洪 思 翊 (こうしよく)  | 針尾三郎 随想録

洪 思 翊 (こうしよく) 

 平成元年12月発行の自費出版〝昔の道〟から、・・・・・あの昭和の時代に朝鮮(今の北鮮+韓国)人ながらも、日本陸軍の中将にまで栄進した、洪思翊という人がいたので、その人について書いてみようと思った。


 この洪思翊という人は、昭和20年の日本の敗戦後、戦時中のフィリピンに於ける連合軍の捕虜虐待の罪を問われて、フィリピンの軍事裁判で死刑とされて、21年の9月26日に、絞首刑に処せられた人であった。

 洪思翊は、韓国武官学校に在学中に大韓帝国皇帝の命によって、日本に留学をして、明治43年日韓併合により、日本の陸軍中央幼年学校に編入されている。

 しかし明治40年には韓国の軍隊は、日本によって解散させられていたので特定の人たちだけが、日本陸軍に留学という形で受け入れられたのかも知れない。


 私などは戦時中海軍に志願をして兵学校にいたわけだが、海軍ではついぞ朝鮮人で海軍の士官であった人が、いたという話は聞いたことがなかったので、本で初めて洪思翊という朝鮮人で、中将の人が日本の陸軍にいたことを知って、大変に驚いた。


 昭和52年当時、洪思翊と同じ過程を踏んで日本陸軍の将校となった人は、洪思翊と同期の人と、一期後の人と2名だけ生存していたという。しかし朝鮮出身の将校で、陸軍大学を出たのは洪思翊だけであって、その人柄は温厚篤実で〝この戦争が終わったら国へ帰って、数学の教師にでもなりたい〟と、親しい人たちには語っていたという。

 洪思翊中将は、日本が朝鮮人に強制をした創氏改名には従わずに、最後まで洪思翊でとおして、生涯を通じて明治33年に発布された大韓帝国皇帝の〝軍人勅諭〟を持っていたという。

 この勅諭は日本の軍人勅諭よりもはるかに簡潔であったが、6ケ条であって、

軍人は、忠節を尽くすを本分とすべし、礼儀を正しくすべし、武勇を尊ぶべし、信義を重んずべし、質素を旨とすべし、までは同じで、最後に、〝軍人は言語を慎むべし〟という第6条があったという。

 洪思翊はこの軍人勅諭の精神に徹していたのか、フィリピンでの戦犯法廷では、自分自身のことについては、何一つ弁明をしなかったという。

 日本陸軍に留学中に朝鮮が併合されたことによって、他動的に日本の陸軍軍人とされて、言いたいことや言うべきことは、山ほど在ったと思われるが。

 日本陸軍は、明治29年から韓国併合の前年の42年まで、63名の朝鮮人を受け入れている。しかし併合後は、陸士の45期までその受け入れを停止した。朝鮮出身の将校が増えればやがて、一つの勢力となることを懸念したのであったろうか。


 彼ら朝鮮出身の将校たちは、部隊に赴任しての〝命令布達式〟で、次のように言ったという。

〝俺は朝鮮人である。今日から天皇陛下の命によりこの隊を預かる。今後、俺の言うことを聞けないと思う者は、一歩前へ出ろ〟と。

 勿論前に出た者などはいない。指揮官が朝鮮人であっても日本の軍隊では、〝上官の命令は天皇陛下の命令〟と同じであったから。

 我々が子供であった頃は、大人たちの間では、今の中国の人たちを〝チャンコロ〟と呼んでいたように、朝鮮の人も侮蔑差別の対象であった。そして我々の年代の者には周知のことであったように、朝鮮の人が日本語を話すときには、独特の発音になった。であるから〝天皇陛下の命令と同じ〟とは思っても、指揮する方にもされる方にも、当然に、〝不自然な思い〟が在ったことは想像される。


 そのような背景もあってのことか、その当時の朝鮮出身の将校の中には、部隊を捨てて、抗日戦線に走った者も結構いた。その代表的な人物に 池大亨 がいた。池大亨は大正8年(1919)中尉の時に脱走をして満州に亡命をしたのであった。そして後に中国で朝鮮人部隊〝光復軍〟を日本軍と戦うべく編成をした。そして池は、洪思翊と日本での陸士で26期の同期であった。

 洪思翊が少将で北支(中国北部)で旅団長であったときに、この池大亨から光復軍に来るように、再三の働きかけがあったという。

 当時日本が、米英軍と戦争をしている情勢下にあって、反日抗軍が日本陸軍の少将を引っ張り込めれば、反日勢力にとっては大変な勲章になるわけで、と同時に日本軍にとっては、これ以上のない重大事で、もしも〝日本陸軍の少将の逃亡〟ということにでもなれば、日本軍にとってはこれ以上のない汚点となって、しかも朝鮮の人民の心理に及ぼす影響たるや甚大で、日本陸軍の威信の失墜とともに、大規模な組織的な反日・抗日の導火線になったことは間違いなかった。しかし

 洪思翊は、遂に〝光復軍〟には行かず、そして光復軍に行くことを勧めた子息、洪国善の言葉も斥けて、昭和19年3月、第14方面軍兵站監としてフィリピンに赴任をした。


 この時洪思翊が池大亨の誘いを受け入れて、そして子息洪国善の言葉にも従って、光復軍に行っていたらどうであったろうか。そうすればその後の日本の敗戦・降伏によって洪思翊は、李舜臣(豊臣秀吉の朝鮮征伐の時、水軍を率いて豊臣の軍勢を撃退をした英雄)と、安重根(閔妃を暗殺をした伊藤博文を殺した英雄)と並んで三人目の〝朝鮮の英雄〟と、されたかも知れなかった。(閔妃とは朝鮮の李王朝の26代の王、高宗の王妃で、明治28年の10月8日、日本の軍官民数十名によって暗殺をされた人)

 この昭和18年当時、2月にはすでに日本軍は、ガダルカナルから撤退をしており、米軍の飛び石作戦と相俟って、戦局は不利の様相を否定できない段階に来ていた。当時の洪思翊は当然に戦局を知悉していた筈で、もし洪思翊が、反日・抗日の勢力を結集をして日本軍にぶっつけたならば、日本軍は内面の敵をも抱えて、重大な局面になったであろうことは、想像に難くない。

 では洪思翊はどうして、光復軍に走らなかったのであろうか?。〝洪思翊中将の処刑〟の著者、山本七平氏は次のように言っている。

〝それは、あの当時の洪思翊の立場から言っても当然に、朝鮮人としての名誉を守りとおしたのであったろう、と。戦局の不利を見越して寝返れば、将官となっても、朝鮮人はやっぱり朝鮮人とのそしりは免れない。それにあの当時は、朝鮮人で、召集・徴用・志願・その他で、戦場に赴いた人は、26万2千名の多きに達していた。であるから自分がもし光復軍に走ったならば日本は、これらの人達を、黙ってそのままにして置くわけがないであろう。洪思翊は当然にこのように考えたのであったろう〟と。


 その昔イギリスはインド軍を編成をしたが、日本は、朝鮮人には気を許すわけには行かなかったので、明治40年に韓国の軍隊を解散をさせてからは、韓国軍を編成してはいなかった。

 しかし昭和18年ともなって、戦局が逼迫をしてきてからは、そうも行かずに、急遽朝鮮に徴兵制をしいた。しかし当時、予備役から召集をされて、これら韓国人の部隊の連隊長とされたある老大佐は、〝とても教育訓練どころではなくて、逃亡を防ぐだけで精一杯であった〟と、語ったという。

 フィリピンに赴任する前に休暇で、朝鮮の自宅にいた洪思翊は、たまたま子息国善の友人の、逃亡兵事件に遭遇をした。国善の友人であった兵は、国善を頼って逃亡をしてきた。匿ったところへ日本軍の憲兵の少尉が乗り込んで来て、国善と激しい応酬になったという。

 奥で寛いで酒を呑んでいた洪思翊は、玄関での子息と憲兵との応酬をそのままにもできずに、上衣のボタンをはずしたままの姿でのっそりと、出て行ったという。

 その憲兵少尉は仰天して、直立不動の姿勢をとって敬礼をすると、逃げるように立ち去ったと言う。

 

 戦後になって、韓国人で日本陸軍の将校であった人に、部隊内の差別について聞いた人がいた。将校であったその人は次のように答えたと言う。〝公式にはなかった。しかしその実情は人によった〟と。成る程と思われる。しかし公式にはなかったのこの場合の公式は、多分に日常的な意味合いのものではなかったかと思われる。やはり特別な場合の〝公式〟には差別は在ったようである。

 将官であった洪思翊にですら、重要と目される会議には参集の通知がこないことが時々あって、洪思翊は親しい者に時折、それらに対しての不満を洩らしていたと言う。

 又、韓国出身の将校で連隊長になった人はおらず、洪思翊も連隊長経験を強く希望していたにも拘らず、遂に連隊長にはならずに旅団長になった。その理由や事情は不明であったがどうも、〝韓国出身の将校を連隊長にして、天皇の象徴である軍旗をその連隊長に委ねることに、何かしら抵抗が在ったのではないのか〟と、〝洪思翊中将の処刑〟の著者、山本七平氏は言っていた。

 洪思翊が大尉であった頃、少年であったその子息国善は、常日頃の朝鮮人に対する日本人の侮蔑差別に対して、なんとかならないものかと、父洪思翊に問いかけたことがあった。

 父洪思翊は、次のように答えたと言う。

〝これは大変に困った問題で難しい。そして早急に解決できる問題ではない。これはアイルランド人とイギリス人との問題に似ているので、イギリス人に対するアイルランド人の対し方が、我々朝鮮人の場合の参考になるだろう。

 アイルランド人はイギリスでどんな扱いを受けても、自分がアイルランド人であることを隠さない。そして名前を言う時には必ず「私は、アイルランド人の誰々です」と、言っている。であるからお前もこれからは、必ず「私は朝鮮人の洪国善です」とハツキリ言って、決して「朝鮮人の」を省略してはいけない〟と、答えたと言う。


 立派な答えであったと思う。自分たち朝鮮民族に対して、侮蔑差別がまかり通っている時にこそ、この答えのように、〝民族の誇り〟を堅持しなければ、何時まで経っても自分たちに、明るい光りは見えてこないであろうから。

 やはり洪思翊は、〝朝鮮人〟に徹した人であった。


 しかし戦後は、当然の事ながら、独立を果たした韓国では、親日派として糾弾の対象となって、子息洪国善は、早稲田大学を卒業をして朝鮮銀行に勤務していたが、当時の大統領李承晩の直接の命によって、辞職をさせられている。

 戦後の日本では、我々の年代の者には衆知のとおり、占領軍であったアメリカの総司令部によって、職業軍人であった人や、戦時中に軍に関わっていた人などは、すべて戦後の公職からは追放をされた。


 世の中がすっかり変わってから60年が経った。自分の国の戦争の心配はなくなったが、悪い世相になったものである。せめて命のある間は、これ以上悪い世にはならないでくれと、思ってはいるが。(終わり)