海軍特別攻撃隊員の遺書 (散る若桜) 25 | 針尾三郎 随想録

   海軍特別攻撃隊員の遺書 (散る若桜) 25

 海軍一等飛行兵曹  皆川二三夫

  (神風特攻・八幡護皇隊、大正15年5月11日生。第11期甲種飛行予科練習生。昭和20年4月6日、沖縄周辺にて戦死。19才)


 特攻寸前一言す。

男と生まれての本望ここに味あう。

 母上に育まれてより20年、何一つ孝なる事も出来ず、誠に申し訳なく思い居ります。

 併し、本日あと数時間を期して、敵大型空母に体当たりを敢行、快いニュースを御聞かせします。

 これが私の唯一の孝道であります。

 では出発も間もなき事、これにて御別れと致します。

 では兄上、姉上、皆々様に宜敷く、御元気に御暮らし下さい。

   母上様                 二三夫



 海軍飛行兵曹長  小薬  武(こぐすり・たけし)

  (神風特攻・第5銀河隊、大正10年9月12日生。第8期乙種飛行予科練習生。昭和20年4月11日、喜界ケ島南方にて戦死。24才)


愈々決戦の秋(とき)が来た。いま攻撃の令下る。齢を重ねること20幾星霜、幾多空の決戦に生き残りし吾にも、いよいよ菊水の旗を立てて悠久の大義に生きるべき最後の時は来た。

 一億の期待を双肩に担いて戦いし彼のソロモン群島、マーシャル群島、併邦に、韮(にら)島に、其の勲(いさを)は微々たりと雖も100数10回に及ぶ。索敵・攻撃行には、些か一億の期待を受けし万分の一にも報(むく)ゆるならんと想ひて心安く死地に向かう。

 古人は言う、死は最も容易なりとか。然れども我等が後には一億あり、我死せば我が生命終わる。然れども後に残りし者如何ならん。現時局に於いて、後顧の憂いなきにしもあらず。

 人の運命は解らず、人の命は朝露の如しとか。畳の上にて一夜のうちに不帰の客となれる者あり。それに比ぶれば吾が計画的に死処を選び、死処を得たるを喜ぶ。

 常に想いし南海にて、万里の波濤を乗り越え、赤道の彼方、南海に屍を葬る何と空軍戦士の志ならんや。

 幼き頃より憧れ、あの幾年か見なれし南十字星の下に鵬翼と共に其の身を砕く、我以って本懐とする所なり。父母よ、逢いたくば南海に吾を訪れ給え、南十字星の瞬くところ霊魂あり。其の身朽ちる共、我れあの星のある限り、我が魂魄は祖国を護るならん。

 我幸いにして若輩にて死す。我にも似ず酒量好みしを謝す。然れども其の身清浄にして懸念の程聊かもなきを喜ぶ。ラバウル韮島方面にて最も激戦の中に散りし幾多戦友の後を追いて死し、幾多空の戦友が後に続くを信じて死す。

 死せんとする我が身正に清浄なり。

 父母上よ、知人よ、死せる我が名を呼び給うな。

 聖寿の万歳を三唱して我れ命中す。

 父母上様へ

  第二のお母様。お姉上様へ。            武







火を吹きながらも

     敵の空母を狙って

         突進する特攻機












 海軍一等飛行兵曹  永田吉春

  (神風特攻・神雷桜花隊、昭和2年3月23日生。乙種飛行予科練習生。昭和20年5月4日、沖縄周辺にて戦死。18才)


 打捨てき 此の世の未練なきものと

       夢にぞ想う 父母の顔 (出撃前夜)

 嵐吹く 庭に咲きたる神雷の

       名をぞとどめて 今日ぞいで征く (出撃の朝)

 巣立ち征く 南の空に海鷲が

       帰るねぐらは 靖国の森

 すだち征く やよいの空に今日も又

       帰らぬ友は 微笑みて征く


 拝啓、時下春暖の候其の後皆々様にはお元気にて御暮らしの事と思います。戦いも益々烈しさを加えて参りました。今や国全体を挙げての総力戦と相成ったのであります。私もこの日あるを覚悟のもとに海軍航空隊に身を投じたのです。家の方でも覚悟はして居られる事と思いますがお知らせしておきます。今度私も名誉ある大命を受けまして晴れの決戦場に巣立つ事と相成りました。男一匹死に花を咲かせるからには決して犬死の如きは致しません。必ずや敵空母とさしちがえる覚悟です。見事に若き命に花咲かせて見せます。御安心下さい。

     国の為 若き命に花咲かせ

           玉と砕けん 大君の辺に

 姿無き私が帰って来た時は、決して悲しまず喜んで下さい。そして中途で斃れた私の後を弟や妹につがして下さい。兄の意志は幾分なりとも遂げたつもりで居ます。では吉春は出発致します。一足先にあの世へ行きます。父母様お元気にてお暮らし下さい。最後に生前の不孝を御詫び致し、父母様の御健康をお祈り致します。

 近所の皆様に宜敷く。              さようなら



人間爆弾〝桜花(ロケット)〟特攻機。

上の写真の〝一式陸上攻撃機〟の下部に装着して、目標の近くで切り離して発進させる。

全長6・06m、時速876キロ、頭部爆薬1200キロ、1機で大型艦の撃沈は可能であったが、其の殆どはアメリカ艦隊の護衛戦闘機に撃墜され、当初計画したような戦果は無かった。



 

 海軍中尉  遠藤晴次

  (神風特攻・第28金剛隊、大正12年8月2日生。海軍兵学校72期。昭和20年1月7日、リンガエン湾にて戦死。22才)


 拝啓、天候不良の為今日まで出発が延びました。愈々近いうちに出発するつもりです。今日も朝から雨で山々は雪を頂いている有様で、天候の急変にびっくりして居ります。天候晴れれば勇躍飛行機に乗り出発、○○基地を目指し或いはレイテ湾か?。行く所を知らず、唯大命を仰ぎ待つのみ。

 一度飛び立てば米英何するものぞ、我等○○隊の意気を以ってすれば恐るるものなし。大笑して唯々大義に生くるのみ。

 弟・妹達の教育を宜しく御願いします。それからトランクと行李の二荷物を送ります。又第三種軍装(草色の軍服でネクタイ着用)で撮った戦地姿の写真(長崎で出発前に撮影)を写真店で家に送るよう依頼して置きましたから、御承知ありたい。では弟・妹よ御機嫌よう。

  両親様                            晴次