われる方

私は僧侶である。
古い寺の僧侶をしておった。
んー増上慢と言う事についてな、んー思いがある。
これはいかん、それはいかん。

 山寺でもなんでもそうだが、一つの寺の主と言うものはその住職としてその寺に命を賭しておるが、長い間その一つの寺の中で住職を務めておると、まぁこれより偉いものはおらんと思うようになる。
賢い僧侶は、いかに悟りを高めたとしても、更に更に悟りを得ようとするものであろうが、そうでない者もまた多い。
我こそが一番偉いと思い込んで、ふん反り返っておる。
私は決してそのような事は無い、うーん、わかっておるぞ。
だが世の中にはそういった連中もたくさん居ると言うことだ。
学ぶこと、修行することを怠っては成らん。

KU:あなた様は今どのような世界におられますか

私のいる世界か? んー、ちーっと暗いのう

KU:と言う事は、増上慢にやはり引っかかったんですか。

その言葉がなぜかしら、いつもちらつく。

KU:と言う事はその増上慢について、反省が必要であると云う事ですね。

私は、その様なことは決してない。
私は、大丈夫である。

KU:んー でも暗いところに居られるんでしょう

ん-、薄暗い

KU:と言う事は、増上慢と言う事について、自分は大丈夫だと云う事が一番の問題かも知れませんね。
私達人間は、少し知った、少しの悟りを得たと思ったとき、大丈夫だと言う思がすぐに湧いてくるものです。しかし、ここに落とし穴がある事もまた事実です。
本当は、この大丈夫だという思いの所を点検することで、更なる悟りへの道を発見することが出来るのだと思います。そこに気が付けば、薄暗いところから抜け出る道が見えるのでは無いでしょうか。

んー そうか、

EO:最近聞いた話しを例に出しますと、やはり職員で「自分はもう出来ている」と「自分はもう分かっている」って言っていた方が、そう思った瞬間に体調が悪くなって、あの世に帰られる事になった。と云う話しを聞きました。
これは、もう自分は出来ている、大丈夫だと思ったと言う事は、これ以上の発展は無いと言う事で、あの世に帰えって、あちらで皆様のお世話をする側に回って頂いたのではないか、とも考えられます。この世に生きていると言う事は、常に常に未だ未だ出来ていない、無限に主へ向かって向上していかなければならないということであり、もう出来上がった方は、それまでであると言う事でしょう

いやいや、この私にそのような意見を言う者など、はやおらん。
だれも言うてくれる者がおらん・・・・・・・・

その後会話が続きましたが、三帰して頂き天上界へと帰って頂きました。

まだまだ、この波長にあった方が次々にやってきますので、次の方を最後とさせて頂きます。

(ブログの容量で、二分活致します。)

つづく


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