ナジュリスが訪れた時にはガダラルは未だ大人しく営倉に閉じこもったままで、彼らしくないと感じるガラス球のような瞳が薄暗がりのどこかを見ていたが、それも一瞬、警戒する獣の様な目がナジュリスを見据える。人が幽閉される場所特有の臭いが狭い空間の中にはどことなく篭っていて、思わずナジュリスは顔を歪めていた。
「あ、ごめんなさい」
それが気に障ったのではないかとナジュリスはすぐに謝りの言葉を口にしていた。
 ガダラルは軽く鼻を鳴らして警戒の色をその瞳から隠すと、いつも通りの不機嫌そうな仏頂面で何だ、と顎をしゃくる。
 心なしかやつれて見える彼に、そんなに長く居ただろうか? ナジュリスはそう心の中で指を折る。四日、いやそろそろ五日になろうとする時間を物語るように、ガダラルの口元は無精ひげに覆われ、そう言えばこんな顔を見るのは初めてではないかとナジュリスはどこか新鮮に思っていた。
 大雑把に見えて、身なりをきっちり整えるのがガダラルであり、いつも当たり前の様に思っていて気付かなかった事が一杯あるのだとナジュリスは微笑みに唇を引こうとしてぎこちなくなる。
 何故ガダラルはあんな行動に出たのだろう。下手をすれば逃亡者の烙印を押され、部下にも累が及ぶだろうと想像できぬガダラルではない。自分では頭が悪いなどと言うが、大陸東部に於いて精鋭と呼ばれた魔滅隊の総隊長が、先の見通せぬ者に務まるものだろうか。
 仲間すらどうでもよくなる程、そんなにあの人との友情が大事だったの? 思いついた言葉はざらつく紙やすりで心を削るようで、ナジュリスは唇をぎゅっと結んだ。
 嫌だわ。これではまるで嫉妬しているみたい。
「よっぽど暇か? 将軍二人ここに遊ばせて」
質問に返してくる気配が無いのに焦れたか、ガダラルはそんな言葉を口にした。
「作戦は終了よ」
「へぇ。それは何よりだ」
「あなたも釈放される事になった。正式な命令の前に、私からあなたに伝えて欲しいと将軍から頼まれたの」
「ご丁寧な事だな。で、伝えるだけが貴様の役目か?」
 相変わらず敵を作る言い方しかしないんだから、とナジュリスはそっと溜息を吐く。
「いいえ。本当はあなたの釈放は将軍の意思ではないの。皇族であられるアフカーン元帥からお話があったそうよ。
 あなたが拘留される前後には混乱し、統制の無いまま皇都に押しかけんばかりだった蛮族たちが、昨日の未明にまるで凪いだ水面の様に静まったとの情報があった。こんな事今までに無かった事でしょう? 将軍は嵐の前、大規模な侵攻の先触れなのではないかと警戒を強めておられたのだけど、政府の方より蛮族との和解に向けての話し合いが詰められている為、武装を一旦解除するよう要請があった……。
 どういうことなのかしら。現場は全くの置き去りだわ。あの人が皇宮に戻った事が切っ掛けになって居るらしい事は分かったけど、ガダラル、あなたの釈放の話といい、何か知っている事があるなら教えて欲しいの」
 ナジュリスの耳を驚かせたのは壁に叩き付けられた拳の音で、ぎくりと怯えたようにナジュリスは憤りを露にするガダラルを見た。
「……知らねェ」
まるで手負いの獣のようだった。酷く流血している魂にこれ以上何も触れるなと、全身が威嚇している。
「ガダラル、お願い……。一人で苦しまないで。私たちは仲間なのだから」
本心からその言葉を紡ぎ、ナジュリスは涙ぐむ。涙など軍人として毅然としている時には見せてはいけないと思っているのだが、自分が幼い頃より知っているガダラルの前では、年相応の少女の部分が時折こうして顔を覗かせた。
「あなたが苦しんでいるのは、私も辛いわ。将軍も、ザザーグ様も、ミリちゃんも、きっと皆同じ思いをしているはず……」
誠意を込めて、ナジュリスは一言ごとに祈るようにガダラルに伝えようとした。この人はどうして周囲を信頼してくれないのだろう、遠慮される事、遠ざけられる事が一番こちらとしては辛い事なのに。
 ガダラルは暫く押し黙っていた。そうして、根負けしたかのように口を開く。
「分かった、分かった。ったく、泣かれちゃ敵わんな、嬢ちゃん。……仕方ねェ」
そうぼやきガダラルは軽く肩を竦めた。そして一瞬尖った苦しみを飲み込んだように顔を歪めたが、再びその唇が開かれた時には違う表情を見せる。
「あいつ程秘密主義者はいない。大事なことは唐突に、断片でしか話さない。余り俺の話を信じるなよ?」
その唇が微かに映すのはふわりと羽毛が舞い降りる様な柔らかな笑みで、そうと知るのが何か辛くて、ナジュリスは胸に握った手を当てた。
ルガジーンがナジュリスに向かって自分たちの中では東部時代の、ガダラルの親友だった頃のラズファードを知っていてガダラルも話しやすいだろう、と言った後に、沈黙に埋もれさせるように小さく付け足した言葉を実感する。
 きっと自分は冷静ではいられないと、彼は言ったのだ。
もし目の前で、ガダラルが何より大切なものを思うようにあの人を懐かしむならば、ルガジーンは酷く苦しむだろう。上司という立場を超えてガダラルに寄せる彼の思いをナジュリスは知っていた。大好きな二人がそのままここに、自分の知る場所に居てくれるならば、このままでいいと願う自分を卑怯者だと知りながら。
「自分が戻らねば、この国は冥府に沈むのだそうだ。冥府の門に閂をする。もはや宰相には戻らぬ、とも言ってたな。
 冥府と聞くと俺は黒き神、そして生贄という言葉を連想するが……。こういう仮説はどうだ? 黒き神の支配が及ばぬよう、その封印を司って来たのが我が国で、蛮族はその盟約の元に我が国を盟主とし不可侵を約束していた。だが、それは生贄のような悪習だったのだろう。あいつはそれを廃止しようとして蛮族どもと意見を異にした。そして不可侵を反故にされたのだと。それを皇宮に戻ったあいつは復古させたんじゃないのか?」
ガダラルが話したのは聞いたことも無い断片で、ナジュリスは思い至った事にはっとしてガダラルを見る。
「それは、ガダラル。あの人がそんな決意をしなければ、この近隣の戦場で死ぬ人も居なかったと言うことだわ。そして戦いを止めさせる事もあの人には容易にできたのに今までしなかったんだわ。
 本当だったら、あの人は責められるべきよ」
「そうだな」
怒りだすかと思えたガダラルの声は意外な程にあっさりと同意を告げて、しかし釈然としない思いを胸に蟠らせたままである事を加えていた。
「ずっと考えていた。あいつがくれた断片は他に無かっただろうか。昔、俺たちが歩む未来を別ったあの日、あいつは、神による滅びという頚木より解き放ちたいと言っていた。なぁ、もしかしてこの国には深刻な闇が漂っているんじゃないのか? 先延ばしにして……」
そこまで言った所でガダラルは大きく目を見開く。
「ガダラル?」
「推理ごっこは終わりだ。去れ」
 ナジュリスはまだ何か言いたげな表情をガダラルに向けたが、もはやガダラルは石になってしまったかのように膝を抱えて顔を伏せ、それを拒絶した。耐え難い何かに黙して耐えるように、ガダラルの肩は時折震えて、恐らく彼の心は他人に己の思いを語れる程にはまだ余裕が無いのだろう、と痛いほどに感じさせて、ナジュリスは掛ける言葉を見失ったままだった。
 薄暗がりの空間は施錠の音と共に再びの静寂に沈んでいた。
 狂おしい程、ただ好きだと繰り返していた、擦り切れるほどその言葉を繰り返し思い出から再生し続けていたラズファードの声が、再びガダラルの心に戻ってくる。
 切り離し残された彼の魂の断片が、ガダラルの側に寄り添っているのだろう。こんなに思われては狂ってしまうと感じながらも、疲れた心が刷り込んだ馬鹿な思い込みと自分に知らせる事もできずにいたそれは、今は別の言葉を話し始めていた。
 私は私を許さぬ。ラグナロクへ至る扉を開放し、多くの命を弄ぶ選択をした責を取らねばならぬ。この手が殺し、積み上げた屍に報いねばならぬ。それは嘆き、もがき、抗い生きる事だ。そして、去る時には咎人として消えよう。誰が許そうとも、私は私を許さぬ。
 常人であればとっくに発狂していてもおかしくない罪悪感を背負い、四年、そろそろ五年ともなろう月日をあの男は生きたか。
「ひでぇ覚悟ばかりしやがって、お前……」
幸せであって欲しい、そう願う心を無残に潰された胸では泣く事もままならず、ガダラルは膝を抱えたまま拳を握り締めていた。