細菌戦部隊 (4) | 針尾三郎 随想録

細菌戦部隊 (4)

 昭和23年1月26日午後3時過ぎに、東京都豊島区に在った当時の帝国銀行椎名町支店で、我が国で未曾有の12名の行員を毒殺をして、現金を奪うと言う銀行強盗事件が発生した。


 そしてこの事件の起こる前に、同様な2件の未遂事件があったことが明るみに出た。

 その1は、22年の10月14日に安田銀行荏原支店で、その2は帝銀事件の一週間前に三菱銀行中井支店であった。


 そしてその何れもが〝厚生技官医学博士松井蔚 厚生省予防局〟の名刺を出して犯行に及ぼうとした。

 しかし2回共行員に怪しまれて退去をして、未遂に終わっていた。

そして帝銀事件の時は支店長が体調不良で休みで、支店長代理の人が応対をしたが「この近くで集団赤痢が発生して、その地区の人が今日この支店に来ているので、GHQの指示で予防薬を飲んでもらう事になった」と言って、


 行員を集めて、それぞれの茶碗にスポイトで第一薬を入れて、自分がそれを飲んで見せて、第2薬は一分後にと言ってそれぞれを皆一斉に飲ませたと言う。

 第2薬を飲んだ行員たちは、忽ち七転八倒の苦しみようで床に倒れ、間もなく死に至ったという。

 予防薬と称するものを飲んだのは16名で、重症の身で助かった者は4名で、あとの12名は即死状態であったという。


 その助かった4名のうちの一人の女子行員は、意識が混濁する中、裏口のドアまで這って行って、近くにいた二人の女学生に、近くの警察の派出所に連絡を頼んで意識を失ったと言う。

 結果としてこの銀行で盗まれたのは、現金が16万余、小切手が1万7千余のもの一枚であった。今の貨幣価値で見ると400万円ぐらいにはなるだろうと思われるが。


 警察は当然に松井博士の名刺を持っていた者の洗い出しから、捜査をスタートした。結果として100枚作った名刺のうち、8枚が行き先が不明であったが、その中で当時テンペラ画家の第一人者であった〝平沢貞通〟が、浮かび上がってきたのであった。

 平沢は青函連絡船で松井博士にあった時に、名刺を交換したと言い、そしてその名刺は、帰京後三河島駅で財布ごとスラれてしまったと言ったという。

 しかしその時に被害届けを出していなければ、それを証明をする証拠はない事になる。


 しかし平沢はあの事件の当日、2時半頃に娘婿と東京駅丸の内の船舶運営会で会っていて、他の数名も見ていたので、時間的に椎名町支店での犯行には間に合わないと言うアリバイは在った。

 そして平沢は日常的に青酸系統の薬品には縁がなかった。

しかし警察が最後まで平沢についての疑念を解かなかったのは、あの事件後銀行の普通預金に預けられた10数万円の預金であったという。


 そして椎名町支店での犯人は、あの日の翌日大胆にも奪った小切手を、安田銀行板橋支店で現金に換えていた。勿論裏書として書かれた住所氏名は、丸っきりのインチキではあったが。

 平沢の写真を見せられた帝銀の行員で助かった人や、未遂に終わったニケ所の銀行の行員たちの反応は、それぞれ〝似ている、似ていない〟は半々であったと言うが、小切手の裏書の文字が平沢の筆跡に似ていた関係もあって、平沢は逮捕をされたと言う。


 なにせ戦後になって時代が変わったと言っても3年目であった。

戦時中サーベルをぶら下げて〝オイ、コラ〟とやっていた警察であった。時代が変わったといっても、そんなに急に変われるわけではない。平沢については上記のような容疑の内容で、あの当時はその逮捕も可能だったのかもしれない。

 なにせ松井博士の名刺は、本人は財布と一緒にスラれてしまったと言ってはいるが、平沢に渡っていたことは事実であったから。


 しかし平沢は警察が最も知りたがった銀行へ預けた金の素性については、全く説明をしようとはせず、頑なにそれを拒否を貫いたと言う。

 なにせ銀行から盗まれた金が16万円で、その後平沢の普通預金に入った金が14・5万円であったというから、前後の関係から言うと銀行強盗との関連を疑われても仕方がない。

 平沢の説明があって、それを警察が調べて裏づけを取って、銀行の金とは関係がないと判れば、或いは平沢は釈放されたかも知れないが、平沢は銀行とは関係がない金だと言うのみで、それ以上の説明は頑として拒否を通したと言う。


 したがってあの銀行強盗事件は、青酸毒物と平沢との線は繋がらなかったが、松井博士の名刺と、預金の素性が不明との線で、銀行強盗は平沢の犯行と断定をされて、昭和の30年に平沢の死刑は確定したのであった。


 GHQと731部隊との関連事項は、次回に記す事にする。