ひばりノ塩酸事件
あの〝美空ひばり〟が、女のファンに塩酸をかけられたのは、昭和32年の1月13日の夜の舞台のときであった。
ひばりは当時19才。昭和の29年には初めて〝紅白歌合戦〟に出場をして、映画では〝伊豆の踊子〟にも出演をして、翌30年には、江梨チエミ・雪村いずみ、との3人娘初共演映画〝ジャンケン娘〟に出演など、その頃既に大スターの一人になっていたのであった。
そしてこの年、1月11日から恒例の〝ひばり正月公演〟が浅草の国際劇場で行われていた。 大川橋蔵・堺 駿二と小野 満とシックス・ブラザーズが共演をして、〝花吹雪おしどり絵巻〟が演し物であった。
その13日の日の夜の部には〝かぶりつき〟の最前列左の客席に、塩酸の壜をオーバーのポケットにしのばせた一人の女がいたことに、誰も気付いてはいなかった。
ひばりは、フィナレーが近くなってきたので、その近くの舞台の袖で出番を待って待機していた。そして立ち見の客が花道に上がって行くのに乗じてその女も、花道に上がって〝ひばり〟の居る舞台の袖を目指したのであった。
そして、ひばりが歌うために足を踏み出したその時に、その女は『ひばりちゃん!』と声をかけた。と、その時、思わずひばりが振り向いたその時に、その女は、〝エイッ!〟っとばかりに、手に握っていた壜の中の塩酸を、ひばりの顔を目がけて、かけたのであった。
〝その女〟は、ひばりと同年の19才。山形県の米沢の生まれで、紡績工として働きながら定時制の商業高校に通っていたが中退して、住み込みのお手伝いさんとして、昭和31年の4月に上京をしたのであった。その上京をした動機は、ひばりの熱烈なファンであったので、ひばりの実演を見たいがタメであったという。
住み込みで入った家の主人夫婦は親切にはしてくれたが、給料は少なかったという。欲しい物もそんなには買えなかったが、ひばりのプロマイドだけは、2枚ほど買って部屋の壁に貼ってあったという。
そしてひばりの自宅へは何度も電話をしたが、その度に断られて、失望をしていたという。
1月の11日に、住み込み先の家を出たこの女は、部屋に〝自殺も考えています〟というメモを置いてきたという。そして国際劇場で〝ひばりの実演の昼の部〟を見たこの女は、だいぶ興奮気味であったようで、上野の旅館の部屋で、『私は、ひばりちゃんに夢中になっている。憎らしい。あの美しい顔。塩酸をかけて醜い顔にしてやりたい』と、手帳に書いたという。
そして『ひばりちゃん、御免なさい。ゴメンナサイ。ひばりちゃんが醜い顔になって、全国のファンや家中の人が悲しむだろうね』ともマジックペンで、手帳に書いてあったという。
当時は便所掃除などには塩酸がよく使われていたので、その女も塩酸を思いついたらしく、旅館に泊まった翌日にも、ひばりの映画を観て〝ひばりに対する思いを益々強めて〟その帰りに薬局で、工業用の塩酸を一壜買って、旅館に帰ってきたという。
そして凶行の日の13日、再び国際劇場で、ひばりの実演を見て、その楽屋を訪ねたが勿論阻止された。かくしてその女は決意を秘めて、再度夜の部に入場をしたのであった。
塩酸をかけられた時は、ひばりには、それがなんなのか?判らなかったという。そして再び『エイッ!』と、かけられて、顔が焼けるような熱さを感じたという。観客は気付かなかったようで、ひばりの近くに居た付き人の佐藤一夫や、大川橋蔵の付き人である、西村真一と、日活の俳優の、南 博之が火傷をしたのであった。
ひばりの隣に居た叔母のカツ子は驚いて、その女を突き飛ばした。カツ子は部屋に置いてある防火用の水をかけようと、ひばりを引っ張って部屋へ走った。そして結果的にこの水とドーランの厚化粧がひばりの顔を守って、傷は全治3週間と思ったよりも軽傷であった。
その女は逃げようとしたが、ブロマイド屋の斉藤午之助に捕まって、劇場整備の浅草署員に引き渡された。9時50分頃、場内放送で〝ひばりが急病で、最後まで出演できなくなった〟と観客に告げて、客はこのような事件のあった事は知らずに、帰って行ったという。
しかし丁度その時に、4階の楽屋に山口組の〝田岡一雄組長〟がいたのであった。そして後々まで〝塩酸事件以来ひばりの周辺には、山口組の若い者が、人垣を作るようになった〟と言われるようになったのであった。
山口組興行部が神戸芸能社になるのは、この年の4月のことであった。そして翌、昭和33年会長を田岡一雄として、〝ひばりプロ〟が設立されて、社長は美空ひばり、常務はひばりの母親となったのであった。
昭和48年、山口組系益田組舎弟頭のひばりの弟〝かとう哲也〟の出演を止めるようにと、全国でひばりボイコットのキャンペーンが行われた。
塩酸事件後、山口組が全面的にバックアップするようになったことを考えれば、あの事件が、ボイコットの遠因となった。
そしてこの年、ひばりは、NHKから紅白歌合戦をはずされて、ひばりは弟の〝哲也〟を守って、世間と戦うことになったのであった。
○〝戦後事件史データファイル〟より。