天明の大飢饉で人を食った? | 針尾三郎 随想録

   天明の大飢饉で人を食った?




「凶荒図録」の天明大飢饉

 前代未聞の大飢饉であった〝天明の飢饉〟。飢えに迫られた人々は、争って人肉を食べたと言う話しが残っている。しかし、本当に人肉を食ったという事実があったのであろうか?。


 ○片身なりとも、片股なりとも、どうかお貸しくだされ!

 天明4年(1784)東北は八戸(はちのへ)のある鄙びた宿場、宿屋に一人の女が訪ねてきた。

「あのー、こちら様では爺さまが亡くなられたと聞いて、やって参りましたが、ご無心ながら、片身なりとも片股なりとも、どうかお貸しくだされ。私のとこの爺さまも二・三日うちにはカタがつきますで、その節には直ぐにお返しに上がりますので・・・・・」

 一体なんの貸し借りの話か、お判りになりますかな?。その女は、餓死者の出た家にやってきて、その死体の〝片身なりとも片股なりとも〟譲ってくれ、うちの祖父が死んだら返すから、という懇願なのである。


 言うまでもなく、飢えに迫られて人肉を食う話しで、八戸領の天明の飢饉を記録をした〝天明卯辰簗〟に在る一節である。

 この人を食う話は、江戸にまで伝わって来ていた。蘭学者の杉田玄白も、その〝後見草(のちみぐさ)〟に次のように記している。

 「食べられる限りのものを食べつくした後は、死体を切り取って食べて、或いは小児の首を切り、頭面の皮を剥ぎ取って、火の中でいぶり焼いて、頭蓋の割れ目にヘラを差し入れて脳味噌を引き出し、草木の根や葉と混ぜて炊いて食べる者もいたという」と。

 「又橋の下で、死骸を切り裂いて、股の肉を籠に盛っている人が居るので、何にするのかと聞けば、これに草木の葉を混ぜて、犬の肉だと騙して売るのだと、答えたという」

 もう完全に狂気でしかない。いくらかでも正気があれば、出来ることではない。


 そしてこれは、江戸での伝聞だがとして、広まった話しでは、天明5年に津軽(青森)を旅した菅江真澄は(宝暦4年〈1754〉から文政12年〈1829〉の江戸時代後期の旅行家・博物学者、著書200冊)行く先々で、白骨が山のように積まれているのを目にして、驚いて村民に尋ねると、その村民に「これは餓死者の骨だ」と言われて息を呑んだという。

 そして「私らは、飢えから逃れる為に、生きている馬の首に縄をかけて梁に吊るして、刃物を腹に突き刺して、血の滴る肉を草の根と一緒に煮て食った。そして鳥や犬も尽きると、病気で弱っているものを脇差で刺し殺して、その肉を食って飢えを凌いだ。

 人肉を食った者は、目が狼のようにきらきらと異様に光るようになるので、嘘はつけなかった」と泣きながら語ったという。

 なんとも言いようもない、悲惨で陰惨な話であった。


 ○天明の飢饉は、有史以来最大の大飢饉であった。

 日本では、記録に残っているだけでも、欽明天皇28年(567)から明治2年(1869)までの間に、大小225回の飢饉に見舞われ、江戸時代だけでも35回を数えるが、そのうち最大のものはこの天明3年の飢饉で、〝卯年の大飢饉〟として長く後の世まで、語り草になったと言う。


 28年前の宝暦の飢饉以来、飢饉・疫病・洪水・大火と天災が相次ぎ、天明2年にも長雨・洪水で全国の作柄は6割ほど、東北では更に凶作に近い減収であった。

 そして天明3年、年初から暖冬で雪も降らないと言う異常気象であったが、5月の田植え時には逆に冷気が続き、夏でも綿入れを着るほどの低温であった。

 そこへ浅間山の大噴火。麦は腐り、稲は青立ちとなって、完全な凶作となった。


 津軽藩では餓死者8万、人口の3ないし4割にも達した。盛岡藩でも死者6万を数え、人口の2割を失った。全国では死者数十万と言われたが、特に冷害の影響の大きい東北の山間部では、その被害は甚大であった。

 しかし前々から米を大阪や江戸へ廻して、財政を維持してきた東北諸藩の経済構造にも原因があったことは、浅間山の噴火でその被害が大きかったにも拘らず、商品の生産が進んでいた関東では、餓死者はそう多くはなかったことからもうかがえる。

 東北諸藩の被害が大きかったことの原因は、単なる天災だけではなかったのであった。


 ○物静かな日本人が、果たして人を食うであろうか?

前代未聞の大飢饉。-しかし、それにしても、果たして人が人を食うであろうか?。それも日本人が?。

 確かに日本では、食人の風習などは殆ど聞かない。

しかし、記録に残る最古の飢饉の、欽明天皇28年には「郡国(くにぐに)大水出でて、飢えたり。或いは人相食らう」と「日本書紀」にあって、以後もしばしば〝人民相食〟の表現を見る。

 あの太平洋戦争でも、孤島の日本の敗残兵の中には、飢えに苦しんで人肉を食った兵がいたとも言われている。やはり極限状態の中では、食人もあったのであろう。

 しかし大飢饉という異常な状況の中で、集団的な精神錯乱が生じて、食うか食われるかと言うパニックが幻覚として肥大化をして、誰かが人を食ったと言う話しが伝わるや、〝じゃ俺も!〟という異常心理が、〝人を食った〟という話に拡大して行ったのではないのかと。

 天明飢饉での〝人食いの話〟とは、こういうことではなかったのかと、ある史家は言っている。


 ○現代の飢饉

 今の世でも満足に食えない国の民は、かなりな数居ると言われている。(近くでは北朝鮮)でもそれは、国の経済力が弱体である為に自国の民に、食糧を充分に供給できない故にと言われている。

 しかし今の時代は全地球規模で温暖化が進みつつある。もし全地球規模で、農作物が凶作の年が続いたら、どんなことになるであろうか?。

 或いは食糧の争奪の為に、戦争が起こるかもしれない。昔の戦争は〝縄張り争いと資源獲得〟の結果であったろうが。(現在の世界の人口は66億と言われている。そして+-で年に2千万人づつ増えていると言う。地球の養える人口は?)

 国連的な機関が、全世界に公平に線引きでもしてくれれば、結構なことではあるが。

我が国は、島国でもあった故にか、長い間平和な恩恵を享受することができた。しかしこれからは、食糧の自給率の低い我が国の将来は、どんな歩みを辿るのであろうか?。